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2010-01-16[n年前へ]

寺田寅彦の文学的表現に流れる「重く喪失の感覚」 

 末延 芳晴「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者 」から。

 寅彦の文学的表現の根底には深く、重く喪失の感覚が流れている。人間が人間として生きていくうえで、欠かすことのできない大切な何かが失われ、断ち切られている。

 寺田寅彦に関する書籍は多い。しかし、昨年の末に出版された本書は、これまでに出版された寺田寅彦に関する書籍中でも、最も情報量が多く、そして奥深いものではなかろうか。

 理系と文系と言う単純な1次元の世界は、多くの場合、誰もが一度は通り(語り)、そして誰もがいつか卒業する(飽きる)単純極まりない世界だと思う。・・・けれど、あえて書くならば、(そのひとつの道を選んだ)科学者が書く寺田寅彦評論とは一味違うものが、(やはり、そのひとつの道を選んだ)文学者が描いた本書には確かにあるように思う。

 俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。

寺田寅彦 「無題六十四」

2010-02-04[n年前へ]

わたしが計算科学の現場で、今なお自分でプログラムを書いているのは… 

 「技術立国ニッポンの虚像が露呈した」~事業仕分けの当事者 金田康正氏はなぜ事実上の凍結判定を下したのか~から。

 わたしが計算科学の現場で、今なお自分でプログラムを書いているのは、そうあらなければスパコンのハードとソフトの両面で何が本当に必要であるかということが分からないためだ。自分でプログラムを書き、本当に国費を投じる必要があるものは何であるのかということを発言する人材が少ない、あるいは発言してもその声が届かないという現状は、非常に嘆かわしいことである。

 その背景には、最終的には「細部に神が宿る」という意識、そういう意識で手を動かす現場の研究者が評価されづらいという、日本の科学と技術への無理解が問題の根底にあるのかもしれない。いかに研究費を獲得するかということばかりに終始する研究者やそこに群がる人たちばかりが幅をきかしているのであれば、日本の科学と技術の未来は暗い。スパコン問題の本質は、単にスパコンだけの問題ではなく、日本の科学と技術の未来という、もっと高い次元で議論すべき問題でもあると考えている。

2010-02-07[n年前へ]

「次世代スーパーコンピューターの事業仕訳け議論」と「冒険家のスポンサー」 

 次世代スーパーコンピューターの事業仕訳けに関する議論も一段落したようだ。「『(コンピューター性能で)世界一を目指す理由は何か。2位ではだめなのか』という言葉ばかりが独り歩きし、本来すべき議論が不十分になってしまった」という意見も多く見かけた。しかし、この言葉は、次世代スーパーコンピューターのような各種巨大科学プロジェクトが抱える問題、あるいは、問題と言う言葉に語弊があれば特徴と言い替える、の本質を実に的確に表現しているのではないか、と感じた。

 「科学(者)の文化」上は、「一番」とそれ以外は全く違うものである。そういう文化を背景にした意識が、科学者の頭の中には少なからずある。それは、「科学者はなぜ一番のりをめざすか―情熱、栄誉、失意の人間ドラマ (ブルーバックス) 」中の言葉を引用するならば、「科学と冒険には相通じるものがあるのである。それは冒険と同様、科学の世界でも、業績が高く評価されるのは、最初に発見を成しとげた人間に限られるからである」ということに尽きる。

 このような考え方。評価をする世界の中で生きる人もいれば、そればかりではない・そういうものとは違う世界で生きる人もいる、ということが、この次世代スーパーコンピューター開発に関わる問題が抱える本質のひとつではないか、と思う。

 片側の世界に住む人にとっては、それが当たり前のことであるがゆえに意識しないか・意識しても(あえて)言わないし、そうでない側に住む人にとっては、そうでないがゆえに(そんなことを)意識することは少ない。

 「科学者」が「(知の)冒険者」であって、(長年の生活の中で)考え方の底に冒険者と同じものがある、ということを意識すると、理化学研究所の平尾公彦副本部長(前東京大学副学長)が述べた「国民に夢を与える、あるいは世界一を取ることによって夢を与えることが、実は非常に大きなこのプロジェクトの一つの目的でもあります」という言葉も、実に理解しやすい。ここでいう「理解」というのは、何よりこの言葉を語るに至る「考え方」がわかる(その結果、その言葉が指すこともわかる)ということである。

 エベレスト(チョモランマ)発登頂・南極点一番乗りレース・初の大西洋横断単独飛行…そういう「冒険」と同じように、「初物」あるいは「その結果としての名誉」を追いかけ続ける人もいる。そういった冒険を見て、興奮し「夢」を感じる人もいる。そして、その一方でそういう「冒険」「夢」を「割に合わない」と感じる人もいる。

 「科学の世界では、業績が高く評価されるのは、最初に発見を成しとげた人間に限られる」というところから、「冒険家のスポンサー」として、次世代スーパーコンピューターのような各種巨大科学プロジェクトについて考えてみると、「意見の大きな違いを生む原因となる、価値観の違い」を理解することができ「問題」がわかりやすくなるように思う。

2010-02-19[n年前へ]

「分かれること」「繋がること」への欲求 

 人には「分ける」「差異を見出す」ということへの欲求があるのだろうか。そんな分類・区別・差別化することへの欲求が人の底にはあるのではないか、と強く感じてしまうくらいに、理系と文系・科学と非科学・人文科学と自然科学・科学者と技術者…そんな話は何百年も前から、無限ループのように繰り返し続けられている。

 ひとつのものには、そのひとつのものの中に、色んな側面がある。たとえば、科学は、応用を通じて実生活に関わる面もあれば、知的追求という点からこころの喜びにも関わる面も持っている(この一節はリンク先の本の「あとがき」にある言葉である)。何かを分けようとするとき、それはあくまでひとつの側面を描こうとしているに過ぎない。

 しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか?そんな 鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。

夏目漱石 「心」

 「ひとつのものには複数の側面がある」という言い方も、それもまた「分ける」ということへの欲求と表裏一体でもある。「分ける」ということは、「重ねる」ということと真逆なようで、実はよく似ている。

 「分ける」という言葉の裏に寄り添う「統一する」ということへの欲求に、「ひとつのものには複数の側面がある」という言葉は繋がるのかもしれない。そんな、「分ける」「繋げる」ということの繰り返しで、私たちの世界観は進んできたのではないだろうか。

 その主語・目的語を、明示的に私自身とした時には、それは「分かれること」「繋がること」への欲求ということになる。そう考えてみても、その繰り返しで私たちの世界は時を進めてきたのかもしれない、とふと思う。

2010-02-23[n年前へ]

南海泡沫事件で1億円失ったアイザック・ニュートンの名言 

 三井住友銀行コンサルティング事業部 編集・高橋 進「スローライフのマネー学―ゆっくり生きよう、しっかり殖やそう 」から。

 「バブル」の語源となった「南海泡沫(サウスシー・バブル)事件」は、1720年の英国で発生しました。
 …万有引力の法則を発見した天才ニュートンは、当時の株価バブルに踊って、大枚2万ポンド(現在の1億円に相当)を失っているのです。
 ニュートンは、暴落以前に一度は投資から手を引いたのですが、バブルに踊る大衆の熱気にあおられて、再度買いに走って大失敗。
 「私は物体の運動は測定できるが、人間の愚行を測定することはできない」という名文句を後世に残しました。

 「南海泡沫(サウスシー・バブル)事件」とニュートン・ラグランジェといった科学者がいた時代背景を一目で確認してみたい人は、「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! (Kobunsha Paperbacks Business 17) 」の巻末1を見ると良いかもしれません。



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