hirax.net::Keywords::「南伸坊」のブログ



2001-01-21[n年前へ]

カンバスから飛び出す「名画の世界」 

作者の視点から眺めてみれば

 先日、新穂高ロープウェイスキー場へ行った。雄大な景色に囲まれたとても素晴らしいスキー場だ。その景色を思わずデジカメで撮ったのが下の写真である。まずはこの「写真をじっくりと眺めて」みて欲しい。
 

新穂高ロープウェイスキー場から眺めた景色

 私が感じた「雄大な景色」は伝わっただろうか? きっと私の感じた「雄大な」感じは百分の一も感じられないに違いない。それでは、次に片目をつむって、もう片方の開いた目だけでこの写真をもう一度眺めてみてもらいたい。そうすると、今度は一体どんな風に感じられるだろうか?今度は、立体的に浮かび上がる山と谷が浮かび上がってくるハズである。

 この「片目で写真を眺める」というのは南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」である。その一部分を引用してみると、

 ヒトの視覚の特殊性というのは、横に並んだ二つの目が、それぞれ違った映像を感じて、それが脳ミソでかきまぜられて、立体を感じるようになっていることなのだった。

 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーをのぞいていないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。

 私はこれを初めて読んだときは、目からウロコが落ちたような気持ちになった。それまでは、私は写真を「じっくりと眺め」ようとして、両目でじっくりと眺めてしまっていたのである。両目、すなわち、作者とは異なる視点からじっくりと眺めてしまっていたのである。写真に切り取られている景色は作者の視点・場所から描かれているのだから、その場所からじっくり眺めてみれば、もっとそこに切り取られている世界を感じることができたに違いないのだが、そこをちょっと勘違いしていたわけだ。

 映画のセットは撮影しているカメラの位置から見るのが正しいのであって、それ以外の位置から見ても意味がない。違う角度から見てみても、それはあまり面白くないのである。いや、もちろん映画村とかユニバーサルスタジオとかそんなのも繁盛しているくらいだから、実は裏側から見るのも面白いのだろうが、それはあくまで表から見終わった後での、「裏の眺め」なわけだ。

 そういったわけで、写真を眺めるときには「(作者と同じ)片目でじっと眺める」のが良いわけであるが、それは写真だけに限らない。平面に描かれたものであればそれは何だって同じである。普通の絵画だって、版画だって、もう何でもそうだ。例えば、このモネの「散歩、日傘をさす女」を両目と片目で眺めてみよう。これはモネが家族を光り輝く景色の中で描いた名画である。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってくることと思う。片目でこの画を眺めるとき、私達の目はセザンヌが「彼(モネ)は眼である。しかし、何という眼だろう。」と評したモネの目と一体化し、モネが眺めた景色を私達も眺めることができるのだ。

 というわけで、写真に限らず平面に描かれたものであれば、私は片目で作者と同じ視点に立って眺めてみるのが面白いと思うわけだ。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないので、私達も同じように片目で見てやればあとは私達の想像力が作者のもう片方の視点を作りだし、作者の感じた世界を立体的に感じることができるのである。
 

 と、そんなことを新穂高ロープウェイスキー場のリフトの上でぼぅ〜と考えていると、少し面白いことを思いついた。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないのであれば、もう一つの視点を想像して、そのもうひとつの視点から眺めた情報を絵画に加えてしまえば良いのである。

 簡単に言えば、オリジナルの画に描かれている物体の距離に応じて、左右の視差をつくってやった二枚の画像を作れば良いのである。そして、その二枚の画像を左右の目で眺めてみれば、作者が同じく左右の目で眺めている景色、作者が描こうとしたものを眺めることができるかもしれない、と思ったのだ。もちろん、その処理にはいくつかの面倒なこともあるのだが、その処理の細かい内容・注意についてはまた次回以降に説明してみることにして、今回はまずはそういう処理をしてみた名画を見ていくことにしよう。

 というわけで、これが作者の視点情報を勝手に加えて3D化したモネの「散歩、日傘をさす女」hirax.netEdittionである。この二枚の画像を平行法、つまり右の絵を右の目で眺めて、左の絵を左の目で眺めてみたならば、キャンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、キャンバスの中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet
hirax.net Edittion

 このThe Stroll, Camille Monet and Her Son Jean hirax.net Edittionを眺めれば、あなたもモネの視点から、彼の両目に映るカミール・モネを感じることができたことと思う。平行視が苦手な人は目の力を抜いて、ゆっくり挑戦してみてもらいた。平行法のコツはぼぅ〜と遠くを眺めるように、目の力を抜くことである。

 この「散歩、日傘をさす女」は単に紙で作ったニセモノのパノラマの景色みたいに見える、という人がいるかもしれないので、次にシャガールの「窓」も同じように眺めてみよう。まずは、オリジナルの「窓」である。
 

Window 
Chagall, Marc

 そして次が、作者の視点情報を勝手に加えて3D化してみたシャガールの「窓」hirax.netEdittionである。これも同じく、平行法で描かれている。シャガールが眺めている窓の向こうの景色、世界が深い奥行きと共に目の前に出現するハズである。
 

Window 
Chagall, Marc
hirax.net Edittion

 さて、写真にせよ絵画にせよそれは作者の視点から世界を切り取ったものである。その「切り取る」という作業は、このシャガールの絵のタイトルではないが、"window"=「窓」そのものである。限られた「窓」によって画家の感じた世界の一部がカンバスの上に切り取られる。それは逆に言えば、カンバス上に画家の感じた世界へ開かれた「窓」が開いている、ということでもある。 

 もちろん、私達の視点は必ずしも作者の視点とは同じでないし、作者が世界を切り取った窓もごく限られた小さな窓だろう。だから、なかなか作者が感じた世界を共有することはできないだろう。しかし、作者の視点を想像しながら、作者の切り取ったごく限られた窓に立って外を眺めてみる時、きっとそこには描かれている世界は生き生きと見えてくるに違いないと思うのである。
 

2001-02-11[n年前へ]

もう一つの目から眺めた世界 

hirax.net式「平面画像立体化法」

 先日、出張のついでに本屋で野田秀樹の「20世紀最後の戯曲集」を買った。電車の中で冒頭の「RightEye」を読んでいると、こんな台詞があった。

 オレはもう二度と、立体写真を見ることができない。立体星座早見盤とか、アトラス立体地図とか、ああいうのが見れなくなるんだぞ。
「Right Eye」は野田秀樹自身の右目失明、カンボジアで亡くなったカメラマン一ノ瀬泰造、被写体を執拗に追いかけるパパラッチ達、そして死んでいった一人の女性が姿形を変えながら絡み合っていく話だ。

 立体写真を見ても立体感を感じるかどうかは人それぞれであるし、空にかかる虹を眺めてみてもそれが何色に見えるかはやはり人それぞれだろう。「平面画像を立体化する話」の話を書いてみても、それを眺めることができない人もいるし、Photoshopを使った話を書いてもPhotoshopを持っていない人には面白くないだけかもしれない、そしてオッパイ星人の話を書けば(いつもバストを大きくしがちなのは、わかりやすさの都合上だったりするだけなのだが)、それで不快になる方も多々いることだろう。

 それでも、今回も立体画像の話、「平面画像立体化」の続きを書く。

 
 さて、こんな平面画像があったとしたら、どのようにしてやれば立体化することができるだろうか?
 

こんな平面画像があったら?

 人間が立体感を感じる大きな手がかりの一つが両眼視差だ。遠くにあるものを眺める時には、右目と左目にはほぼ同じように見えるが、近くにあるものを見る時は右目と左目の場所が違うため、右目と左目では違う景色が見えることになる。例えば、下の図のように緑色の○が遠くにあって、青色の□が近くにあった場合を考えると、緑色の○は右目からも左目からも同じように見えるが、青色の□は左目からは視界の右側に見えるし、右目からは視界の左側に見える。
 

左目(上)と右目(下)から見える景色が違う

 この左目と右目からの見え方の違いを頼りにして、立体感を得るのが両眼視差である。であれば、左目用と右目用に別々の画像を用意してやり、その位置のズレを意図的に作ってやれば立体的に見ることができるわけだ。

 例えば、下の画像のように青色の□を右へずらしてやり、これを左目用の画像に使えば、立体感を得ることができる。
 

位置のズレを意図的に作ってやると?

 下の画像はそのようにしてやることで、一番最初に示した図を立体的に見えるようにしたものである。この図は平行法= 「左目で左図を見て、右目で右図を見る」なので、遠くをぼう〜っと眺めるつもりでこの図を眺めれば、きっと青い□が近づいて見えて、この図が立体的に見えるようになるハズだ。
 

こうすると立体的に見える
(平行法 = 遠くをぼう〜っと眺めるつもりで左目で左図を見て、右目で右図を見る。)

 こういった方を用いれば、立体画像を作ることができるわけで、実際「立体星座早見盤」というようなものはそういうやり方で作成されているわけではある。

 だが、実は一般的に「平面画像を立体化しよう」とすると、話はそう簡単ではない。それは、こんな図を立体化しようとする場合を考えてみればわかると思う。
 

じゃぁ、こんな図はどうやってやれば立体化できるの?

 「さっきと同じで、青い□の位置をズラしてやれば良いんじゃないの?」と簡単に言う人は少しばかり考えが足りない人である。ちょっとでも考えてみさえすれば、大きな問題に気付くハズである。この図のように背景がある場合には、青い□の位置をズラしたら、そのズレた部分は一体どうしてやれば良いのだろうか?
 

しまったぁ!見えない部分があるぞ?

 この部分に何があるかは判らない。だとしたら、単純に青い□の位置をズラすわけにはいかない。考えてみれば、そもそも一つの目から見た情報しかないのだから当たり前なのである。もう一つの目から見た時の情報は我々の手元には無いのである。そこの部分をどうしたら良いかは我々にはわからないのである。

 しかし、そうは言っても立体化するためにはこの青い□の位置を左へズラしたい。だけど、位置をズラしたらその部分が真っ白になってしまう。だけど、やっぱり立体化したいからズラしたい。"Toshift it or not to shift it; that is the question."というわけで、これはもうハムレットの心境のようになってしまう。このジレンマを解決してやらなければ、背景がある、あるいは距離の異なる物体が視野の中で重なっている平面画像を立体化することはできないのである。

 そこで、「できるかな?」ではそのジレンマを解決するために、単に位置をズラすのではなくて、青い□を拡大しつつ位置をズラすというやり方を考えてみたのである。名付けて、hirax.net式「平面画像立体化法」だ。

 例えば、上の画像の場合だとまずは青い□を拡大して、その後右へズラすのである。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」
まずは拡大して(左図)、その後位置をズラす(右図)

 上の絵を見ればわかるだろうが、青い□を拡大してやると、元の図形と重心は同じだが、その周りに青い□が拡大することになる。そこで、その拡大した分だけであれば、位置をずらしてやっても背景の画像情報が無い場所が露出してしまう、ということがなくなる。このhirax.net式「平面画像立体化法」はつまり、隠された部分が部分的に露出してしまうのを防ぐために、それ以外の部分を隠してしまうというテクニックなのである。
 
 そのようにして、先の一枚の平面画像を立体化すると下の図のようになる。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」を使って
立体化してみた画像
(平行法)

 前回作成したシャガールの「窓」hirax.net版などはそのようにして作成したものである。この画像の場合は窓枠部分は全く同じなのであるが、窓の中の景色を拡大後、左右の目用の画像をそれぞれ左右にズラしている(ズラし量は高さによって変えている。すなわち景色の中で遠くの部分と近く区の部分ではズラし量を変えている)のである。だから、よくこれらの画像を眺めてみれば、景色部分はオリジナルよりもhirax.net版は大きくなっているし、絵の中に描かれている情報自体もむしろ減少していることがわかると思う。
 

Window 
Chagall, Marc 
hirax.net Edittion
 
オリジナル版

 まずは、hirax.net式「平面画像立体化法」の原理がこの「画像の一部を拡大してからズラす」ということなのである。このやり方でシャガールの「窓」のような絵は立体化してやることができる。

 しかし、多くの人が気付くと思うがこれだけではまだまだ不十分なのである。最初の例えのように、四角や丸の形状の物体だけがある場合などはこれで十分なのだが、一般的にはさらなる問題が発生するのである。シャガールの「窓」の場合には、窓枠がほぼ四角と丸の組合わさったような形状をしているために、その問題は発生しないのであるが、一般的な形状の場合には話はそう簡単にはいかないのである。そんな場合、すなわち四角や丸の形状の物体だけで画像が構成されていない場合には、どんな問題が発生し、それをどんな風に解決していくことができるか、については次回以降に考えてみることにしたい。
 

 さて、冒頭で読んでいた「Right Eye」の中の「立体写真を見ることができない」という台詞はこんな感じのカメラマンに対する台詞で続けられていく。

 この写真を撮った奴らは、右目(Right Eye)をなくしてる。立体感がない。正しい(=right)右目と、覗きたい左目とのバランスを失っている。物を捉える立体感をなくしたままだ。
この台詞を眺めていると、前回の話を読んだ人であれば、その中で引用した南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」の文章をきっと思い出すことだろう。
 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーを覗いてないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。
 これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。
 つまり、立体感を失った平面画像を眺めるときには、カメラマンあるいは画家と同じように覗きたい片目だけで覗かなければならないのであった。そして、その平面画像に奥行きを与えもう一度立体画像にしてやるためには、hirax.net式「平面画像立体化法」ではないが、違う場所から眺めたときに「姿を現してくる隠されたもの」についてどう対応するかということを考えてやらなければならないと思うのである。

 それは、片目で平面画像を眺めて、そして頭の中でその立体感を与える作業をしてやっても良いかもしれない。また、両目を開けて考えてみても良いかもしれない。ただ、ファインダーを覗いてないほうの目で景色を眺めようとする時には、見えていない景色を想像したり、考えたりする必要があると思うのである。その想像力は、ある意味義務でもあるし、また貴重な自由でもあるのかもしれないなと、電車の中で、ドアに寄りかかりつつ「RightEye」の最後の台詞

のこされた(=left)ものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由がある
を眺めながら、そんなことを考えてみたりした。
 

2008-05-24[n年前へ]

「大村益次郎」の頭 

 私が大村益次郎の肖像画を描いたキオソーネであれば、「コノアタマ、スコシ、ヘンデス!」と、何度も確かめただろう。しかし、益次郎の弟子は、「シ、然り。されど師匠はまさにこのようでありまして……」
 南伸坊は天才である。南伸坊が雑誌「旅」に連載したものが本になったのが、「歴史上の本人」だ。10年前の本である。その人のなりをして、その人が過ごした場所に行き、その人になって感じていく。
 神技とおそれられた大村益次郎の軍略とは、つまり「情報」であり「技術」であり、「近代」であり「合理主義」であった。……つまり、大村益次郎は、その頭によって必要とされ、その頭によって殺された。
 「この頭部は……」と私は頭部をまた脱ぎながら思った。見掛けの滑稽さに似つかわしくなく深刻である。
 大村益次郎には、平時に、学者や研究者として生かしてあげたがった。知ることの楽しさ、一途にそこにつき進んで、家庭に帰れば冗談を言って笑い転げるような、そんな生活をさせてあげたかった。そうしていたら、明治維新がならなかったとしてもだ。
  南伸坊 「歴史上の本人」

大村益次郎






2008-05-29[n年前へ]

「余の辞書に不可能という語はない」 

 「余の辞書に不可能という語はない」っていうのは「余に不可能事はない」というのとは違うので、不可能なときは、ほかの人の辞書を借りてくればいいリクツだ。この辞書を経由したあたりに、けっこうアジがあるかもしれない。
 南伸坊「ごはんつぶがついてます」 P.107

「言葉を解釈する文章」と「眼で見る文章」 

 南伸坊の「ごはんつぶがついてます」中で宮武外骨に関して書いた文章を読み、「あぁ、そういうことなんだよなぁ」と感じた。

 一般に「頭がいい」とされる人は、説明のできる人であって、つまり言葉でわかっている人、耳の人のことです。
 ここで言っている「耳の人」というのは、「音を聞く器官としての耳」というよりは、「言葉を解釈する器官としての耳」というような意味合いだ。本当に素の文字の羅列としての言葉だけを受け取る器官というニュアンスである。
 南伸坊はこんな感じ方に対する説明を書く一方で、それとことなる「解る」をも並べ書く。
 論理をつみあげていって、何かを解(わか)るというのではなく、何かをじっと見ていたり、何かをそこらに並べて、一望していることで、解ることというのがあります。
 南伸坊は、「こういった感じ方をする人々は耳の人ではなく眼の人だ」と名付ける。
 さて、眼の人である宮武外骨は、文章も眼で書いています。……つまり書かれている「内容」ではなくて、書かれ方が「内容」であるというような意味合いにおいて、これは眼の文章なのです。
 「ごはんつぶがついてます」 p.192
 南伸坊が言う「眼の文章」というのは、レイアウト・タイポグラフィー・イラストレーション……といったものがすべて組み合わさった総合体を指している。
 さまざまなWEBページを眺めるとき、ページごとにスタイルも違っていて読みづらさを感じる時がある。もしかしたら、そう感じる時は「耳の人」寄りな頭になっているのかもしれない。そして、スタイルシートでデザインされたページを眺めていて、何だか色々なものの組み合わせが合わさった気持ちよさを感じ、何かを読み取ったつもりになりそうなときは、きっと、「眼の人」よりになっているに違いない。
 そんな、「言葉を解釈する文章(あるいは読み方)」と「眼で見る文章(あるいは見方)」があって、それはそれぞれ得意・不得意な分野があるのだろうと思う。
 論理を積み重ねるようなものが得意な方、曖昧模糊としたものを明瞭に浮かび上がらせることが得意な方、その両方の感覚を兼ね備えられれば良いのかもしれないが、現実それは無理な話だろう。せいぜい、その時の自分の読み方が「耳の人」寄りなのか「眼の人」寄りなのかを意識しておくことくらいしか、できないのかもしれない。



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