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1999-10-04[n年前へ]

五色不動のワンダランド 後編 

奇怪な偶然

 前回前々回までのあらすじ

 江戸を守っている五色の結界、すなわち、五色不動を捜し求めて、私はさまよい歩いてみることにした。目黒不動から物語りは始まり、目青不動、目白不動を訪れていく。しかし、その最中に、現実が異様な形で姿を現すとは気づいていなかった...

 WEBの中では私は未だに江戸五色不動を訪れ、さまよっている。しかし、その最中に現実は異様な姿を現した。目黒不動でバラバラ死体の一部が発見されたのである。


 記事の一例は、
1999年10月1日(金) 21時32分
<死体遺棄>駐車場に切り取られた男性の性器 東京・目黒区 (毎日新聞)
http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/991001/dom/21320000_maidomc098.html
で読むことができる。10/1に目黒不動内で男性の下腹部が発見され、死後1-5日というからとは時期的にちょうど合ってしまう。それどころか、その後の情報に寄れば9/29に行方不明になったというから、ちょうどその日である。偶然が必然にすりかわっていくのが中井英夫の「虚無への供物」である。奇妙な偶然が続き、まるで自分が犯人であるような現実に襲われる話である。まるで、「虚無への供物」である。これで、他の不動でも死体が発見されていったら、まるで犯人は私であるかの錯覚に襲われてしまう。理不尽な偶然を受け入れるか、そうでなければ、自分が犯人でしか有り得ないという状況が出現してしまうのである。

 しかし、WEBの中の私はそんなことは露も知らず目赤不動尊、目黄不動尊を探しさまよっているのであった。目赤不動は駒込の駅から歩いていった。ちょうど夏の終わりで、お祭りをそこらかしこでやっていた。しかし、不思議なことに、人とはほとんど会わない。不思議な程である。
 このあと、地下鉄で東京駅に移動したのだが、駅にも人っ子一人いないのである。まさにワンダランドである。

目赤不動尊

東都駒込辺絵図(1857)


拡大図

目赤不動尊

 上の地図でも判ると思うが、ここら辺りは寺ばかりである。東京は実は寺で満ちているのであった。本当に寺ばかりなのだ。

 本郷、動坂の都電の停留所から、追分に向かって、...
中井英夫の「虚無への供物」


  目赤不動から名づけられた動坂という地名は今でも残っている。この動坂は江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」で有名な団子坂のすぐ近くである。ミステリ好きにはたまらないだろう。

 さて、最後は目黄不動尊(永久寺)である。目黄不動尊はもうひとつ平井にもあるが、今回はパスさせて頂いた。中井英夫の「虚無への供物」でもパスしているからである。

目黄不動尊(永久寺)

今戸箕輪浅草絵図(1853)

 
拡大図

 この辺りの町も奇妙に趣がある。実は東京は素晴らしい街であるのだ。

目黄不動尊

 残念ながら、中には入れなかった。

 たしかあれもお不動さんですわ、永久寺さんとかおっしゃって...。さぁ、でも目黄不動っていいましたかしら。
中井英夫の「虚無への供物」

 「虚無への供物」の冒頭で
 竜泉寺、といっても、あの「たけくらべ」で知られた大音寺界隈ではない。日本堤に面した三ノ輪よりの一角で、...
と目黄不動の近くから話は始まるが、ここに出てくる「竜泉寺」に注目すべきだろう。目黒不動は「龍泉寺」であり、ここでも話の奇妙な繋がりが存在するのである。

 確かにこのすぐ近くに「竜泉寺」は存在する。また、実はこの近くに「龍泉寺」も存在していた、その隣は不動尊なのであった。

 目黄不動尊はもうひとつあるが、そちらはいつかまた行く予定だ。それまで、奇妙な偶然が続き、江戸五色不動のワンダランドの扉が開かないことを祈るばかりである。
 

2000-08-16[n年前へ]

浅草・上野 

いい感じ。ビールもとても美味しい。(リンク)(リンク

2004-03-28[n年前へ]

浅草・北千住 

 浅草を過ぎるときに、撮った写真が一枚目。なんだか、その場所が持っている雰囲気に暗示をかけられたせいなのか何なのか、空気が少し色褪せて見える。こういうところで、「120°のわたしだけの地平線」を切り取ってみるのも確かに良いかも。タイトルをつけるなら、…「雷おこしと青いビル」


 北千住では、昼食をとりながらドラマ「プライド」の最終回の話題に。私はまだ見ていなかったのだけれど、なかなかにすごいストーリー展開だったらしい。「相手を抜いても抜いてもセンターラインにすらたどり着けない」というキャプテン翼も真っ青のコートの広さとか、「完璧なまでのマンツーマンシフトを逆手にとった奇想天外戦法」とか…、なんだかそれを聞きながら、ふと帰ったらビデオで「プライド」最終回を見てみようと思ったのだった。

 それはともかく、「氷の女神の女神なんか見えない」(アイスでもないし)わけで、すると当然ながらその結果は、「負けてるし」というのが後の二枚の写真です。

浅草・北千住浅草・北千住浅草・北千住






2008-01-25[n年前へ]

「泪橋」と「思川」 

 「泪橋(なみだばし)」といえば、ボクシング漫画「あしたのジョー」の舞台となった場所だ。東京都北区王子の王子神社と南の飛鳥山の間から、石神井川の水をせき止め東へ流した石神井用水(音無川)が、王子→田端→西日暮里→日暮里と流れ、三ノ輪まできたところで流れが分かれ、その一つが思川として隅田川に白髯橋付近で注ぐ。その思川にかかっていた橋が「泪橋」だ。


 泪橋という名前にはこんな由来がある。

 浅草方面から来てこの水路にかけられた橋を渡ると、そこには当時「仕置場」と呼ばれた千住小塚原の処刑場がありました(今の回向院あたり)。処刑場に運ばれる囚人達がもう二度と戻ることのできないこの橋で、皆、泪を流したとも、見送りの人たちとここで泪で別れた、とも言われ、この橋が囚人達が「娑婆」と最期の別れを告げる場所となっていたようでした。このような成り行きで、この橋が「泪橋」と呼ばれるようになったのだそうです。


 思川は荒川区と台東区の区境となっている。しかし、思川を見ることは、今はもうできない。思川の水の流れの上に「明治通り」が作られたからだ。泪橋も、現在では明治通りの上に掲げられた交差点の名前「泪橋」に姿を変えている。


 冒頭の「あしたのジョーの一こま」を見たとき、ふと、あしたのジョーの「丹下拳闘クラブ」が思川の千住小塚原の処刑場側の橋下にあったことに気がついた。つまり、思川の「浅草と反対側の川辺」に丹下拳闘クラブが建てられていた、ということである。


 ジョーが「あっ…」と叫び丹下拳闘クラブを見つけるシーンで、川の水は右から左に流れている。川の流れが「右から左に流れている」と見える理由はいくつかある。その中で一番大きな理由は、「漫画ではあらゆる”流れ”は右→左に進む」というルールである。ストーリーも読者の視線もすべてが右から左に流れる中では、描かれた思川も右から左に流れていると見るのが自然だ。思川は西から東に向かい隅田川に注ぐから、丹下拳闘クラブは、思川の北、かつての仕置場側にあったことがわかる。鑑別所・少年院を経て、浅草の山谷のドヤ街近くで練習をする「あしたのジョー」は、思川(おもいがわ)の仕置場側にいる。そして思川を越え泪橋を渡る。


 「あしたのジョー」と、「娑婆」と「仕置場」の間に架けられた「泪橋」を渡る人たちを重ね眺めてみる。横断歩道に姿を変えた泪橋の交差点を眺め、道の下の思川を歩いて渡る人たちを見る。「思い(おもい)」と名づけられた川の上にかかる泪橋を渡る人を見る。


大きな地図で見る

泪橋






2008-04-27[n年前へ]

水道橋博士と河合隼雄が語る「星座」と"Connecting Dot"な「日々」 

 20年くらい前に、こんな言葉を聞いた。京都府の山中にある学校の学園祭だったか、大阪市内のコンサート会場だったか、あるいは、武蔵野のどこかの学園祭だったか、…その言葉を聞いた場所は忘れたけれど、それは種ともこの言葉だった。

 数字がバラバラに書いてあって、その数字を順番になぞっていくと最後に絵ができる"Connecting Dot"ってパズルがあるじゃない? バラバラだったりしても、途中で間違っているように思えたりしても、色々と続けていたら最後に何か浮かび上がってきたりしたら、それで良かったりするのかな?って時々思ったりするの。
   種ともこ
 この言葉を聴いてから、"Connecting Dot"というパズルを見ると、そのバラバラに散らばった数字が「人の一生」に見えてしょうがない。

 「河合隼雄 その多様な世界―講演とシンポジウム 」を読んでいたとき、河合隼雄が語るこんな言葉を見た。

 (目の前にいる人・目の前にある悩みを)ボーと見ていると、おもしろいものが見えてくる。その面白いものが見えてくることを"コンステレーション"と呼びます。"コンステレーション"というのは「星座(を意味する言葉)」です。
 河合隼雄 「河合隼雄 その多様な世界―講演とシンポジウム
 この言葉とよく似た言葉を、お笑いコンビ「浅草キッド」の片割れの水道橋博士が、1年ほど前にインターネットラジオで語っていた。
 星が散らばっている時、その星を結んだ瞬間が一番楽しい。
  浅草キッド 水道橋博士
 この「星」というのは、誰かの「足跡」ということである。ただ眺めてみた時には、それらの足跡の集まりは 、何の姿も持たない「空に散らばっている星」にしか見えない。けれど、その人の足跡・星を結んでいくと、そこには、ただの点でも直線でもない「その人の姿」が浮かび上がってくる、ということだ。

 私たちは毎日走り続けている。時には、立ち止まったり、ゆっくり歩いてみたりしながら、流れる時の中で、何かの歩みを続けている。あるいは、好む好まざるに関わらず、移り流れゆく世界の中で、泳ぐことを続けている。その軌跡は、一体、どんな星座を描くのだろうか。

Constellation








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