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2008-03-02[n年前へ]

「隣のおじさん落語」と「ジョニーBカップ」 

 「落語的笑いのすすめ」を読んで、あぁ「あの話」は色んなバリエーションの中の一つだったんだ…と気づかされた。

 おじいさんがいた。おじいさんの息子夫妻に子供ができた。その子供は初めて喋った言葉は「おかあさん」だった。すると、次の日…息子の妻が亡くなってしまった。
 そして、しばらくして、その子供は「おじいさん」と言った。翌日、おじいさんが亡くなった。
 数ヵ月後、子供がついに「おとうさん」と言いましたので、子供のおとうさんは「明日が自分の命日か」と受け止めた…。しかし、次の日になると、隣家の男が亡くなっていた。

 20年近く前、スキー場に向かうワゴン車の中で聞いたのは、「(それまで一人っ子だった)子供が、生まれたばかりの乳飲み子に嫉妬した。そこで、寝ている母親の胸にこっそり毒を塗った。すると、次の日、隣のおじさんが…死んでいた」という話である。趣向は少し違ってはいるけれど、これは全く同じ話だ。

 雪国へと走る車中で、「オカマのジョニーはBカップ!」とシャウトした「ジョニーBカップ」もみんな知ってるJohnny B. Goodeのコードで奏でられていたのと同じく、それを聞いて腹を痙攣させながら笑っていたあのクダらない話も、こんな「オチ話」を踏まえたバリエーションの一つだったんだろう。20才の頃に楽しんでいたのも、オチ語や古いロックンロールのバリエーションだったりしたんだ。

Go, go.
Go, Johnny go, go.
Johnny B. Goode.

2008-03-08[n年前へ]

「藤本有紀」と「藤本義一」と「徒然草」 

 NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の脚本家「藤本有紀」が「(放送作家・作家・司会などで有名だっの)藤本義一」の長女だろうかという話が、あった。「ちりとてちん」が上方落語を実に旨く濃縮した味になっているのだから、その作り手はきっと”あの”藤本義一の娘に違いない、という話があった。上方落語家の半生を描いた「鬼の詩」で1974年に直木賞を受賞し、上方文学の研究を続けている藤本義一の娘ではないか、という話がされていた。

 「落語いうのはな、人から人へ伝わってきたもんや。これからも、伝えて行かな、あかんもんや」

    藤本有紀 「ちりとてちん」

 「藤本有紀」は「藤本義一」の血を受け継いだ娘ではないようだけれども、藤本有紀は確かに藤本義一が伝えたいと願ったもの・そういったものの流れの中に、いる。

 何百もの時空を生きて現代に伝わる古典には、それだけの深い理由があるのだと伝えてやらなくてはいけない

    藤本義一 「徒然草が教える人生の意味」

 「ちりとてちん」の主人公が好きなのが「徒然草」で、弟子入りした先の落語師匠は徒然亭の徒然若だ。「徒然」の語源は「連れ連れ(つれづれ)」で、「繋がっていく・続いていく」ということだ。時間や人や社会の流れの中で、同じようなものが、ほとんど変わらずにずっと続いていくことを意味している。

 文化はバトンタッチで引き継がれていくものだと知り、自分もナニかのバトンを手にしようと考えるだろう。それは、なにも文学だけではなく、音楽であり、絵画であり、科学への志向に繋がっていくように思う。

    藤本義一 「徒然草が教える人生の意味」

 そんな「連れ連れ」を、退屈に感じ、あるいは、ひとり寂しくやりきれなくも感じ、時に鬱屈しつつひとり物思いに沈んでしまったりもする。「徒然」という言葉はそんな印象の言葉でもある。けれど、こういう言葉もある。

落語はひとりでやるもんと違う

    藤本有紀 「ちりとてちん」
 それが、つまりは、「連れ連れ(つれづれ)」だ。私には、まだ、よくわからないけれど、そういうものがもしかしたら歴史や人や社会といったものなのだろうか。
 「お前も、その流れの中に、おる」

    藤本有紀 「ちりとてちん」

2008-03-21[n年前へ]

「ちりとてちん」と「地獄八景亡者の戯れ」と「自己言及パラドクス」 

 NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」がもうすぐ終わる。エンディングに近づきつつある「ちりとてちん」では、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を演じる音声が、画面の後ろに流れているシーンも多い。

 もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。

 森下伸也の「逆説思考」~自分の「頭」をどう疑うか~(光文社新書)を読んでいると、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」における、自己言及的パラドックスが挙げられていた。

 このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、…本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。

 森下伸也「逆説思考」で挙げられている「地獄八景亡者の戯れ」での自己言及的パラドックス一つは、三代目桂米朝のものであ り、もう一つは桂文珍のものである。ちなみに、桂米朝のものはこんな感じの「地獄八景」である。

  冥土の歓楽街に、亡くなった過去の名人の名前が豪華に並んでいる。よく見ると、そこに「桂米朝」の名前もなぜかある。
「そないな名の亡くなった落語家いてへんやろ?」
「よう見て下さい。”近日来演”って張り紙してありまっせ」
「なるほど、本人はそれも知らんと落語でもしてるんですやろな」

  桂米朝 「地獄八景亡者の戯れ」

 もうひとつ挙げられている桂文珍のものは、閻魔の前で特技の落語として「地獄八景亡者の戯れ」を披露し始めると、その話の中でさらに、「地獄八景亡者の戯れ」が展開されて…というM.C.エッシャー描く版画のような、「地獄八景」である。

 それにしても、ドラマ「ちりとてちん」は面白い。あと、一週間で終わってしまうのが残念だけれど、本当に旨く美味しい「半年間ほどの短編ドラマ」だと思う。一見長く見えるけれど、短いショート・ショートの連作のような、実はそれが繋がっている一つの短編小説のような、そんな素敵な作りだ。

 その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。

 何ヶ月かすると、このドラマのことも忘れてしまうかもしれない。けれど、何かの折に受ける印象・する選択に、どこかで影響を与えたりしてくれたら良いな、と思う。

2008-04-03[n年前へ]

「NHK連続テレビ小説」 と「11PM(EXテレビ)」 

 NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」が終わった。こんなにNHK連続テレビ小説を楽しみに・待ち遠しく観たのは、「ふたりっ子」以来だ。

 NHK連続テレビ小説と言えば、東京制作と大阪制作が交互に行われているのが特徴の一つである。「ちりとてちん」は大阪制作の女性脚本家だったが、そういえば、「ふたりっ子」もやはり、大阪制作の女性脚本家という組み合わせだった。脚本が大石静だった「ふたりっ子」では、気の強い主人公と将棋の世界が魅力的だったし、脚本が藤本有紀の「ちりとてちん」は、いつでも弱気になりがちな主人公と、主人公を取り巻く人たち、そして落語の世界がとても魅力的だった。

 そういえば、交互に「東京制作と大阪制作が交互に行われる」というと、「11PM(EXテレビ)」を思い出す。11PMは大橋巨泉(東京制作)と藤本義一(大阪制作)が交互に司会をする(もちろん内容の傾向もかなり違う)番組で、その後継番組だったEXテレビは、三宅雄二(東京制作)と上岡龍太郎(大阪制作)が交互に司会をする番組だった。どちらも、比べようもないくらいに大阪制作の方に、私はとても惹かれた。番組に詰まっている荒削りなアイデア・勢い、一見テキトーにも見える、けれど見るからに「その背景」へのこだわりと情熱を感じる(見せる)真摯な雰囲気がとても面白かった。

 ひとつ、思うことがある。「ちりとてちん」にしろ、「ふたりっ子」でも、その結末をどこに置き、結末の先がどこに向かっているように見せるかは、脚本家自身が一番考えていることなのではないだろうか。

2008-04-10[n年前へ]

江國香織の「情緒」と「論理」 

 落語のことを江國滋が語る本を読みたい、と思っている。けれど、残念ながらまだ読むことができていない。けれど、いつか「落語手帖 」「落語美学 」「落語無学 」といった江國滋が落語について書いた本を読んでみたい、と思っている。

 江國滋の長女である江國香織(今では、江國滋が「江國香織のお父さん」と言われることの方が多くなってしまったくらいだ)が書く言葉は本当に素敵だ。情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

 たとえば、この文章はどうだろう。

 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉の一つ一つに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備わっている。双六風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像
 一片の隙間もないほどに、緻密に言葉が積み上げられているのに、江國香織が書き上げる文章は、奇麗なリズムで音が叩かれ・刻まれていく。数学的で、論理的で、必然性と因果性に満ちていて、そして丁寧で優しくみえる。

 子供がそのまま大人になったような人、という言いまわしがありますが、あれは変だと以前から思っていました。誰だってみんな子供がそのまま大人になるわけで、それはもう単純に事実だと思うからです。



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