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2007-07-06[n年前へ]

「物語」と「市場経済」 

 現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。

科学とオカルト 」P.7 はじめに
 「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。

 本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。

 宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。

科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
 元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。

 お客様は神様です。  三波春夫
 「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
 幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。

科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
 消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。

養老孟司
 

2009-03-06[n年前へ]

「かげがえのない私」という物語 

 池田清彦 「科学とオカルト (講談社学術文庫) 」より。

 幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かげがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。

池田清彦 「科学とオカルト (講談社学術文庫)

2009-05-14[n年前へ]

日本の会議は”怪議”という 

 扇谷正造の「聞き上手・話し上手―市民のための講座(講談社現代新書) 」から、王克敏によるものらしいという言葉。

 「(日本の会議は)人を集めて議せず、議して決せず、決して行わず、行って責任をとらず、これを”怪議”という」

2009-07-26[n年前へ]

合理性が省くものとは何か 

 赤坂真理「モテたい理由 (講談社現代新書) 」から。

 しかし、合理性が何を省くかというと、時間であり、感情とその成熟である。

2009-07-30[n年前へ]

身体がつないできた記憶 

 赤坂真理「モテたい理由 (講談社現代新書) 」から。

上体をリーンアウトにしてバランスをとる。(中略)シンプルな物理学を体で信じる幸せ。オフロード車の2ストロークエンジンが燃やす、エンジンオイルの甘い匂い。
 心がなんとかつくろおうとした物語でなく、身体がつないできた記憶。そんな意味のなさに私は助けられていたのかも知れないと思うことがある。



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