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2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2002-02-15[n年前へ]

続・今日の大ショック 

 その後・起動ディスクも記憶喪失とかブルースクリーンとの再会とか今年の目標設定とか(あぁ、これは関係ないか)色々あって、なんとか復旧・バックアップが一段落したのが五時間後(といってもまだ終了してないんだけど)。原因は不明だが、そーいや、こいつ昨日からなんかご機嫌ナナメだったな、と。
 まだまだ、戦いは続くのである。

2002-02-19[n年前へ]

今日の一文 

 F&F掲示板で「"通りすがり"とか"やじうま"と名乗ってまともに取り合ってもらえると思うのはどうかなぁと思うんです。」は名言だと思う。で、今日きたメールは「匿名希望」さんからなので、ここで返事を書いちゃいます。そうじゃなければ、こんなところで返事を書いたりはしないのですけれど。

> ここの、フックの法則のところで>>さて、一般的にバネの特性はフックの法則により
>> バネの伸びる長さ = k x バネを引っ張っている力
> と、ありますが手元の資料を見たところフックの法則は
> バネを引っ張っている力=k×バネの伸びる長さ
> だと思うのですが。私が持ってるのは教科書なので
>間違い無いと思うのですが今一度ご確認なさってみてください。

 …これは、しいていえば、原因と結果をどう考えて左辺右辺のどちらにおくかという違いだけである。kは単なる比例定数だから、数式上は何の違いも無い。kの値は単に逆数になるだけである。まぁ、このケースの場合は「バネを引っ張っている力」が原因で右辺におくのがわかりやすいだろう、と考えているということである。それにフックの関係式の歴史まで知ってるのだろうかこの人は?、いや知らないだろう。
 と書くほどのことでもないが、あえて書いてみたのは「私が持ってるのは教科書なので間違い無いと思うのですが今一度ご確認なさってみてください」という一文に頭を抱えたからである。「教科書」だもんなー。

2002-04-13[n年前へ]

月が遠くであっち向いてホイ 

Stereographs of the Lunar Libration

 夜、月をよく眺める。仕事の帰り際に箱根山中で、あるいは信号待ちをしてる車の中から、よく月を眺める。そんな時、こんなことを考えた。

 月の自転周期と、月が地球の周りを回る公転周期は同じだ。月の潮汐力が原因で、どうしても自然に一致してしまう。少しでもそのその二つがずれた場合には、それを元通りにするような力が働く。だから、月はいつでもほとんど同じような顔を地球に向けている。もちろん、太陽の方向に従って月の満ち欠けはあるのだけれど、それでもやはり顔はいつも同じ面を向けている。それはまるで「心配そうに子供を見守る親」か、「ワガママな姫さまを心配する爺や」か、はたまた「好きな人を飽きもせず眺めてる恋する人」であるかのようだ。

 とはいっても、月の軌道は実際には楕円だから、本当はこんな風に秤動を起こす。地球に近づいたり遠ざかったり、早く動いたり遅く動いたりして、月は少しづつ違う顔を地球に見せる。それでも、それは「子供を何故か怒ってしまったり、可愛がったりする親」か、「爺やが心配そうに姫さまに顔を向ける仕草」か、「誰か好きな人を少し不器用に見てる恋する仕草」のようで、やはりなんとなく微笑ましい。
 

 ところで、そんな風に月が少しだけ違う顔を見せるのなら、そんな月の写真を二つ並べて眺めてみれば、目の前に立体的な月の姿が浮き上がってくるはずである。同じ時の、だけど空間的に少しだけずれた場所から眺めた二枚の画像が立体感を与えるのは当たり前の話だけれど、時間的に少しだけずれた(だから空間的にも少しだけずれた)二枚の写真にだって、私たちはやっぱり立体感を感じる。

 そこで、試しにインターネット上から月の写真を二つ拾い上げてみた。下の写真は誰かが何処かで眺めた二つの月だ。撮影された場所も、時間も(きっと)全く別の二つの月である。平行法だったら遙か遠くの誰かを眺める要領で、交差法だったら目のすぐ前の誰かを眺める要領でこの二つの月を眺めてみれば、立体的な月を眺めることができる。GoogleImage Searchのおかげで、そんなこともずいぶん簡単になった。何時か何処かの誰かが月を眺めている目を通して、それを自分の目の代わりにして、自分の心の中に月の立体的な様子を映し出しているのだから、いわば私の左右の目が「インターネットの大きさ」だけ離れて、立体感を拡大しているような感じで、少し面白いような感覚がする。
 
 

誰か何処かで眺めた二つの月
(平行法)
誰か何処かで眺めた二つの月
(交差法)

 ところで、こんな風に月が地球に向ける二つの顔を見るとき、私たちが立体的な月の姿が目の前に迫ってくるかのように感じるように、人の表情が顔の向きが少しだけ違う写真を用意して、そんな写真をぼーっと眺めてみたら、私たちの目の前に「その人の姿」が浮かび上がってくるような気持ちになる。

 実際のところ、私たちが心の中で人を思い浮かべたりする時は、自分では気づかなくとも、色んな時や色んな場所での「その人の姿」を心の中に浮かべているのかもしれない。そして、もしかしたら「その人の立体的な姿」を心の中で感じているのかもしれない。きっと無意識にだけど、私たちはそんなことをしているのだろう。

 だから、そんな心の中で無意識にしていることを、不器用だけど意識的にやってみれば、案外自分の「心の中の立体感」や、「心の中にいる誰かの立体像」なんかを上手く眺めることができるかもしれない。例えば、アルバムの中から二枚の写真を適当に選んでぼーっと眺めてみたりしたら、そんなものがもしかしたら心の中に浮かび上がってくるのかもしれないな、と月を眺めながら考えてみたりしたのである。
 

2002-06-02[n年前へ]

職場のスフィンクスの名台詞 

止まったエスカレーターに何故上手く乗れないのか?

 ある朝、いつものように出社すると、いつもと違うことがあった。職場へ行くために通らなければならないエスカレーターが動いていない。エスカレーター横のガラスが割れているため、それを直すまではエスカレーターを止めたままにしているらしい。かなり、不便ではあるが、壊れたモノはしょうがないのである。しょうがなく、建物の端にある階段をエッチラ、オッチラ上って職場の居室へ行ったのである。
 
故障中のエスカレーター
故障中のエスカレーター

 きっとスカレーターはすぐに直るだろうと思っていたのだが、残念ながらエスカレーターは直る気配が全く無いまま数日過ぎた。いつまでたっても、いぜんとしてエスカレーターは停止したままなのである。しかし、私たちの職場にはそのエスカレーターを使わないと辿り着けないので、その職場の人達はその止まったままのエスカレーターをいつしか階段代わりに登り降りするようになっていた。止まったエスカレーターは「楽ちんなエスカレーター」ではないけれど、ただの階段としては十分使える、というわけだ。

 ところが、である。ただの階段と違って、何故か止まった「エスカレーター」は歩きづらいのである。特に、エスカレータに乗る最初の一歩がなんとも上手くいかないのだ。よく、エスカレーターに乗る最初の一歩や、エスカレーターから降りる最初の一歩が上手く出せない人がいるが、ちょうどあんな感じになってしまうのである。普段、動いているエスカレーターを使う分には、私は「上手く乗れない」なんてことは全然無いのだけれど、何故か止まったエスカレーターに足を踏み出そうとすると、体のバランスが崩れてしまうのだった。もちろん、エスカレーターが止まっていることも、微妙に段差が違うことも判っているのだけれど、だけれども何故かバランスを崩してしまうのである。
 というわけで、私も含めてあらゆる人達がスカッスカッと何故かバランスを崩しながら、止まったエスカレーターに恐る恐る足を踏み出していたのである。
 

 そんなある日、止まったエスカレータの横にシミュレーションプログラム作成を生業とするN氏がいつまでも立っていることに気づいた。そして、止まったままのエスカレーターを登り降りしようとする人達を次から次へとつかまえては、N氏は何事かを喋りかけているのである。何故だか、N氏は通る人通る人に何かの言葉を発しているのであった。それはまるで、ピラミッドの前に佇み、そこを通る旅人達に謎かけをするというスフィンクスであるかのようだった。

 もちろん何処へ行くにもその止まったままのエスカレーターを使わなければならないので、私もすぐにN氏改めスフィンクスに捕まってしまうこととなった。そして、N氏はこう言ったのである。

「止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故だか体のバランスが崩れるような気がしないか?オマエは?」
もちろん、それは私も不思議に思っていたわけで、
「そー、そー、そうなんですよねー。ただの止まったエスカレーターなんだから、普通の階段みたいなものなのに、不思議ですよねー。」
と私が答えると、
喝〜!不思議ですよねー、じゃぁないだろー。何故?どうして?を追求するのがオマエの仕事じゃないのかー!」
と怒るのである。そ・それは私の仕事ではないのじゃないだろうか…、百歩譲ってそれが趣味なら確かにそうかもしれないが…、ワタシは別に子供電話相談室ではないんだけどなー…、と私が心の中で考えていると、
「ちゃんと、物事にはすべて原因があるハズだぁー。止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故体のバランスが崩れるのか、その理由を考えてみろー。」
と怒りまくるのである。ここまでくると、ピラミッドの前で謎かけをするスフィンクスそのものである。いや、むしろそれよりタチが悪いかもしれない。何しろ、このスフィンクスはシミュレーション・プログラムを作るのを仕事にしているのだから、物理と論理に長けているのである。だから、きっと結構素朴であろう元祖スフィンクスよりなおさらタチが悪いのだ。

 う〜む、これはそう簡単にこのスフィンクスからは解放されそうにないな〜、と思いながらも、私が

「う〜ん、エスカレーターが止まっている、って判っていても、無意識のうちに体がエスカレーターが動いていると思いこんじゃうんですかね〜。それで、何かバランスを崩してしまうんですかね〜」
とあいまいに答えると、
「違〜う。答えはちゃんとすぐ目の前にあるのに、それにオマエは何故か気づいていないだけなのだ〜」
と、スフィンクス、じゃなかったN氏はものすごく嬉しそうに叫ぶのだった。そして、そのスフィンクスは驚くべき解説を始めたのである。
 「オレ達はエスカレーターが止まっている、という大きなことに気をとられて目の前、いや足下と言った方が良いか、の大事なことが見えていないんだよ。ホラ、エスカレーターの動く階段部分の直前がどうなっているか、良く見てみろよ。そこだけ傾いて斜面になっているだろう?」
「あー、確かにそーですねぇ〜」
確かにそーですねぇ〜、じゃねぇよ。エスカレーターに乗ろうとするときに、俺たちの体を支えている足はそのちょうど斜面の上に乗っかっているわけだよ」
「…」
「動く階段部分」直前にある斜面
止まったエスカレーターをよく眺めてみると…
故障中のエスカレーター
「動く階段部分」直前の斜面
「だから、エスカレーターに足を踏み出そうとする瞬間、実はオレ達の体はエスカレーターの方に傾いてしまっているわけだ。だけど、オレ達は- エスカレーターが止まっている - ということに気をとられて、斜面の上でオレ達の体がすでに傾いてしまっていることに気づかないわけさ」

「オレ達が止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスが崩れるのは、踏み出したオレたちの足に原因があるわけじゃなくて、もう一方の足下が傾いているということに気づかないことが原因なわけだ」

「答えはすぐ目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけなんだよー」

 このN氏改めスフィンクスが語る話を聞いたときに、ワタシは目からウロコが落ちるような気がした。そして、ワタシの頭の中で加納朋子「ななつのこ」冒頭の台詞の文章
 いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくても、例えばどうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか、そんなささやかで、だけど本当は大切な謎はいくらでも日常にあふれていて、そして誰かが答えてくれるのを待っていたのです....。
が流れ出したのである。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくて、職場の壊れたエスカレーターの前でも謎(大切かどうかはともかく)はいくらでも日常にあふれていて、そして時には誰かがスフィンクスに変身して、その謎に答えを出してくれるのであった。なるほど、なのである。
 そして、「動く階段部分の直前にある斜面」を意識するようになった途端、止まったエスカレーターでも何の問題もなく乗れるようになり、むしろ、どうしてあんなにスカッスカッとバランスを崩していたのか不思議に思えるほどになったのだった。
 

 で、その後スフィンクス改めN氏と「動く階段部分の直前にある斜面」のその他の効果、止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスを崩してしまうということ以外の効果、についてしばらく話をした。で、数日後成田で「動く歩道」の上を歩きながら、その効果を確認したので、その内容を書いてみる。
 

「動く歩道」の一例
故障中のエスカレーター

 上の写真は平らな「動く歩道」だが、この場合にも先の場合と同じように、「動く歩道部分」直前は斜面になっている。そして、私たちは「動く歩道」に片足を踏み出すとき、もう一方の足は必ずその斜面部分に立っている。それは、ちょうど跳び箱を飛ぶ前に必ず私たちが踏切板を踏み込む瞬間のようなのである。すると、斜めになった面に片足で立った私達は、それに気づかないまま無意識のうちに体が前に倒れ、加速するのである。もちろん、斜面を片足で後ろに踏み出す効果もあって加速するのである。

 私達が普通に歩いている状態に比べて、「動く歩道」の上を歩く状態というのは、私達の体の速度は速いのである。だから、普通に歩く状態から「動く歩道」の上を歩く状態にスムースに移行するためには、私達はその瞬間に「動く歩道」の速度に応じた若干の加速をしてやらなければならない。ところが、「動く歩道部分」直前の斜面のために、無意識のうちに私達はその加速を行ってしまうのである。だから、比較的スムースに「動く歩道」の上に移動して、しかもその瞬間の不連続な速度変化を感じずに済むわけだ。

 そして、「動く歩道」を降りるときには、これとは逆のことが生じる。つまり、通常の歩道部分に踏み出した片足が、斜面部分に着地し、その斜面が私達の方に傾いているため上り坂を上るような状態になって、自然と私達の体は減速するのだ。だから、「動く歩道」から普通の歩道部分への移行がスムースになる、というわけなのである。

 このような効果が誰にでも起きるのかどうかは判らないし、仮にそれが一般的に起きる現象だとしても、それが制作者達の意図したものであるかどうかは判らない。しかし、止まったエスカレーターを前に当惑したことのある人や、あるいはいつもエスカレーターや「動く歩道」に上手く乗れない人は、ぜひ「動く部分直前の斜面」に気をつけながら、足を踏み出してみてもらいたい、と思うのだ。

 それにしても、「答えは目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけ」とは、ミステリー小説の中の気持ちの名探偵の台詞のようである。色んなところで色んなことで、私達はよろめいたり、つまづいたりするけれど、そんな時目の前の景色や、足下の景色をじっと眺めてみれば、目の前にその答えが大きく書いてあったり、あるいは転がっていたり、そして時にはその答えを踏みつけていたりするものなのかもしれないな、とふと思ったりするのである。だけど、やっぱり私達はそんな答えには気づかないまま、無意識に体が傾いてバランスを崩してしまうのかもしれないな、と思ったりもするのである。



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