2009-01-14[n年前へ]
■作家と技法
いま、技法と書きましたが、いわゆる識者と呼ばれる人種は、この言葉を毛嫌いするようです。(中略)彼らは<作家の思想が技法を選ばせる>という切実な事実を知らないのです。もっというと、技法こそ作家の思想の結晶なのです。(中略)書芸術においては、作家の思想は魂の底で暴れ狂っている”なにものか”であって、それに名付けたり、それを言葉にしたりできるような代物ではありません。その暴れ狂っている”なにものか”を表現可能なものにするために、作家は技法という回線を敷き、その回線を通じて、その”なにものか”を自分の外へ採り出すのです。そこでわれわれ観客・読者は、作家と逆の操作を行う必要があります。作家の駆使する技法という回線を逆に辿って彼の魂の底へ降り立つわけです。このとき、われわれは観客・読者としての実力を問われます。つまり自分に思想のない人間に限って、つまり自分に思想のない人間に限って、技法という回線を辿り損ねて作家の魂の底に降り立つことができず、つい、「おもしろいけれど思想の浅さは否めない」などと口走ってしまうのです。
井上ひさし 「野田秀樹の三大技法」
2009-08-23[n年前へ]
■努力をしないで、才能がある・ないと言っているのはつまらない
「パネルクイズアタック25」の司会者、児玉清が(これまた)25人の作家にインタビューした児玉清の「あの作家に会いたい」 から(25人の作家の人選もまた素晴らしい)。これは、夢枕獏の言葉と、それに対する児玉清の言葉。
自分に才能があるかどうかわからないため、努力して努力して、二十四時間をそのことだけのために使う。そうやってようやく神は自分に何を与えたかがわかるわけで、才能を競い合える場所まで行けるのは努力した人間だけです。
そこまで努力をしないで、才能がある・ないと言っているのはつまらない話ですよね。
2009-08-27[n年前へ]
■課題解決の結果生じた次課題を解決することが小説を書くということ
児玉清が25人の作家にインタビューした児玉清の「あの作家に会いたい」 から角田光代の言葉。
Aという小説で私なりにあることができたと思った時に、(その結果)Bという課題が生まれたとします。すると、次にBの課題を入れ込んだ小説を書くというふうに、「読み手に向けて」よりは、「自分の中にある課題を片付けていく」というのが近いですね。
この言葉は、「ひとつの疑問をべつのかたちの疑問に有効に移し替える作業」に書いた、村上春樹の言葉と合わせて読むと興味深い。
2009-09-09[n年前へ]
■型の中に静かに収まっている、すべてを削ぎ落とした一行に
児玉清が25人の作家にインタビューした児玉清の「あの作家に会いたい」 から、小川洋子の言葉。
俳句とか数式とか、型の中に静かに収まっている、すべてを削ぎ落とした一行こそが、実は最も美しく、最も多くを物語っているのかもしれません。
2011-01-09[n年前へ]
■「自己」と「周囲」を観察する機会
”各種文学がどのようにモノを描いているか”という視点から文学を眺め直す、斎藤美奈子「文学的商品学」の最終章「平成不況下の貧乏小説」から。モノ=目の前にあるさまざまなことを書くことや、自己を書くことの意味を宣言する最終段落で。
なお貧乏が「書くこと」に結びつく。これって不思議じゃないですか?明日のパンを心配する人が、原稿用紙やワープロに向かうだろうか。それは彼らが「最底辺の貧乏」ではない証拠ではないのか。
(松井計『ホームレス作家』の文章をひきつつ)極限の生活の中で、彼もまた「書くこと」を選ぶのです。書くことでも読むことでも、あらゆる知的な作業には、人間の尊厳を取り戻す力がある。そうなんです。残念ながら、ここは素直に認めなくてはなりません。人はパンのみに生きるにあらず、なのです。
ただし、書かれたものが人の心に訴えるかどうかはまた別の話しです。『ホームレス作家』が読む人の心を動かすとしたら、「事実の重み」ゆえではなく、「事実の抽出」に優れているからです。そして、優れた作品は、必ず「パンの描き方」に秀でています。なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に事故と周囲を観察する機会になるからではないでしょうか。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。
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