2009-11-22[n年前へ]
■「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去る
自転車に乗り小一時間ばかり走ると、古い家屋に囲まれた公園を見つけた。そこで、リュックから「硝子戸の中 (新潮文庫) 」を取り出して読みふける。
彼女は、その美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱きしめていたがった。不幸にして、その美くしいものは、とりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷そのものであった。二つのものは紙の裏表のごとく、とうてい引き離せないのである。「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去っていく、という文章を読んだ後に、頁を閉じる。そして、多分、じきに忘れるだろう景色の中を自転車で走る。
私は彼女に向って、すべてを癒す「時」の流れにしたがってみなさい、と言った。彼女は、もしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥げていくだろう、と嘆いた。
公平な「時」、大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口も次第に癒してくれるのである。
「硝子戸の中」 夏目漱石
2009-11-29[n年前へ]
■過去の一瞬を舞い戻す匂い
渡辺淳一「男と女のいる風景 」から
ある歌や曲で、ある人の思い出が蘇(よみがえ)るように、ある季節の匂いで過去の一瞬が舞い戻ってくることがある。
「公園通りの午後 (集英社文庫)」
2010-02-09[n年前へ]
■「記憶の中の瞬間」と「スローモーション動画作成サービス」 (初出:2006年02月01日)
最近では、ビデオカメラを持っていることが普通になっているのでしょうか。
たとえば、結婚していて子供もいるなんていう方の場合、かなりの高い確率でビデオカメラがあったりするのかもしれません。生まれたばかりのお子さんが「小さな手を広げている姿」、「運動会でトラックを走っている勇姿」、そんな風景を撮影するために、ビデオカメラを買ったという方々ををよく見かけます。
少し前まで、といっても二十年近く前までは、「大事な一瞬をカメラで静止画として記録する」のが一般的でした。しかし、今は、動画記録可能なカメラも安く便利になっているために、「ちょっと良いなと思った景色を動画で記録する」ことも、ありふれた日常の1シーンになっているように思います。
それでも、(動画を記録する)ビデオカメラではなくて、一瞬を捉える静止画を撮影する(スティル)カメラを使い続ける人、動画より静止画を好む人も多いように感じます。そういった人たちがまだまだ存在し続ける理由は色々あるのでしょう。たとえば、そんな理由の一つがこんなことです。
それは、「一瞬ならともかく、ある程度の時間の”良い瞬間”を撮影するのは結構難しい」なんていう理由かもしれません。あるいは、「動画はデータ量が多くて扱いづらい」なんていう理由もあるかもしれません。…そして、理由の一つに、「人の記憶がそれほど”豊か”でない」ことがあるのではないか、と私は思うことがあります。
人の記憶の中では、「長い動画を保存しておく」ことはできなくて、せいぜい「一瞬の風景を記憶しておく」ことしかできないのではないか。だから、「長い動画」を見たとしても、記憶の中の景色とは一致させることはできないのではないだろうか。そして、「一瞬の画像」では、「今イチ感」もあるけれど、「一瞬の風景」の方が(動画よりも)むしろ記憶の中の景色と一致して「懐かしい感じ」を強く呼び起こすのではないだろうか?と思ったりするのです。
そんなことをふと思い出したキッカケは SONY BRAVIAのコマーシャル映像です。「サンフランシスコの坂の景色を背景に、数え切れない色とりどりのスーパーボールが弾み駆けていく、坂を跳ね降りていくスーパーボールや、一緒に飛び跳ねるカエル、建物の影からボールたちを振り返る男の子などが写されたスローモーション映像」を眺めたせいです。
ほんの一瞬の風景が「スローモーションの走馬燈のように長く見える景色」になる、それは「記憶の中の景色」と実に良く似ているのではないだろうか、と思ったわけです。「記憶の中の景色」は動いてはいるけれど、それは普通の「時間が普通の”速さ”で動いている動画」とは少し違って「”ほんの一瞬の時間”が長く引き延ばされたような動画」なのではないだろうか、と思ったのです。
だから、それはビデオカメラで撮影された動画よりも、まだ(静止画像を撮影する)スティルカメラによって記録された写真の方に近いのではないだろうか、とふと妄想をめぐらせてみたのです。だから、スティルカメラを好む人も多いのではないだろうか、と考えてみたのです。
だとしたら、「スローモーションの走馬燈のような景色」を撮影することができるビデオカメラがあったら、「記憶の中の景色」と同じような景色を撮影することができるかもしれません。つまりは、「高速度に風景を撮影し、それをゆっくりと再生することができる」高速度カメラがあったとしたら、記憶に忠実な景色を撮影することができるかもしれない、とふと思ったのです。…とはいえ、高速度カメラなんてそうそう買えたものではありません。安くても、普通は100万円くらいのお値段になってしまいます。それでは、そう簡単に買えるわけがありません…。
しかし、最近「普通のビデオカメラで撮影した動画や通常のビデオ動画などから、スローモーション動画を作る」というサービスを知りました。 例えば この動画(.wmv形式) から こんな品質のスローモーション動画(.wmv形式) を作成するようなサービスです。こんなサービスを使えば、値段が高い「高速度カメラ」を使わなくても、記憶に忠実な景色を再現することができるかもしれません。生まれたばかりのお子さんが「小さな手をゆっくりと広げていく瞬間」や、「お子さんが運動会で地面を蹴って走っている瞬間」のスローモーション動画を作成してみるのはいかがでしょうか。
もしかしたら、それはまさに「記憶の中の瞬間」と同じ景色になるのかもしれません。
2010-03-19[n年前へ]
■「インターネットショートカットとしてWEB閲覧履歴を保存する」情報検索術 (初出:2006年08月13日)
「とりあえずググる」を卒業!TOPエンジニアの検索術 という記事を面白く読みました。特に「面白いな」と思ったのが、増井俊之さんの「ネット上で見て回った情報に関しては、ページを表示した瞬間にURLを逐一、取得・記録する」という検索術と、Otsuneさんの「自分のソーシャルブックマークにブックマークした記事は、記事全文をGmailに転送する(という処理をPlaggerというツールを使って行う)」という検索術です。
おふた方を始め、他の方も「(自分が知らない)新たな情報を検索する技術の話」ではなく、「自分が、少なくとも一度は眺めたことがある情報、あるいは自分が作り出した情報を、必要なときに取り出す技術」の話をされています。古くは、互いに求め合う主人公二人が不幸にもすれ違い続けるドラマ「君の名は」ではありませんが、出会うことよりも(必要なときに)再会することの方が困難だ、というのはよくありそうな話です。
増井さん・Otsuneさんの検索術を読み、「自分や他人が生み出した情報に関して、どの程度の範囲の情報を、どのような場所に保管しておき、どのような手順で検索をかけるか」ということを考えてみたくなりました。増井さんの「ネット上の(自分が表示した)ページ全部」のURLという「範囲」やOtsuneさんの「自分のソーシャルブックマークにブックマークした記事全文」という「範囲」、あるいは、「Gmailに情報を保管し、Gmailの検索機能を使う」という保管場所や検索手順を参考にしながら、私も同様のことをやってみることにしました。
といっても、ただ単純に先人の検索術を合体させ、「ネット上の(自分が表示した)ページ全部」の「全文」を自分のPC上に保存し、(必要なときにGoogle Desktopなどを使って)PC上で検索をかける、というやり方です。ただし、先人が作ったレシピ(調理法)に多少のスパイスを加えて、自分なりの調理をしてみることにしました。
そこで、まずは、その作業をするためのアプリケーションを作ってみました。それが、「眺めた全WEBページの内容を、眺めた瞬間に、本文が埋め込まれ、サムネイル画像を付けられたインターネット・ショートカットとして保存するアプリケーション(ブックマーク機能付き)」です。「自分が読んだページの内容テキストとサムネイル画像」を全て「自分のPC内に保存しておく」アプリケーションです。
このアプリケーションは、「インターネット・ショートカット」というWindowsで使われる標準機能の中に、WEBページの全文を埋め込み、WEBページのサムネイル表示機能も実現している(検索もWindowsのファイル検索でも構わない)、というちょっと面白い実装になっています。また、ブックマーク時に保存されるサムネイル画像が「(ページ中の)今眺めている場所」で、「URLで示されたページのトップ(もしくはアンカー部)のサムネイル画像」ではない(つまりアンカーがない部分を後で眺めやすい、かもしれない)、というところなども少し面白いかもしれません。
ところで、ドラマ「君の名は」の冒頭はいつも、「忘却とは忘れ去ることなり」というナレーションで始められていました。今なら、とりあえず相手の名前でググれば相手を見つけることができたりもしそうですが、それでも「忘却・忘れてしまう」ことばかりだと思います。あなたの検索術は、「自分や他人が生み出した情報に関して、どの程度の範囲の情報を、どのような場所に保管しておき、どのような手順で検索をかけるもの」なのでしょう? あなたの生活パターン・あなたの性格に合った面白い検索術は、どんなものなのでしょうか?
2010-05-21[n年前へ]
■「ピカソ」を記憶のままに描いてみる
ふと、「ピカソ」を記憶のままに描いてみるとどうなるかと思い、テキトーに描いてみた。描いてはみたけれど、頭の中にイメージした題材が「ピカソ」であることすらわからない絵になってしまった。これではまるでシャガールか、…いやそんなことを言うとシャガールが窓の外から怒って襲ってきそうだ。とにかく、これ以上ないくらい下手くそなラクガキだ。
記憶にまかせて、「有名な画家」の絵を描いたら、一体人はどんな絵を作り出すものだろうか。たくさんの人が、たとえば、「ピカソ」の絵を描いたら、どんな絵の集合ができるのだろう。