1998-12-28[n年前へ]
■本歌取 1998
1999年の夏休み
まもなく、1999年だ。1999年というとノストラダムスも有名だが、結構好きな映画に「1999年の夏休み」というものがあった。これを振り出しにして、双六のように考えてみる。
「1999年の夏休み」
金子修介監督の映画だ。不思議な雰囲気の映画だ。原作は萩尾望都の「トーマの心臓」である。そのまた元を辿ると、同じく萩尾望都の「11月のギムナジウム」に辿り着く。つまり、萩尾望都「11月のギムナジウム」 -> 萩尾望都「トーマの心臓」 -> 岸田理生(脚本)「1999年の夏休み」となる。-> 金子修介(映画)「1999年の夏休み」
これは、ある本歌に対して、それを翻案したものが連なっているように見える。本歌取が連なった連歌に見える。だから、それぞれ単独で楽しんでもいいが、どのように変わっていったか、などを楽しむのもいい。
「1999年の夏休み」については
「AngelHouse」( http://www2s.biglobe.ne.jp/~sgsc793/index.htm )
「こどものもうそう」( http://www.asahi-net.or.jp/~IH9K-YNMT/ )
などが詳しい。
この中で、薫という登場人物が登場するが、エヴァンゲリオンに出てくるカヲルはこれに影響されているのではないか、という話が先のWEBに出ていた。底が浅いTVに興味はないが、最後の方で登場する人物の名前が「薫」というのは源氏物語の昔に溯る。それは、日本で初めての物語からの伝統なのである。源氏物語の本歌取といっても良いだろう。「薫」という名前を持つ人物を考える際には、源氏物語の「薫」の役割を意識するべきである。最後に物語の全てを背負い、繋げていく役割を背負うのは「薫」なのだ。この本歌取を意識する読み方は、記号論に通じる。
同じ「薫」が登場するミステリィというと、栗本薫の作品群があるが、特に栗本薫の「猫目石」を読む際には源氏物語の「薫」を意識しなければ意味がないと思う。また、ミステリィ作家で「薫」の名前を持つ人は多い。
- 北村 薫
- 栗本 薫
- 高村 薫
「1999年の夏休み」と同じ金子修介脚本監督の映画として、「毎日が夏休み」がある。こちらは、大島弓子が原作だ。この場合は
大島弓子「毎日が夏休み」 -> 金子修介(脚本)「毎日が夏休み」 -> 金子修介(映画)「1999年の夏休み」
となる。
次に、深津絵里繋がりで(ハル)に移る。
(ハル)
深津絵里はこの映画にも出ていた。 オープニングの雰囲気は「1999年の夏休み」に似ている。どちらも、映画の重要な要素である画像を(ある意味で)使わず、表現をしているというのがいい。登場人物も非常に少ない。表現は制限をかけてこそいいものができると思う。完全に自由な中にはなかなか良い物ものは生まれない。それは、選択肢が増えすぎると、人は良いものを見つけるのは困難だからかもしれない。この映画の内容はパソコン通信関係だ。
深津絵里の眉毛はまだ太くて良い。
HOME-TOWN EXPRESS
JR東海のCMというとクリスマスエクスプレスの印象は強いが、第二回目の牧瀬理穂の回しか覚えていない人も多い。しかし、第一回目の深津絵里が演じたHOME-TOWNEXPRESSのクリスマスバージョンが一番良かった。HOME-TOWN EXPRESSはその他にも良いものがたくさんあった。クリスマスエクスプレスになって第二回目の牧瀬理穂の回は、「最後にプレゼントを持って柱の後ろで恋人を待ち、その向うに恋人がいる」ところなど、第一回目の回に対する返歌にも見える。JR東海とくると、萩尾望都関連で「半神」の夢の遊眠社のステージをCMに使っていたものもあった。これなども連歌であり、本歌取の繋がったものである。
ブラッドベリ「霧笛」 -> 萩尾望都「霧笛」 + 萩尾望都「半神」 -> 野田秀樹「半神」 -> JR東海「もっと私 CM」
となる。
HOME-TOWN EXPRESS 1988 帰ってくるはずの恋人がホームに降りてこない。と、思うと柱の向うからプレゼントを持った恋人が現れる。 | 「そんな音をつくってやろう...」 |
最近、NODA MAPの「半神」に深津絵里が出る、と聞いた。これで、深津絵里を狂言回しとして、物語は一周したことになる。
そういえば、深津絵里は「虚無への供物」のTVドラマにも出ていた。あのTVを見た人に、原作の「虚無への供物」の面白さがわかるだろうか...
虚無への供物といえば、連歌はこうなる。
中井英夫「虚無への供物」 -> 竹本健二「匣の中の失楽」
というわけで、「匣の中の失楽」を読む前には「虚無への供物」を読まなければならない。「虚無への供物」の中の「どちらが現実で、どちらが架空の世界なのか、誰がわかる?」という訴えを、そのまま展開したのが「匣の中の失楽」である。「匣の中の失楽」に連なるミステリィ物もあるようだが、問題外としておく。
ここ2,3年は、まるで「虚無への供物」の舞台のような年であったように思う。何が現実で何が架空なのか。
2001-03-13[n年前へ]
■Liberty Leading the People or Something Recharger
今日、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の絵が頭の中に急に浮かんで、目の前の景色と重なった。その瞬間に、そういえば"Liberty Leading the People"のLiberty leadingはThe woman in charging of othersなんだなぁ、と思ったけれどもちろんその時私は何も言わなかった。もう少しひねると、目の前の景色はLiberty charging the People in the chargerになるわけだ。
そして、その後何時間も経ってから、野田秀樹の「20世紀最後の戯曲集」の中の「カノン」のモチーフに「民衆を導く自由の女神」が使われていたことを思い出した。残念ながら、私は「カノン」を観に行けなかったので、それは単に電車の中で読んだ脚本からだけの記憶にすぎない。
そして、またしばらくしてから、そういえば「Scraps」でも「カノン」のことを話題にしたことがあったじゃないか、と思い出した。そう、"Canon Simplex"だ。あの話は、去年の春から毎日一年続いたマンツーマンの英語研修の最初の自己紹介の時に適当に話した内容がオリジナルだ。あのときは「カノン」が上演される前だから、「民衆を導く自由の女神」がモチーフにされていることなんか全然知らなかった。今はもちろんそれを知っているわけだけど、一年前の私はそんなことは知らなかった。けれど、一年後の今日は何故か「カノン」のモチーフは"Liberty Leading the People"だよなぁ、やっぱり、と思ったのである
それにしてもDouble meaning wordばかりな文章だなぁ。(リンク)(リンク)
2002-12-12[n年前へ]
■複写機・プリンタの音質研究
ここ何日か午後遅くは環境に配慮した新しい電子写真技術がらみで演劇の脚本・演出のようなことをしていた。で、それはともかくこの中の富士ゼロックスの黒澤由美子氏が報告する音質研究の内容は予稿を眺めてみてもなかなか面白そう。かなりマニアックでとても興味惹かれるのである。本人か共同発表者がオーディオマニアか?立体音感なんて面白そうだし。
2004-11-14[n年前へ]
■ハーマイオニーが…
「ねぇ、ハーマイオニー。夏休みの間にナニかあった?」「いいぇ、別に」「ナニかアレコレあったように見えるけど…!?」「何言ってるの??」というLindsay Lohanの"Lindsay Lohan Does Harry Potter" ちなみに、脚本はここに。ハリーポッター好きの(オッパイ星)人はヒアリング学習用に良いかも。 って、別にヘンな大人向けではないので、ジェンダー主義者以外は眺めてみると面白いかも。
2008-03-08[n年前へ]
■「藤本有紀」と「藤本義一」と「徒然草」
NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の脚本家「藤本有紀」が「(放送作家・作家・司会などで有名だっの)藤本義一」の長女だろうかという話が、あった。「ちりとてちん」が上方落語を実に旨く濃縮した味になっているのだから、その作り手はきっと”あの”藤本義一の娘に違いない、という話があった。上方落語家の半生を描いた「鬼の詩」で1974年に直木賞を受賞し、上方文学の研究を続けている藤本義一の娘ではないか、という話がされていた。
「落語いうのはな、人から人へ伝わってきたもんや。これからも、伝えて行かな、あかんもんや」
藤本有紀 「ちりとてちん」
「藤本有紀」は「藤本義一」の血を受け継いだ娘ではないようだけれども、藤本有紀は確かに藤本義一が伝えたいと願ったもの・そういったものの流れの中に、いる。
何百もの時空を生きて現代に伝わる古典には、それだけの深い理由があるのだと伝えてやらなくてはいけない
藤本義一 「徒然草が教える人生の意味」
「ちりとてちん」の主人公が好きなのが「徒然草」で、弟子入りした先の落語師匠は徒然亭の徒然亭草若だ。「徒然」の語源は「連れ連れ(つれづれ)」で、「繋がっていく・続いていく」ということだ。時間や人や社会の流れの中で、同じようなものが、ほとんど変わらずにずっと続いていくことを意味している。
文化はバトンタッチで引き継がれていくものだと知り、自分もナニかのバトンを手にしようと考えるだろう。それは、なにも文学だけではなく、音楽であり、絵画であり、科学への志向に繋がっていくように思う。
藤本義一 「徒然草が教える人生の意味」
そんな「連れ連れ」を、退屈に感じ、あるいは、ひとり寂しくやりきれなくも感じ、時に鬱屈しつつひとり物思いに沈んでしまったりもする。「徒然」という言葉はそんな印象の言葉でもある。けれど、こういう言葉もある。
落語はひとりでやるもんと違うそれが、つまりは、「連れ連れ(つれづれ)」だ。私には、まだ、よくわからないけれど、そういうものがもしかしたら歴史や人や社会といったものなのだろうか。
藤本有紀 「ちりとてちん」
「お前も、その流れの中に、おる」
藤本有紀 「ちりとてちん」