2005-04-01[n年前へ]
■「科学のブラ」が株式会社トリソプから新発売
株式会社トリソプが認知心理学を応用した「科学のブラ」を今日発売。キツく寄せて上げる必要もない「女性に優しい」ブラジャーの誕生です。「科学は人(女性)を助けるために生まれ来た」わけですから、こんなブラジャーだって生まれて当然なのかもしれません。
なにはともあれ、地道に続けられてきた人間工学の研究成果がようやく製品になったようでなによりです。肩がこりがちなあなた、「科学の力」があなたの体を楽にします。試しに、おひとついかがでしょうか?
2006-03-18[n年前へ]
■ユングとオウムの物語
はてなグループを使った「オウム/アレフの物語」が始まったようだ。はてなグループを使い「物語」を書く、という目的と道具の選び方に、不思議にとても興味を感じる。私は【絵文録ことのは】や氏の書籍を今のところ読んだことがなく、「河上イチローが松永英明さんであった」という件を知るまでは、松永英明さんの名前もよく知らなかった程度なのだが、それでも興味を惹かれた。
だから、こんなページや、こんなページをはてなブックマーク経由で読み、私は松永英明さんと大学が同窓・同学年だったことに気づいた時には、何だか感慨深い思いに襲われた。大学に入学した頃、何も考えずに京大 吉田寮に「不法占拠者」として入寮した頃、ちょうど昭和の終わりの年の頃が、オウム真理教のチラシが街の電柱や壁に貼られ始めた。麻原彰晃が京大の学園祭に来る3年くらい前だ。
その頃、吉田寮の寮生(=「不法占拠者」)の折衝の相手となる学生部長は、ユング心理学で有名な河合隼雄だった。ユングというと「曼荼羅」な世界観という勝手なイメージがあるのだけれど、曼荼羅(マンダラ)と(オウム関連でよく聞いた)マントラとが音がそっくりだというだけの理由で、私の中ではユングとアサハラショウコウとは同じ引き出しに入っている。そんな理由で、オウムと聞くと、なぜかシンクロニシティ(共時性)なんて言葉が脈絡なく(因果関係もなく)浮かんでくるのだ。なんて、私の引き出しは浅いのだろうか…。
A sleep trance, a dream danceA shared romanceSynchronicity Police "Synchronicity I"
Many miles awaySomething crawls from the slimeAt the bottom of a dark Scottish lake Police "Synchronicity II"
2006-10-24[n年前へ]
■「UNIXコミュニティと女子高生」
from n年前へ.
まずUNIX コミュニティにおける言語と女子高生コミュニティにおける言語の相似性を提示する。次にこのような言語体系を生み出す環境の認知心理学的類似性について考察し、UNIX が女子高生と数学的に等価であることを示す。
2008-03-28[n年前へ]
■「物語が語られる順序」と「因果関係」
「ゲームの右と左 マリオはなぜ右を向いているのか」という「上手と下手」に関する記事を読んだ。こういった、上手・下手もしくは左・右といった辺りのことは、スライド・デザインにおける「上手と下手」、もしくは、「上手と下手」のブログで調べたこと・感じたこと・書いていることから、特に自分の中で変わっていることはない。
けれど、左右や上手・下手という軸でなく時間軸というものを考えると、たとえば、物語が語られる時間軸というものについて考えると、いくつも新しく感じたこと・納得したことがあった。そのひとつが、北村薫「ミステリは万華鏡」(集英社文庫)の中で語られていた「順序」というものである。
最も簡単な物語の語り方は、はじまりから始め、物語が終わるまで、あるいは聞き手が寝るまで話すというものである。
「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ
「物語が語られる時間軸」というのは、物語が時間軸のどの地点から始まり(読者に対し語られだして)、どの時点に収斂していくか 、ということである。もしも、いたって原始的な物語であれば、背景から話を始め、原因・過程を話し、そして結果を話すことになる。
あるいは、その逆に、たとえば推理ドラマであれば、まず冒頭で、「事件が起こる前・過去」と「ぼやけた形で描かれる事件が起こった瞬間」が描かれる。そして、そのあとの物語は、その瞬間・時点へと逆に遡っていくのが普通である。つまり、結果から原因・背景へ向かっていくのが通常のミステリの「方向性」である。語りの順序における斬新な実験の例として思いつくものは、ほとんどが犯罪や悪行や道徳的・宗教的な罪に関するようなものである。だからこそ、たとえば刑事コロンボの場合は、その物語が語られる時間方向性が、原因→結果という時間の流れそのまま、というところに「意外性」があったわけだ。
「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ
北村薫は「語りの順序が、現在→過去というように流れる物語」に関して、このようなことを書いている。内容を抜粋するために、少し書き方を書き直すならば、それはこのようになる。
ピラミッドを逆さまにしたように、最後に「出発点・背景」が描かれれば、その一点は、物語の冒頭から語られた「それ以降に起こったこと」のすべて重みがのしかかる。そして、出発点はその重みに歪み、過去と未来のコントラストは、ますます鮮やかになるのだ。
「普通人間のいちばん好きな考え方は因果関係です」と言ったのは心理学者の河合隼雄で、「人は、因果関係を納得しやすい。というか、因果がないと、物事の関係性を納得しにくい生き物なんだよね、人って」と書いたのは、小説家の新井素子だ。
彼らの言葉を、「物語が語られる順序」と「因果関係」が描かれたパズルのピースを並べようとするなら、どんな風に人は並べたがるものだろうか。あるいは、そんなピースに描かれた模様は、人によってどのように違って見え、どのように違って組み合わされるものだろうか。
2008-04-20[n年前へ]
■「サラリーマン工学に基づいたサラリーマン体操」と「サラリーウーマン工学に基づいたサラリーウーマン体操」
最先端のサラリーマン工学に基づいて開発された体操として、NHKが開発した有名な体操メソッドに「サラリーマン体操」というものがある。これは、「サラリーマン」に必要な、色々な動き・エクササイズを体系化したものであって、役に立つと同時に楽しくもなる不思議なエクササイズである。
しかし、世の中には「サラリーマン」だけでなく「サラリーウーマン」だって多い。そんなサラリーウーマンのための、つまり、サラリーウーマン工学に基づいているらしき「サラリーウーマン体操」を観察したことがある。
確か、大崎かどこかのビジネスビルだったと思う。ビルの中のレストランで昼食をとりながら通路を眺めていると、サラリーマンだけでなく、たくさんのサラリーウーマンが行き交っている。そんな多くのサラリーウーマンたちを眺めている内に、ある規則に気がついた。それは、こんな規則・法則である。
「サラリーウーマン体操」の法則
- 同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループが互いにすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは互いに「両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 30代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは、互いに「両手をへそ辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 40代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンたちが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンは互いに「片手を腰辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
長時間にわたる観察の結果、その挨拶のサラリーウーマンたちの仕方は、次のようなサラリーウーマン工学に基づいているように見えた。一緒にいる人(連れ)が同世代の場合、サラリーウーマンたちは(見つけた知り合い)に最大限の挨拶をする=両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らす(バイバイの)ポーズをする。この時、両手を肩の高さ以上に上げないのは、それではあまりに「手を振る行為」が目立ち過ぎるために、自分にも相手にもメリット(パフォーマンス/コスト)が少ないからに見えた。
そして、連れ(一緒にいる人)が同世代でない場合、サラリーウーマンたちは「見つけた知り合い」に対する挨拶度合いと、連れ(一緒にいる人)への気遣い(目立たなさ)度合いのバランス(シーソー・ゲーム)にしたがって、手を振る高さが変化するように思われた。連れが30代のサラリーマン(ウーマン)ならば、両手をヘソ辺りの高さで振るのが「ちょうど知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」であり、一緒の人が40代の年長者である場合には、片手を腰辺りの高さで(知り合いのサラリーウーマンに対して)振るだけというのが、「知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」となるわけである。
連れが40代のサラリーマン(ウーマン)の場合、両手でなく片手だけを腰辺りの高さで振る理由は、その観察から明らかにすることはできなかった。それは、もしかしたら、(自分の、あるいは、相手の連れに気を使い)手を振る行為をさらに目立たせたくなかったせいかもしれない。……あるいは、もしかしたら、腰の高さで両手を振ったとしたら、ペナルティ・ワッキーの「芝刈り機」状態になってしまうかもしれない。
いつかまた観察する機会に恵まれたなら、今度はその秘密を探ってみたい、と思っている。