2002-09-25[n年前へ]
■「木漏れ日」プラグイン「リン」 バージョンアップ
バージョンアップして、レイヤーの問題を解決したハズ。原因は初期化でのミス。初期化をミスると半透明の表示になるのがちょっと不思議。(リンク)
2003-03-25[n年前へ]
■結城さんでさえ…。
結城浩さんのサイトでさえキッズgooのフィルタリングに拒まれる(ページもある)のである。当たり前だが、キッズには入れない大人のサイトは多いのである。大人の世界はキッズの世界よりもずっと広いのである。
とりあえず、どの単語が原因かをキッズgoo危機一髪でささっと調べてみようとすると、「キッズgoo危機一髪」自体がNGになってしまっているようで、どの単語が原因だか判らなかった。他にも「キッズgoo危機一髪」みたいなチェッカーはあったかな?と思ったところでタイムアップ…。
2003-04-26[n年前へ]
■PowerPoint擁護論
「パワーポイントがプレゼンテーションをダメにする」を読んでいくつか思ったのである。
「パワーポイントで常にスライドを映しておくと」→ "W" もしくは "B"ボタンを使うべし。"W"、"B"ボタンを使わないPowerPointユーザーがPowerPointを語ってはイケナイ。
「喋り手は殆どその資料を読んでいるだけという状況になる」→PowerPointの典型的な書式の文字の大きさで本当にそんな資料が作れるだろうか?それは文字サイズを自分自身で小さくしていまってはいないだろうか?PowerPointのよくある書式ならば、一枚につきほんの2・3行にしかならないのではないだろうか?つまり、悪いのはPowerPointではなく、その特性をあえて無視するユーザーではないのだろうか?
「大勢の前で話すときの7つの原則」で書かれているような内容はとても素晴らしく、同意できる。しかし、PowrePointは必要以上に攻撃されることが多いと思う。特に、"W"、"B"ボタンを知らないユーザーがPowerPointを否定するのは少しおかしな話だと思う。
そしてまた、「PowerPointの書式を無視して文字を小さくするユーザーがー多い」という問題点だが、よくある企業内技術系ユーザーの「プレゼン用の資料と配布・保存用の資料を別に作る時間的余裕などは無い」という現実を無視しして話すことはできないと思う。
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だから、「パワーポイントがプレゼンテーションをダメにする」の「パワーポイントを使いさえすれば、プレゼンは一応の体をなす」という書き方はに大いに疑問を呈したい。そのプレゼンは本当は「体をなしていない」のではないだろうか?それを「体をなす」と言ってしまうことこそが、一番の「プレゼンテーションをダメにする」原因ではないのだろうか?
もちろん、結局の所は
パワーポイントにいたずらに否定的でいても仕方がない。パワーポイントを効果的に使うことで、以前より優秀なプレゼンテーションを行う技術を身につけ、そのような使い方をするのなら、それこそ本当に望ましいのだ。しかし使い方によっては、パワーポイントのためにプレゼンが死んでしまうことがある。そうならないように気をつけたいものである。何よりも、プレゼンテーションの主役は、パワーポイントでもなければ手元の資料でもない、あなたの情熱と口舌そのものであることを忘れてはいけない。という意見に大いに賛成なわけであるが、単にタイトルと「パワーポイントを使いさえすれば、プレゼンは一応の体をなす」という書き方に首をかしげてみたのと、この手のことを書くならばUse "B" or "W" button.は外せないと思っただけなのである。そしてまた、何故ユーザーがそういう使い方をするかについても、掘り下げて欲しかったのである。
2003-05-04[n年前へ]
■スカしッ屁の風速ベクトル
おならの流体力学 放出口外側のパンツ内側編
少し前まで、米軍のステルス戦闘機などの話をニュースで見かけることが多かった。ステルス戦闘機といえば、それはもちろんレーダーには映らないわけで、「音はすれども姿は見えない、まるでアナタは屁のような」戦闘機なのである。これが通常の戦闘機の場合であれば出撃したりするとレーダーに写ってしまって大きな襲来警報のサイレンとともに迎えられたりするわけであるが、ステルス戦闘機の場合にはそんな襲来警報の音もなくいきなり出現するわけで、いわば音を伴わない「スカしッ屁」のようなオソロしい戦闘機なのである。しかし、ステルス戦闘機もオソロしいのだが、スカしッ屁だって十分オソロしい。何しろ、「音のしないおならは臭い」「スカしッ屁は臭い」とよく言われるほどそのに臭いは強烈だとされているのである。スカしッ屁は、ステルス戦闘機のごとくいきなり我々の鼻腔奥深くに達し、そして姿を現した瞬間にはもう我々の体の鼻の奥にその恐怖の毒ガスを充満させていくのである。
ところで、ステルス戦闘機の恐ろしさはともかく「音のしないおならは臭い」というのは本当なのだろうか?当たり前のように口にされる「スカしッ屁は臭い」というセリフであるが、それは何か事実に基づいたものなのだろうか?そんなことはきっと誰しも一回は不思議に思ったことがあるに違いない。そこで、資料などを調べてみると実際にスカしッ屁は臭いという科学的根拠があるらしい。何でも、音がするしないは大抵の場合「おならの量」で決まるらしく、おならの量が多い場合には音がして、おならの量が少ない場合には音がしないというのである。そして、量が多いおならの原因は穀物を食べた時にでんぷんや繊維質が発酵して発生するメタンガスで、それはほとんど臭くないというのである。ところが、量が少ないおならの場合には、そのおならの原因は肉類の蛋白質・脂肪類が発酵して発生するアンモニア・インドールなどで、これが実に臭いというのである。だから、量が多いおならすなわち音が出るおならは臭いけれど、「量が少ないおなら」つまり音のしないスカしッ屁は臭いというのだ。統計的には「臭くないスカしッ屁は気づかれない」から「気づかれるスカしッ屁は必ず臭い」「だからとりたててスカしッ屁が臭いわけではない」という理屈も成り立ちそうなものだが、そんな理屈はさておき「スカしッ屁」の臭いは事実オソロシいものらしい。
「スカしッ屁」の臭いが事実オソロシいとすると、音もなく訪れるそんなオソロシイ兵器から私たちはどのようにして身を守れば良いのだろうか?音もなくいきなり鼻腔に忍び寄ってくる「スカしッ屁」という恐るべき化学兵器からどのようにすれば身を守ることができるのだろうか?そこはもちろん、身を守るためにはまずはその対象をよく知らなければならないのである。敵を知らずして敵に勝つことはできないのである。「スカしッ屁」から身を守るためには、「スカしッ屁」をよく知らなければならないのである。別にそんなことを知りたくもない、という気持ちはもちろんココロの奥底に強く強くあるのだけれど、身を守るためにはそんなことは言っていられないのである。自分のみを守るためには、私たちはおならについて少しばかり考えてみなければイケナイのだ。…というわけで、今回はおなら(毒ガス)が体内から放出(放屁)されたのちに、オナラ放出口近辺で起きている現象を考えてみることにしたい。
今回は、まずはオナラが体内から外に放出された瞬間を考えるために、とりあえず「音のするオナラ」と「スカしッ屁」が「黄門様」から放出されたあとの噴出風速ベクトル(放屁ベクトル)をナヴィエ・ストークス方程式の計算エンジンにNaSt2Dを使って計算してみた。計算領域は放出口の外側、パンツの内側というごく狭い領域である。計算領域の左中央辺りに黄門様が位置しており、計算領域の右側にはパンツがある。また、ここではパンツと言ってもビキニやブリーフのようなピッタリお肌に密着タイプではなく、トランクスのように肌との間に空間が存在するタイプを仮定している。そして、「音のするオナラ」の場合には強く早く小刻みに「ブーッ」っとオナラが放出口から放出され、「スカしッ屁」の場合には「スーッ」と弱~くオナラが黄門様から放出されることにしてみた。下の二つのグラフが、そのようにして計算してみたオナラが出たときの黄門様の外側パンツの内側における「音のするオナラ」と「スカしッ屁」のオナラ噴出風速ベクトルである。音でいうなら、左が「ブーッ」で、右が「スーッ」なのである。
もちろん、言うまでもなく上の計算は実に大雑把で簡易的なものだが、「音のするオナラ」の場合には、おならの風速ベクトルの方向が刻々変わり、またその大きさも大きいことから、放出口外側ですぐに急速に拡散してしまうことが予想される。すなわち、毒ガス濃度がパンツ内ですぐに薄まり、おならガスの危険度が低下していることが判る。黄門様の外側パンツの内側でおならガスが急速に拡がっているようすが目に浮かぶようである。絶対に、目に浮かべたいとは思わないのだがこのグラフを見るとそんな様子がまぶたの裏にまざまざと浮かんでしまうのである。
それに対し、「スカしッ屁」は「スー」っと滑らかに出るがために毒ガスが拡散せず、放出口を出た後も毒ガスの危険濃度を保ったまま「まとまったガス雲」として戦隊飛行を続けていくことが予感される結果なのである。「スカしッ屁」はその毒ガス成分だけでなく、そのガス拡散度合いも考えてみる価値もあるかも知れない(考えたくないが)、とも思わせるのである。
というわけで、今回は何とも中途半端な計算をしただけで、オナラの風速ベクトルを予想しそのオナラの運命に考えを巡らせてみたのであるが、その中途半端さには実は理由がある。何しろ、これまでスクール水着、疑似オッパイ、山本式エアコンなどさまざまな物体に対する流体計算をしてきたが、今回の黄門様近くのスカしッ屁の風速ベクトル計算ほど何ともやる気がおきず、気が乗らず、頭の中で計算対象を想像したくないものも初めてなのである。対象物を強く心の中でイメージできなければ、まともな予想などもできないわけであるが、どうにもパンツの中のオナラをイメージしたくなかったのである。そのせいで、どうにも中途半端な結果になってしまったのである。
あぁ、こんなことではオナラから身を守ることができないぞ、おならを心の中で強くイメージしなければイケナイぞ、と強く自分を戒め、続編へ向けてがんばらなければと思う今日この頃なのである。が、しかしまた、おならを心の中で強くイメージするのと、オナラから身を守るのであればどっちが重要か少し悩んでしまい、続編もちょっと…と思ったりもする今日この頃なのである。
2003-09-04[n年前へ]
■「俺」「僕」「わたし」「私」と「あたし」「わし」
はてなダイアリーの一人称で眺める「WEB日記の立ち位置」
WEB日記の起源は土佐日記に遡る。そう書く理由は、土佐日記がWEB日記と同じく他人に読まれることを前提とした「日記」であったというだけではない。WEB日記の流行がさまざまなシステム、例えば「さるさる日記」「エンピツ」といった比較的簡単で使いやすいシステム・道具に支えられているように、土佐日記もまた「ひらがな」という新しく使いやすいシステム・道具の支えがあってこそ出現した、というのが何より一番の理由である。
そして、「土佐日記」に続く「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」といった、「土佐日記」後の日記文学を支えていったのが全て女性達だったのと同じく、それから千年後のWEB日記文学の黎明期を支えたのも「ちゃろん日記(仮)」「バブルの逆襲」「菜摘ひかるの性的冒険」といったよな女性達だったということもWEB日記の起源を土佐日記に遡らせたくなる理由の一つなのである。
また、土佐日記が書かれたのが1000年以上も前であるにも関わらず、そういった「日記」と「女性」という不思議な繋がりを意識したのかしないのか、書き手である紀貫之が女性を装いながら日記を書くという「ネカマ」テクニックを先取りしていた、というのも実に先見の明がある。まるで、紀貫之が千年後のネットワーク社会を見通していたかのようなのである。というわけで、WEB日記の起源を土佐日記に求めてみるのもそう不自然な話というわけではないように思われる。
千年前の土佐日記から続いてきた「他人に読まれることを前提とした日記」も、最近では他人のWEB日記にコメントを書きこむことができたり、他人のWEB日記に対し自分のWEB日記からコメントが自動的にされるようになってきたりと、少しづつ変わりつつあるようだ。他人に単に日記を読ませることができるというだけでなく、他人に日記の一部を書かせてみたり、他人の日記へ口をはさんだりするということが普通にできるとなれば、それは千年前に比べて大きく「道具」が発展すると言っても良いのかもしれない。だとすれば、道具の発展がそれを使うものの意識を変えていくことがしばしばあるように、WEB日記を支えるシステムが大きく変わっていくのであれば、WEB日記を書いている人達の意識がどのように変化していくかが非常に気になるところだ。他人に対して日記を公開するという意識、あるいは他人の日記の「公共性」への意識がどう変わっていくのかはとても気になるところである。
そこで、WEB日記の書き手の意識を探るために、WEB日記システムの一つである「はてなダイアリー」のはてなダイアリー利用者に100の質問に答えた人達の中から50人を抽出し、次の2点、
- 家族・友人(他人)にはてなダイアリのURLを教えているか
- 他人の日記にコメントをつけたことがあるか
- 日記の中で一人称には何を使っているか
- 男性か女性か
- どのように自分を語っているか
- どのように名乗っているか
まずは、「性別と一人称の相関関係」を下に示してみる。このグラフは、男・女に対する各一人称の相関関係を示しており、縦軸の上方向が「男と相関が高い=男性がよく使っている」一人称であり、下方向が「女と相関が高い=女性がよく使っている」一人称であることを示している。
そして、次に示すグラフは「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」ということに対する相関値(≒家族への距離)を縦軸にとり、「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」ということに対する相関値(≒他人への距離)を横軸にとり、各一人称を配置させてみたものである。縦軸の「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」という設問に関しては答えている人達が主に「家族へ日記を教えているか」という意識で答えているようだったので、ここでは縦軸は「家族への(日記の)距離」というように捉えてみた。そして、横軸の「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」という設問は「他人の日記への距離」というように捉えてみた。
このグラフを見ると、不思議なことに「家族に近い日記」の書き手は「他人の日記」に遠く、「家族から遠い日記」の書き手は「他人の日記」に近いということが判る。つまり、「家族への近さ」と「他人への近さ」は反比例するという不思議な関係がある。そして、女性は家庭に近く他人にはちょっと距離をおいているが、男性は家庭から遠く他人への距離が近い、なんていう姿も見えてくる。ありがちな男女像ではあるのだけれど、そんな像が見えてくるのである。
とはいえ、男性であっても「俺」を一人称に使うような書き手はあまり他人の日記へ書き込みはしないとか、男性でも「僕」を使うような書き手は家族を近く意識しつつも同時に他人へも近い、なんていうことも判る。また、「私」と「わたし」は家族への距離は同じくらいであるにも関わらず、他人への距離は正反対の関係にあって「私」を使う人はあまり他人の日記へは書き込まないが、「わたし」を使う人はある程度他人の日記に書き込みをしているなんていうことも判るのである。
人それぞれ自分を語る一人称が異なるように、それぞれの日記ももちろんそれぞれ立ち位置が異なっている。その立ち位置の違いの原因は書いている人達自体の違いということは当然あるに違いない。しかし、同時にその人達の日記を支えている道具の違いということもある程度は影響を与えているに違いないと想像する。そこで、今回ははてなダイアリの書き手50人を眺めてみたが、次回以降では違う日記システムの書き手達も眺めてみたいと思う。そして、道具が少しづつ変わっていく中で、その道具を使って書かれている日記が、あるいは何処かで生まれるだろう新たな日記文学が、どのように変わっていくのかを考えてみたいと思う。