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2010-03-03[n年前へ]

「自然の力」と「人間の力」 (初出:2005年09月02日) 

 とても華やかな景色を、横にちょっと飾ってみました。この写真は、一昨年のちょうど今頃ニューオーリンズで撮影した写真です。(アメリカの中では有数の)古い街並みが素晴らしく、古い街並みではジャズ(発祥の地ですから)や色んな音楽を演奏している人たちが本当にたくさんいて、とても趣のある素敵な景色でした。一番古い街並みが残っているフレンチ・クオーターには、夜にいつも人が溢れていました。

 最近、報道でずいぶんと変わり果てているニューオーリンズの街並みを見かけます。右の写真に写っているスーパー・ドームには市民が避難していて、そして、私がこの写真を撮影した(スーパー・ドームの横に立つ)ホテルは外側のガラスが全壊に近いようです。

 テレビの画面には、この写真を撮影した辺りに、周囲から避難してきた市民が溢れているようすが映っていました

 洪水や地震や津波や噴火・・・といったさまざまを起こす自然の力が強いように、弱い人間もやはりそれでも強い、と私は思います。だから、少し時間が経てばニューオーリンズの街も活気を取り戻していくのだろうと信じます。

 そう願いながら、酷い状況の景色だけでなく、とても綺麗だったニューオーリンズの写真を同時に眺めたくなりました。だから、今日はこんな写真を飾ってみました。

 一番最後に置いた、右の写真はニューオーリンズの中心、そのフレンチ・クオーターのさらに中心にあるセント・ルイス大聖堂の中で見た景色です。人が祈る、ただそんな姿です。

2010-03-21[n年前へ]

"15-0”と「15才の君へ」 

 テニスで"15-0”という点数を表す言葉、フィフティーン・ラブ "Fifteen-Love"と宣言する声を聞くと、「十五の愛」とか、「十五歳の恋」とか「十五年の愛」とか、そんな風に聴こえてしまうことがある。

 1995年の関西・淡路大震災から15年が経った。関西電力の「15才の君へ」というコマーシャル・ビデオを観ているとき、ふと、そんな"15-0”の幻聴を思い出した。

君たちがいたから、15年でここまで来られた。
君たちこそが、希望の光。

 "0"を、なぜLoveというのだろう。それは、ゼロが卵に似ていて、卵を意味するフランス語の音から来ているのだ、という説もある。

The origin of the use of "love" for zero is also disputed; it is possible that it derives from the French word for an egg (l‘oeuf) because an egg looks like the number zero.
 あの時のゼロの卵たちが、今では十五歳になっていく。やはり、何だか、"Fifteen-Love"という声が聞こえてくるような気がする。

 拝啓、この手紙を読んでいるあなたは、
どこで、何をしているのだろう。

アンジェラ・アキ 「手紙~拝啓 十五の君へ

2011-03-11[n年前へ]

2011年3月8日3時〜3月11日19時までの日本列島震度分布 

 下の動画は、2011年3月8日3時から3月11日19時までの間に、日本列島で起きた地震の震度分布マップです。一体どの辺りで地震が起きて、どの辺りの人たちが地面の揺れを感じ、そして、そんな場所が時間を追ってどのように変化して行くのを知りたくて、揺れが続く中で作った動画です。

 動画で10秒過ぎに起きる地震が、今日の14時46分頃に起きた地震です。それまでは、比較的近い場所を震源とする地震が多いけれど、それ以降は、広い範囲で大きな地震が起き続けています。

 また、2011年3月8日3時〜3月12日15時までの日本列島震度分布も下に貼り付けておきます。この震度分布時系列では、東北地方太平洋沖地震は約4秒時点になります。

 北米プレートと太平洋プレート、さらには、フィリピン海プレートが入り交じりあう日本では、不安や不便がいつまで続くのでしょうか。

 道の上で、不安そうに空を見上げる年上の人たちと話します。足下を見ると靴下だけだったり、上着も着ていないままだったり…。

 一人暮らしの年配者たちは、たとえば、どんなものがあったら心細さがなくなるのだろうか?と考えます。

2011-03-12[n年前へ]

人がただ祈る姿 

 「自然の力」と「人間の力」 (初出:2005年09月02日)から。

 洪水や地震や津波や噴火・・・といったさまざまを起こす自然の力が強いように、弱い人間もやはりそれでも強い、と私は思います。だから、少し時間が経てばニューオーリンズの街も活気を取り戻していくのだろうと信じます。

 そう願いながら、酷い状況の景色だけでなく、とても綺麗だったニューオーリンズの写真を眺めたくなりました。だから、今日はこんな写真を飾ってみました。

 一番最後に置いた、右の写真はニューオーリンズの中心、そのフレンチ・クオーターのさらに中心にあるセント・ルイス大聖堂の中で見た景色です。人がただ祈る、そんな姿です。

 ハリケーン「カトリーナ」がニューオーリンズを襲った直後の"Google Maps"が矢継ぎ早に見せる姿には、開発陣の悲しみとも怒りとも何とも表現しがたたい、けれど、何かに立ち向かおうとする意志を感じたような気がします。

 そんな人の意志もまた、活気を取り戻していくための力になる、と今でも信じています。

2011-03-31[n年前へ]

「知識を得た上でどうすべきかを各人が判断する」というバイアス 

 「災いを防ぐ=防災」ということを考えざるをえないこの時期に「原子力」についても考えを巡らせようとするのなら、そしてそのために一冊本を読んでみる気になるのなら「原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために 」という本を、まずは読んでみるのが一番良いように思います。

  この本が「考える」ために「一番良い」理由は、関連事項について広く・深くデータを示しつつ、データの意味を具体的に定量的にわかりやすく説明しているからです。エネルギーの必要性から、関連事項を理解するのに必要な科学知識や、各種リスク評価…、本のタイトルからは想像できないくらい非常に広い範囲のことが書かれています。

 そして、何よりこの本の「スタンス=立ち位置」こそが「一番良い」と思う理由です。

 原子力関連の本には、多かれ少なかれバイアスがかかっています。そういったバイアスがほとんど見られないように思えるのは「原子力熱流動工学」といった類(たぐい)の技術テキストくらいで、それ以外の本では必ずバイアスがかかっています。

 書き手自身が無自覚のままにバイアスをかけている本もあれば、書き手がそのバイアスを意識している本もあります。「原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために 」で著者(松野元)がこだわり続けているのが、こんな考え方(バイアス)であるように思えます。

 (原子力災害が発生した場合)住民は、関係者に十分な情報を要求し、専門家の意見を聞いて、最終的に他人任せでない決断を自らが選択しなければならない。

 少し長い引用をしておきます。これは「まえがき」の中段部分です。

 本書は当初…原子力防災の入門書を2人(松野元と永嶋國雄)で作ろうということで制作が開始された。…ところが最終段階になって、チェルノブイリ発電所事故の取り扱いについて意見調整がつかなくなってしまった。永嶋氏の意見では、チェルノブイリ発電所事故を原子力災害として取り上げるのはかまわないが、すべての章で取り上げてはいけないということであった。たとえば、想定事故の考え方についての説明のところで、チェルノブイリ発電所事故と比較することは、日本ではチェルノブイリ発電所事故は起きないことになっており、日本の原子力防災はこれを対象としていないから、これを直接比較することは意味がなく、あえて記述すると専門レベルの内容になってしまい、一般の読者(国民)を混乱させ、原子力反対論者に知恵を授けるだけのものとなってしまうので、入門書としては不適であるとした。…
 これに対して私は、日本の新しい原子力防災のあり方を住民(国民)保護という民主的な点からその有効性を検証しようとすれば、チェルノブイリ発電所事故発生は事実として直視する必要があり、たとえ許可条件的に事故が起きない設計となっていても、防災というレベルにおいては可能性が存在する限りこれを無視できないので、日本の原子力防災体制が防護するべき住民(国民)をすべてカバーできているかを、チェルノブイリ発電所事故を例としてその有効性を検証することは、入門書であっても住民(国民)にとって必要なことであり、むしろ原子力を受け入れてくれなければならない人々に知恵を授けて理解を求めることが今日的な課題であると思うので、入門書とはいえチェルノブイリ発電所事故を無視することはできないとした。この意見の違いにより、2人による共著の夢は絶たれた。
 つまり、この本に貫かれているのは「知識を得た上でどうすべきかを各人が判断しなければならない」というバイアスです。

 「どうすべきかは他人に聞く(ゆだねる)」「情報・知識で終わる」というバイアスも満ちあふれる今日この頃だからこそ、それとは違うバイアスで書かれた「原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために 」を読んでみるのも良いように思います。



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