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2008-05-06[n年前へ]

「社畜」 

 会社に飼われ、自分の足で立てなくなったサラリーマンは”社畜”である。

  荒井伸也(安土敏)"GRAPHICATION No.156"

ノウハウの限界 

 何かノウハウがあるようになってくると、決まった仕事しかできなくなるんですよね。悪く言えば、演習問題の域を出ないものばかりになる。それは、むろんまだ誰も解いたことがないから新しい問題のように見えるけれども、誰もが予想できる範囲のものなんです。
 池内 了「不合理こそが面白い」"GRAPHICATION No.156"

隠された非合理的な部分 

 "GRAPHICATION No.156"

 論文には試行錯誤のところは絶対に書かないんですね(笑)。だから、ある日、天才的な閃きによってそれが発見されたかのように見えるんです。
   赤木昭夫
「君、科学論文はこう読むんだよ」
「大体ずるいキツネほど自分の足跡を尻尾で消していくんだ」
「肝心なところは、アインシュタインもハイゼルブルグも全部隠しておるのや。そんなのにだまされたらあかんよ」
   内山龍雄 via 赤木昭夫
 数学の三段論法のような論理だけで論文は仕立ててあるわけですね。
   赤木昭夫
 つまり、論文には(筋道をたどれるような)合理的なことしか書かれていないわけですね。本当はその裏に隠された不合理な部分が重要なんですね。
   池内 了

2009-01-12[n年前へ]

高等教育の無償化 

さらに2006年には、国連の人権委員会は日本政府に国際人権規約13条c項「高等教育の漸次的な無償化」の批准を勧告した。同項の批准を保留しているのは、日本以外ではルワンダとマダガスカルだけである。だが、日本政府はいまだに勧告に回答していない。
 OECD諸国の高等教育への支出の平均はGDPの約1%であるが、日本は0.5%と最低の水準を低迷している。これを平均値にすれば、私立をふくめた大学の授業料は無償となり、高等教育の無償化は穏当な施策といえる。

白石嘉治「コモンとしての大学」 GRAPHICATION 2009 No.160
国際人権A規約

□13条2項b 高校教育の無償化

 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること

□13条2項c 大学教育(高等教育)の無償化

 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること

2009-03-04[n年前へ]

夜の灯台で繋がる日本列島の姿 

 優れた雑誌を20挙げてください、と言われた時、Graphication は必ずその20誌の中に入る。しかも、無料で送付してくれることも考えてみれば、実にありがたい雑誌である。Graphicationの最新号 2009 No.161 のテーマは、「連」、つまり連なる、ということである。下に引用した文章は、その最新号の冒頭に書かれた言葉である。紹介サイトに書かれている文と比べてみれば、さらに、この号を作らんとした熱意・作っていた際の気持ちが透けて見えてくる。

 人々が分断され、競争に駆り立てられ、揚句の果てにゴミのように切り捨てられる。そんな社会を誰が望んだであろうか。こんな国の施策を助長した経済学者の一人が懺悔の書を書いた。遅すぎる気もするが、いま求められているのは人と人のつながりであり、共に生きるための知恵だろう。

 同じGraphicationの号の中の話だが、日本中の「灯台」の写真とその解説の記事がある。海際にそそり立つ、日本各地の灯台の景色がとてもきれいだ。そこには、こんな文章がある。

  灯台は日没で点灯し、夜明けと同時に消灯する。日本列島の夜の地図を頭に浮かべてみてほしい。日本で最も日没が速い最東端の納沙布岬灯台(北海道)から転倒し、リレー式に最西端の与那国島の西埼灯(沖縄県)に光が灯る頃、日本列島の輪郭が光のリングで結ばれる。これは、140年変わっていないし、永遠に変わらぬ光景だろう。

山崎 猛
 この詩的な言葉を読んでいると、「繋がっていた双生児」をめぐる物語、灯台に引き寄せられていくものたちを扱った、野田秀樹(萩尾望都 原作)の「半神 」を思い出す。
 あらゆる海、あらゆる時間、あらゆる霧の中を押し分けて、剥き出しのまま届きぼくのなかに響く声、…引き剥がすことのできない声を発する装置。(灯台が発する声である)「霧笛」だ。
 萩尾望都・野田秀樹の戯曲「半神」には、「霧笛」のある一部分が引用されていて、交錯するこのふたつのテクストは、まるで「霧笛」のなかの灯台とそれに相対する怪物の声のように、それぞれぼくの霧の中で深い孤独のうちに呼応しあっている。
 「半神」は孤独、決定的なひとつの不在を生きること、について描き、「霧笛」はその孤独な他者へ呼びかける声の乗り越えられなさを描いていると言っていいかもしれない。ともかくどちらも、深い愛についての話だ。



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