2010-06-05[n年前へ]
■リスクを背負いつつその可能性に賭けることができる人たち
川合史朗さんが、「選ばなかった人」の物語(「選ばなかった道」)に続き、その逆の場合、ある「選んだ人」のことについて書かれていました(「選べる人が選べばいい」)。
でも正直に言って、自分が食えるかどうかという不安など、「従業員に来月の給料を払えるかどうか」という不安に比べたら、吹けば飛ぶような悩みにすぎない。その点で、私は人を雇って事業をしている人は尊敬している。
「このチャンスに乗ることを選んだら大変な思いをして、きっと選んだことを後悔する。けれども、選ばなかったらもっと後悔するだろう。」
そう心底思える人だけが、選べば良いのだと思う。
ふと、以前考えたこと、経済学者の栗田啓子先生に話を聞きに行った時に手帳に記した内容を思い出しました。その内容をもとに、書籍用のコラムに変えたものの下書きを引用すると、このようになります。
「賭けることができる人」が経済を動かしてるここで登場するリチャード・カンティロンは、18世紀に生き、放火事件で亡くなり、召使に殺されたとも言われている人です。
「経済学88物語 」(根井雅弘 編)で栗田先生がカンティロンの著作「商業試論」を紹介されています。読んでみて、とても興味を惹かれたのが「市場の動きとなる企業者(アントレプレナー)の本質は、不確実な利益のチャンスを選択するということだ」という内容の部分でした。
”成功するかどうかわからないチャンスに賭けて、そこに向かって走り出すことができる人たちが、企業者であり・経済の市場メカニズムを動かし続けている軸なんだ”という280年も前に書かれた言葉は、今の時代をも、やはり的確に表現しているように思います。
いろいろな技術分野で、確実ではない可能性があるときに、リスクを背負いつつその可能性に賭けることができる人たちが社会を回し続けているのかもしれない、となぜか納得したのです。
「アントレプレナー」の訳語としては、「企業者」という言葉を使う人が多いようです。本来、意味が同じで、発音も同じである「企業者」と「起業者」ですが、経済学素人の私には少し違う言葉に見えてしまいます。
「自ら会社を興し、新たに事業を手がける人」(Wikipedia)というアントレプレナーの意味を考えると、「起業者」という言葉の方がふさわしいようにも思えます。 私のような経済学素人には、歴史の中の「企業者」という言葉は「起業者」と置き換えながら考えた方が、わかりやすいのかもしれません。
コラム以外の部分では、アントレプレナーの訳語としては、(翻訳語句が作られた)歴史的な背景もあり、企業者という語句を使いましたが、私は「起業」者という言葉の方が今でも「わかりやすい」と感じています。
だから、企業者という言葉を起業者と置き換えて、もう一度、その前半の言葉を書き写してみることにします。
”成功するかどうかわからないチャンスに賭けて、そこに向かって走り出すことができる人たちが、起業者という存在であり、その起業者が、経済の市場メカニズムを動かし始める軸なんだ。”
2011-03-17[n年前へ]
■原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理してみました
海外にいる親戚から、昨日、こんなメールが届きました。
福島第一原発の1・2・3・4号機を「それぞれどのようなシークエンスで収束させようとしてるのか」「どんなリスクがあって、どんな対策が講じられているのか」「最悪の場合には、どんな可能性が考えられるのか」といったことについて全く説明されていないように思う。インターネット上で探してみても、そういった情報が見当たらない。説明不足のことばかりだ。というわけで、「ないなら作れ」の精神で資料を作れ。…「ないなら作れ」と言われても困る…それに「ないなら作れ」ではなくて「「ないなら作る」じゃなかったか?…と思いつつ、私もちょうどそんなことを知りたかったので、原子力発電所(軽水炉)における「想定リスク」と「想定対策」および「緊急非常時の対策」…そして「福島第一原発の現状」をまずはざっと整理してみました。それが、下のスライド(画像)です。「スライド1枚でわかる原発想定リスク・対策と福島第一原発の現状」です。
このスライドは、主に二つの観点から、つまり、
■「核分裂の臨界状態による災害」
■「放射性物質の拡散による災害」
に対する防御策(しかし起こりうるリスクと対策)などを整理しようとしたものです。たとえば、「原発には五重の防護壁がある」と言われる部分「放射性物質の拡散による災害」を防ぐための(=放射性物質を内部に閉じ込める)ためのものになります。そして、それらの「想定ストーリー」に対する「福島第一原発の現状」を付記したものになります。
「原発想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」
ニュースで報道されていることがらを、このスライドを眺めつつ・追記してみれば、少しは「現状のシーケンス」がわかりやすくなるかもしれません。
勘違いしていることや、情報を取り違えている(最近の)情報部分もあるでしょうから、ここに貼付けてみたのは、まずは「とりあえず」の資料です(要修正点などについては、jun@hirax.net までご連絡下さい)。
資料を作ってみて「なるほど確かにそういうものかもしれない」と(思想的な面でなく、システム工学的な観点から)感じさせられたのは、「原子炉には、よく五重の防護があるといわれています。…(しかし)いちばん肝心なところは圧力容器だけで、まったく多重にはなっていません。(中略)一挙に全部壊れてしまう事態が起こるので、このような多重性は意外ともろく、あまり意味がないのです」とか「核燃料サイクル全体を五重の壁が覆っているわけではない」という高木仁三郎の言葉でした。
なお、「想定リスク」と「想定対策」および「緊急非常時の対策」については、設計段階から考えられているものであり、今回固有のものを指しているわけではありません。
2011-03-19[n年前へ]
■「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」の法則
原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理した時に感じたのは、安全性を問われた時にするだろう「最後の砦(説明)」は、結局のところ「ベネフィットとリスクを天秤に乗せたもの」なんだろうと思います。「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れざるを得なかった」という納得です。
それは、原発のリスクに限らずありとあらゆると同じく、一番最後に考えることでもあるかもしれないし、一番最初に考えることであるように思います。それは「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れるという選択・判断」です。
端的な例を挙げてみれば、それはたとえば「アメリカ産の牛肉から(狂牛病に)感染する確率は、自動車事故で死ぬ確率より小さい」の法則です。「○×の確率は自動車事故で死ぬ確率より小さい」というのは、「安全」が話題になる時に、いつも出てくる定番のセリフです。絶対安全というものが存在しない以上、安全は「安全でない確率を比較する」ことでしか評価し得ないというロジックです。興味深いのは、「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」という論理が、時には受け入れられ、あるいは、時に拒否されることもある、ということです。
下のグラフは、さまざまなことにおける、そんな確率を並べたグラフです。ベネフィットとリスクを天秤乗せて・悩み続けていくのが私たちの毎日なんでしょうか。
2011-04-15[n年前へ]
■「リスクとチャンスの世界」へ向かうエネルギー
(リスクもチャンスもある-かもしれない-)外へ外へと向かっていくそういうエネルギーがなかったら、人類はいまだに洞窟の中で暮らしてたんだろうか。
イラクと幕末
2011-04-28[n年前へ]
■「進む」私たちが「できる」こと
小学校の教室に避難している人の後ろに、こどもたちが習字で書いた「進め」という紙がたくさん貼ってありました。教室にこどもたちがいた頃にすでに貼られていたはずの、こどもたちが墨汁で描いたはずの「進め」という言葉を眺めました。
原発が事故を起こしてから、いわき市内の学校内で「水溜まりが乾いた跡などで20μSv/h以上の出力を線量計が出している」という実計測結果を聞いていました。そんな数字を知った上で、その後にどんな選択をしていくかという選択には、「答え」などないのだろうと思います。こどもたちに背負わせたくない「リスク」という名の厄難と、彼らにプレゼントしたい可能性と、それら「いずれも確実なものでないもの」を天秤にかけ・そのいずれかを選ぶということは、容易にはできないことに思えます。
教室の後ろの壁に貼られていた習字のように、「進む」ことしかできない私たちは、適当なヒューリスティックス(曖昧な経験則)にもとづいて、行き当たりばったりの判断を(過去そうであったように)未来永劫し続けなければいけないのだろうと考えます。
けれど、「進む」ことしかできない私たちでも、「簡単にできる・ささやかだけれど役に立つこと」があるのではないかとも考えます。根拠もあやふやなリスク見積もりでなく、より大きな要因を勘定に入れない精度が確かな計算でもない、「何か」がたくさんあるようにも思えます。
たとえば、長い休み明けの校舎にたまった(放射能を帯びた)ホコリを、こどもたちが登校する前に、ダスキンモップを持った年老いた大人たちが掃除するなんていうことは、(たとえば、休み明けに雑巾を持ったこどもたちが溜まった埃を拭き掃除するということに比べれば)たいしたリスクを伴わずにこどもたちへの大きなリスクを避けることができる、伊東家の食卓的な役立つ「知恵」に思えます。
「イソジンガーグルをそのまま飲むとお腹がもたれるから、ビタミンCを適量トッピングして中和させたものをこどもには飲ませた(笑)」と小名浜近くの人が軽く話すのを眺めながら、あぁこういう言葉こそが「知恵」というものなのだろうかと思わせれました。
「進む」ことしかできない私たちが(選択に悩むことなく)「できること」とは何だろうか、そのために必要な「知恵」というものは、一体どのようにすれば手に入るものなのだろうか?と考えます。その「答え」は、他の誰か(何か)が教えてくれるものではないということを、この春知ったような気がします。