2007-09-15[n年前へ]
■「線路」と「人生の方程式」
朝早くは晴れていたけれど、10時を過ぎる頃には雨と霧で包まれる。高原特有の、白い霧が風に早く運ばれていく。
√a = 18 旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。青春18切符をポケットに入れて、京都と東京の間を11時間かけてよく移動した。
河から海へ船が出て行く。後ろの港には船が帰っていく。風の流れがそのまま波を動かして、その波の上に立っている人たちがいる。風が吹くともっと潮の匂いが強くなる。安いPCでグリッド・システムを組むと、どうしても巨大なハードディスク領域ができあがる。そんな領域を有効活用しようと思うと、Gmailみたいなものになるのだろうか、と昔考えた。
この方程式で使われている"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれません。"=="が"="に変化した途端に、「人生の方程式」が「人生の定義式」に変わる。自らは決め得ない未知数を条件に応じて解くという行為が、能動的に何かを決めていくということに変わる。
素直に言い換えれば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。さらに言い換えるなら、「すべての人を18歳の頃に戻す」ものが「旅路(Route)」なんだと、声高らかに宣言する力強い定義式なのかもしれません。荒木経惟が撮る青春18切符が好きだった。あるビルの回転ドアを出るとき、その回転ドアの対角線上には、ビルへ入っていく荒木経惟がいた。
自分や他人のつまらない考えに沿った「道(Route)」の上を走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少しだけは、良いのかもしれません。"=="が"="に変化した時、 if 文で使われる「こんな場合には」という等号が、定義という意志と行動に変わる。
「決められたレール」は無いほうがいい。 1995年 「青春18切符」冬
2007-10-14[n年前へ]
■作ってみたい、たくさんのもの
"So many of our dreams at first seem impossible,then they seem improbable, and then when we summon the will,they soon become inevitable."
常に前に進むことしか考えてねぇやつらに、後ろ向きの言葉はいらねぇ!
And even if they hate me they have to fall to me and that's fine. I don't care what they think of me.
常に作り続けることしか頭にないやつらに、見返りなんて必要ねぇ!
Believe it or not,I'm walking on air.
我々の辞書に「できません」という言葉は載ってません。
We can. We must. We will.
2007-11-24[n年前へ]
■海辺
上半身はウィンドブレーカーで、下半身はショートパンツでも、風を気持ち良く感じるくらい暖かい。そんな、晩秋の海辺。n年前の景色を見ながら、こんな文章を思い出す。
さて、大正の末から昭和二十年代まで活躍した木版画家に川瀬巴水という人がある。
巴水のもっとも得意としたものは、暗く清澄な景色で、とりわけて夕焼けの風景を描いたものに、誰が見ても傑作という作物が集中している。
彼の夕暮れには、独特の寂しさが横溢していて、どこか人恋しい感じも漂っている。画中小さく描かれる人物はたいて後ろ向きで黙然と遠くを眺めてい、私どもはその画中の人物となって等しく日本の寂しい夕景を眺めつくす。
林 望「夕映えの渚にて」トランヴェール 2007,11
2007-12-13[n年前へ]
■「背景は必ず後ろにあって、前景より必ず大きい」の法則
最近、何種類かの時代年表を作っている。そういった年表は、あまりに手作業すぎると思うのだけれど、Drawソフトで描くことが多い。色々な情報を、Drawソフト上でレイヤーに分けながら、色んなイベントや時代背景や、それらの繋がりを、一つ一つ描いている。
そんな作業をしていると、今更ながら、気づかされることがたくさんある。たとえば、各「出来事レイヤー」はさまざまな「時代背景レイヤー」より必ず「前面」にある、なんていうこともその「気づき」の一つだ。「時代”背景”」というのだから、後ろ・背景にいるのは、当たり前な話だけれども、それはなぜか新鮮な気づきだった。
そして、「出来事レイヤー」は「時代背景レイヤー」より「前面」にあるだけではなくて、「時代背景レイヤー」は必ず「出来事レイヤー」より「大きい(広い)」ということにも気づかされた。もちろん、これも年表作りの作業をしていると当たり前の話だ。前面にある「出来事レイヤー」が「時代背景レイヤー」より大きかったら、「時代背景レイヤー」が見えなくなってしまうからだ。
背景は必ず後ろにあって、背景は前景(出来事)より必ず大きい。これは、年表作りをしていて気づいた「法則」の一つの例である。実際に何かを具現化しようとすると、その作業をする中で、必ずたくさんのことに気づかされる。何かを具現化する作業はとても辛い部分も多いけれど、とても楽しい部分も数多くある。その楽しい理由の一つが、これら「気づき」というグリコのオマケをたくさんもらえるからだ、と思う。
2008-01-06[n年前へ]
■路線バスで「ローレンツ収縮」!?
蜜柑畑から青い海を見下ろしたくなって、そんな景色の場所に行ってみたくなって、少し遠くまでランニングに出かけた。「往路」にずいぶん時間がかかってしまったので、「復路」の一部を路線バスに乗った。
ランニングのスピードに比べると、路線バスは宇宙をワープしているように速い。そんな路線バスの一番後ろの席に座り、ケータイのカメラ越しに外の景色を眺めていると、何だか奇妙な感覚に襲われた。
「外の世界が奇妙に歪んでる!?」「普段のランニングの速度に比べて、バスの速度が速いせいで、ローレンツ収縮が起きているのか!?」「ついに相対論的効果・ローレンツ収縮を肉眼で見ているのか!?」と一瞬妄想してしまうような、奇妙な景色がそこには見えていた。
目の前の家はピサの斜塔のように何だか斜めに傾いているし、松林もひしゃげているように見える。まっすぐ立っているはずの電信柱は明らかに斜めに地面に刺さっている。カーブミラーなんか、倒れないのが不思議なくらいの変な角度で設置されている?…何かがおかしい!?
いくら路線バスが速いといっても、相対論的効果が目に見えたりするほど速いわけもない。なぜこんな風に見えるかというと、動画撮影された景色が素早く一方向に移動しているのに対して、ケータイの撮像素子からの(動画撮影時の)値読み出しタイミングに(画素位置ごとに)ズレがあるために、こんな風に見えているに違いない。ここに貼り付けた動画中(撮影時には90度回転した状態で撮影されている)で、撮像素子からの読み出しは画面下方向からされていて、早く動いている近くのものが「画面下部では右に写り」「(読み出し時間が後の)画面上部では左に移り」「その結果斜めに見える」ということだろう。
誰もが手にするケータイのカメラも、ちょっと使う条件を変えただけで、90度撮影する向きを変えただけで、矛盾をきたして奇妙な世界を見せる。そんな入り口が目の前にはたくさん置いてあって、不思議の国のトムキンスのように、私たちを不思議で新鮮な世界に連れて行く。