2011-11-02[n年前へ]
■(床から見上げた)天井は全部覚えている
生涯で5758試合を闘った(ジャイアント)馬場さんは、天井だけを見て、どこの地方の体育館かを言い当てることができたという。
「全国の体育館の正面からの写真を見せられてもわかりませんが、(床から見上げた)天井なら百発百中です。受け身の練習をするたび、投げ飛ばされるたび、嫌でも覚えてしまうわけです」
「繰り返し続けたこと」「痛みとともに見上げたもの」は忘れられないものです。あなたにとっての「(床から見上げた)天井」は何でしょうか。
2013-10-23[n年前へ]
■「忘れっぽい人間のアイデンティティ」と「人生の記憶としての火傷跡」
どんどん細胞が入れ替わっているのに、なぜ中学生の時の火傷跡が消えないのか不思議でなりません。…保ってどうすんねん、そんなもん。
いえいえ、それも含めてのアイデンティティです。人間の脳味噌は忘却が得意なので、経験したことを歴史に刻むために、火傷跡は一生消えないようになっています。
人生のいいとこ取りしたような人ばかりになってしまったら、アイデンティティに意味は無くなります。だから、それでいいのです。
走り出したら、何か答が出るだろなんて、
俺もあてにはしてないさ。 してないさ。
男だったら、流れ弾のひとつやふたつ、
胸にいつでも刺さってる。刺さっている。
SHOGUN 「男達のメロディー」
2014-01-11[n年前へ]
■あの時見た世界を今の私が一緒に共有してみたら…。
十歳の時に東京からイギリスに越して暮らしてる…そんな女性写真家が、小さい頃の自分が写る写真に一緒に写ってみたならば、つまり、同じ場所にもう一度行き、同じように写真を撮って、同じような旅をして…同じ写真に写ってみたらという"imagine finding me"を見ると、時間の中を走る列車に乗り込んだドラマを見たような気になります。
Her series Imagine Finding Me consists of double self-portraits, with images of her present self beside her past self in various places she has visited. As Otsuka says: “The digital process becomes a tool, almost like a time machine, as I’m embarking on the journey to where I once belonged and at the same time becoming a tourist in my own history.”
Chino Otsuka
そんな郷愁を起こさせる写真を見ていると、やはり、合成具合が不自然に感じる写真も混じっています。それは、たとえば、写真に写る人を360°の周囲から照らす光の具合や影の具合だったりします。そこで、こんな風に考えます。もしも、360°周囲から自分を照らす光(や風景)を記録していたならば、未来の自分や他の誰かを、今の自分を包む世界や光の中に連れ込むことができるかもしれない…。
だから、たとえば、RICOH THETA 360°(全天球イメージ撮影デバイス) で周囲360°の全方向を記録する写真を撮っていたならば、そして、そんな風景を360°のドームに映した中で、いつかも一度写真を撮ったならば…人の背景には「かつて見た風景」が映り、そしてドーム中央に立つ人に対しては、かつて周りから浴びたのと同じ光が当たっていて…いつか見た世界と同じ世界を、違ういつかの誰かが一緒に共有することができるかもしれない…と考えたりします。(参考:THETAで撮った写真を天球ドームに映したところをTHETAで撮った。)
長方形のフレーム中だけでなく、全方向・全天球すべてにいる光や景色を(画素数が少なかったりやダイナミックレンジが足りなかったりしても)記録しておきさえすれば、未来の何時かに色んなものを眺めることができるのかもしれない…と思います。カメラマンが見た風景や、それとは180°逆方向にある、写真の中からカメラを眺めていた人が見た景色や、そんな人たちすべてを包む光や世界をもう一度眺めることができたなら…少し貴重な体験をすることができるかもしれません。
2015-03-05[n年前へ]
■未来に失われる「今この瞬間」に没入できる「この瞬間を記録しておくこと」は、きっと未来の役に立つ
SIGGRAPH2015の没入感コンテストみたいな「没入感コンテンツ」を作るなら、個人的には「実写は使わない」。だって、どこかに行けば本物が存在する”コンテンツ”だったとしたら、本物の方がずっとリアルだし・豊かだし、その本物と再生物の間にある差分としての「物足りなさ」を感じちゃうだろうし。
だから、たとえば「昭和の日本の景色」みたいな、もう行くことができない場所に行けるコンテンツならば、とても体験してみたいと思う。もう今は存在しない60〜80年代の東京、数え切れない人たちが生活していた香港九龍城、廃墟となる前の軍艦島、90年代のバンコク…何だかそういう没入感コンテンツこそ眺めてみたい。(参考:昭和が古臭く見えたり懐かしく思えるのって写真の画質のせいだよな?)
かつて自分がよく知ってた世界を眺めると、色んな記憶が鮮明に甦る。…だから、GoPro6台リグとか、Ricoh Theta m15みたいな全天周動画を撮れるカメラで、普通の場所を意味無く撮り溜めておけばいい思う(昨年11月のチェンマイ・ロイクラトンは、そんなGoPro6台リグ野郎達が溢れてた。韓国から来たGoPro6台リグでステレオ撮影していた野郎は熱かった。…しまった名前聞いとけば良かった。<−3m三脚の上にTheta取り付け撮影してたわたしもたぶんその野郎のひとりだ)。そうすれば、20〜30年後、その世界に没入し・症状が改善する将来のボケた老人(それはつまりは将来の自分自身のことだ)だってとても多いだろう。
今、Google Street view carが走り回って写し続けてるこの瞬間の360°の街並みの数々は…きっと十年・二十年先に、貴重なメディカル・マテリアルになっているに違いない。Google Medical health care centerとか、数年先に立ち上がってても、全然違和感ないかも(Google社員が読んだらら鼻で笑いそうだけど)。
で、3丁目の夕日的なかつての昔あった世界をレンダリング生成し甦らせる技術を持っている人たち作り上げるコンテンツが、数年先には、(多分)認知症治療とかその手の業界で普通に使われ・役立っているんだろう、と思う。それは、機械・光学・物理技術が現在の医療を作り上げてきたけれど、将来は情報技術がその役割の少なくない割合を担っているという具合だろうと考えてみたりする。