2002-07-18[n年前へ]
■抜井規泰「一人の闘い」
最近、新聞記事を「少なくとも前より」注意深く読むようになった。今日は朝日新聞夕刊の抜井規泰という人の「一人の闘い」という記事を読んだ。スポーツ部の記者のようだが、山際淳司が書く小説のような記事だった。
気のせいか、新聞のインタビュー記事は、ほとんどの場合インタビューされる人のセリフで締めくくられるように見える。インタビューされる人の台詞の内のどれを選ぶかが、記者の書ける範囲での精一杯の意思表示、あるいは感情表現なのかな。きっと、そうなんだろうな。きっと。
たまには、記者の「言葉」で終わる記事もあっても良い。
2003-05-04[n年前へ]
■スカしッ屁の風速ベクトル
おならの流体力学 放出口外側のパンツ内側編
少し前まで、米軍のステルス戦闘機などの話をニュースで見かけることが多かった。ステルス戦闘機といえば、それはもちろんレーダーには映らないわけで、「音はすれども姿は見えない、まるでアナタは屁のような」戦闘機なのである。これが通常の戦闘機の場合であれば出撃したりするとレーダーに写ってしまって大きな襲来警報のサイレンとともに迎えられたりするわけであるが、ステルス戦闘機の場合にはそんな襲来警報の音もなくいきなり出現するわけで、いわば音を伴わない「スカしッ屁」のようなオソロしい戦闘機なのである。しかし、ステルス戦闘機もオソロしいのだが、スカしッ屁だって十分オソロしい。何しろ、「音のしないおならは臭い」「スカしッ屁は臭い」とよく言われるほどそのに臭いは強烈だとされているのである。スカしッ屁は、ステルス戦闘機のごとくいきなり我々の鼻腔奥深くに達し、そして姿を現した瞬間にはもう我々の体の鼻の奥にその恐怖の毒ガスを充満させていくのである。
ところで、ステルス戦闘機の恐ろしさはともかく「音のしないおならは臭い」というのは本当なのだろうか?当たり前のように口にされる「スカしッ屁は臭い」というセリフであるが、それは何か事実に基づいたものなのだろうか?そんなことはきっと誰しも一回は不思議に思ったことがあるに違いない。そこで、資料などを調べてみると実際にスカしッ屁は臭いという科学的根拠があるらしい。何でも、音がするしないは大抵の場合「おならの量」で決まるらしく、おならの量が多い場合には音がして、おならの量が少ない場合には音がしないというのである。そして、量が多いおならの原因は穀物を食べた時にでんぷんや繊維質が発酵して発生するメタンガスで、それはほとんど臭くないというのである。ところが、量が少ないおならの場合には、そのおならの原因は肉類の蛋白質・脂肪類が発酵して発生するアンモニア・インドールなどで、これが実に臭いというのである。だから、量が多いおならすなわち音が出るおならは臭いけれど、「量が少ないおなら」つまり音のしないスカしッ屁は臭いというのだ。統計的には「臭くないスカしッ屁は気づかれない」から「気づかれるスカしッ屁は必ず臭い」「だからとりたててスカしッ屁が臭いわけではない」という理屈も成り立ちそうなものだが、そんな理屈はさておき「スカしッ屁」の臭いは事実オソロシいものらしい。
「スカしッ屁」の臭いが事実オソロシいとすると、音もなく訪れるそんなオソロシイ兵器から私たちはどのようにして身を守れば良いのだろうか?音もなくいきなり鼻腔に忍び寄ってくる「スカしッ屁」という恐るべき化学兵器からどのようにすれば身を守ることができるのだろうか?そこはもちろん、身を守るためにはまずはその対象をよく知らなければならないのである。敵を知らずして敵に勝つことはできないのである。「スカしッ屁」から身を守るためには、「スカしッ屁」をよく知らなければならないのである。別にそんなことを知りたくもない、という気持ちはもちろんココロの奥底に強く強くあるのだけれど、身を守るためにはそんなことは言っていられないのである。自分のみを守るためには、私たちはおならについて少しばかり考えてみなければイケナイのだ。…というわけで、今回はおなら(毒ガス)が体内から放出(放屁)されたのちに、オナラ放出口近辺で起きている現象を考えてみることにしたい。
今回は、まずはオナラが体内から外に放出された瞬間を考えるために、とりあえず「音のするオナラ」と「スカしッ屁」が「黄門様」から放出されたあとの噴出風速ベクトル(放屁ベクトル)をナヴィエ・ストークス方程式の計算エンジンにNaSt2Dを使って計算してみた。計算領域は放出口の外側、パンツの内側というごく狭い領域である。計算領域の左中央辺りに黄門様が位置しており、計算領域の右側にはパンツがある。また、ここではパンツと言ってもビキニやブリーフのようなピッタリお肌に密着タイプではなく、トランクスのように肌との間に空間が存在するタイプを仮定している。そして、「音のするオナラ」の場合には強く早く小刻みに「ブーッ」っとオナラが放出口から放出され、「スカしッ屁」の場合には「スーッ」と弱~くオナラが黄門様から放出されることにしてみた。下の二つのグラフが、そのようにして計算してみたオナラが出たときの黄門様の外側パンツの内側における「音のするオナラ」と「スカしッ屁」のオナラ噴出風速ベクトルである。音でいうなら、左が「ブーッ」で、右が「スーッ」なのである。
もちろん、言うまでもなく上の計算は実に大雑把で簡易的なものだが、「音のするオナラ」の場合には、おならの風速ベクトルの方向が刻々変わり、またその大きさも大きいことから、放出口外側ですぐに急速に拡散してしまうことが予想される。すなわち、毒ガス濃度がパンツ内ですぐに薄まり、おならガスの危険度が低下していることが判る。黄門様の外側パンツの内側でおならガスが急速に拡がっているようすが目に浮かぶようである。絶対に、目に浮かべたいとは思わないのだがこのグラフを見るとそんな様子がまぶたの裏にまざまざと浮かんでしまうのである。
それに対し、「スカしッ屁」は「スー」っと滑らかに出るがために毒ガスが拡散せず、放出口を出た後も毒ガスの危険濃度を保ったまま「まとまったガス雲」として戦隊飛行を続けていくことが予感される結果なのである。「スカしッ屁」はその毒ガス成分だけでなく、そのガス拡散度合いも考えてみる価値もあるかも知れない(考えたくないが)、とも思わせるのである。
というわけで、今回は何とも中途半端な計算をしただけで、オナラの風速ベクトルを予想しそのオナラの運命に考えを巡らせてみたのであるが、その中途半端さには実は理由がある。何しろ、これまでスクール水着、疑似オッパイ、山本式エアコンなどさまざまな物体に対する流体計算をしてきたが、今回の黄門様近くのスカしッ屁の風速ベクトル計算ほど何ともやる気がおきず、気が乗らず、頭の中で計算対象を想像したくないものも初めてなのである。対象物を強く心の中でイメージできなければ、まともな予想などもできないわけであるが、どうにもパンツの中のオナラをイメージしたくなかったのである。そのせいで、どうにも中途半端な結果になってしまったのである。
あぁ、こんなことではオナラから身を守ることができないぞ、おならを心の中で強くイメージしなければイケナイぞ、と強く自分を戒め、続編へ向けてがんばらなければと思う今日この頃なのである。が、しかしまた、おならを心の中で強くイメージするのと、オナラから身を守るのであればどっちが重要か少し悩んでしまい、続編もちょっと…と思ったりもする今日この頃なのである。
2004-02-11[n年前へ]
■「メイビー、君は俺を好きになる」は「100%…Soかもね!」主義か?
どうにもイヤンな感じなストーリーではあるけれど、月曜21時のドラマ「プライド」をたまに観る。「ホッケーのシーンがどうにも無理があるなぁ」なんて思いながら観ていると、「メイビー」という言葉が連発されている。木村拓哉演じる主人公が「メイビー、君は俺を好きになる」なんていうセリフを連発している。
maybe=確率半々ってところだろうから、これは「君は俺を好きになるかも、ならないかも、どっちに転ぶかはよく判らないけど」というようなニュアンスなのだろうか。うーん、結構謙虚な台詞を吐く優柔不断な主人公なんだろうか?
といっても、テレビを観ていて受ける感じでは「君は俺を好きになる、あぁ間違いなくね」くらいのニュアンスに聞こえてしまう。謙虚どころか断言調の台詞をやたらに語る命令口調主義の主人公に見える。
これはやはりアレだろうか、今は懐かしシブガキ隊の「100%…Soかもね!」に始まる「かもね」=「確率100%」思想なんだろうか。「かもね。かもね。そうかもね」と言ってるにも関わらず、「100パーセントそう(かもね)」と断言してしまう、「かもね」=「100%そうだ」の希望的観測主義なんだろうか?。
…どっちなんだろう?「プライド」の「メイビー」って、どの程度の確率の「メイビー」なんだろう。あぁ、知りたい。知ってどうになることでもないけれど、何故か知りたい今日この頃。
2004-06-11[n年前へ]
■「1人称で語れ。」
私は著者の主張のいくつかに反対である。戦後の平和主義はあやしげなものだったと考えている。死刑を完全に廃止せよとはいえない。最近日本は狂いだしたというセリフは聞き飽きた。ついでに、W杯の前からサッカーが好きだ。 しかし、一つ全面的に賛成するメッセージがある。1人称で語れ、語れなかったことを他人のせいにするな。自分への怒りと憎しみを他人への憎悪と不信にすりかえるな。それさえしなければ、世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。 かつてすりかえた経験のある1人として、私も同じことをいいたい。
価値があると思うものも価値がないと思うものも、愛すべきものも憎むべきものも1人称で語るのが良いかもしれない。当然のごとく、それに対する応答はその一人称に帰ってくるわけだが。 from 日日ノ日キ