2001-11-11[n年前へ]
■淡くて儚い昔のアルバム
集合写真の集合写真
最近、検索エンジンGoogleのイメージ検索が日本語に対応した。だから、ふと「愛しの仲間由紀恵の画像を眺めた〜い」なんて思ったら、すぐに検索すれば画像をごっそり集めることができるのである。これまでは、Googleの画像検索は日本語対応していなかった。だから、「心」とか「笑顔」とか、はたまた「エロ」な画像を集めた〜いなんて時も、キーワードも日本語そのままで検索することができなくて、それに近い英語で検索をかけていたのである。
しかし、それももう過去の話。Googleの画像検索はもうバンバン日本語が通るのである。「心」の画像も「笑顔」の画像も「エロ」の画像も、何でもゴッソリ手に入るのである。それどころか、「運命の人」を探して、その「運命の人の写真」を手に入れることすらできるのである。ありがたいことである。
そこで、試しに「オッパイ星人」で検索をかけてみると、「オッパイ星人な画像」がゴッソリ手に入る。いや、もちろんワタシが「オッパイ」に興味があるというわけではもちろんない。何しろ、ワタシは地球を狙うオッパイ星人達と日夜戦い続ける使命を持つのである。「オッパイ星人」達をこの広い世界から見つけ出し、その心根に鉄拳パンチをお見舞いしなければならないのである。そう、そのためにワタシはGoogleを使って、「オッパイ星人」を検索するのである。言わば、Googleはワタシの妖怪アンテナなのである。Googleは「オッパイ星人」を駆逐するリーサル・ウェポンなのである。
しかし、その割には最終兵器Googleが教えてくれる「オッパイ星人」達はどうも見たことのある画像だったり、イヤラシくもオッパイを包み込む手がどうもやけに身近な掌のような気がして、まるで石川啄木のようにじっと自分の掌を眺めてしまったりするのであるが、いやマサカそれはワタシの気のせいに違いないのである。そう、気のせいに違いないのだ…。
いや、マズイ。こんなことではイケナイ。「思えば遠くへ来たもんだ…」でも書いたが、これでは少々マズイのである。気のせいですませるわけにはいかない場合もあるのだ。
何しろ、ここのサイトは家族姉妹も見るのである。ワタシの母も見れば、私の妹も見るのである。何しろ、数ヶ月前に実家に行った時にはワタシの母などは、ワタシの昔の写真を眺めて「この頃のオマエはあんな話を書く子じゃなかったのに…」とグチったくらいなのである。しかも、それに飽き足らずその後e-mailで
ホームページもう少し文学的、化学的だといいけどなあー。母の友人たちに見せても、好評なものも載せて。と無茶な説教を送りつけてくるくらいなのだ。文学的で化学的な話ってどんなのだー、それってただの化学オタクの会話じゃないのかーとか、仮にそんな話があったとしても、そんな話が母の友人達(おばぁさん)にホントに好評だと思うのかーとか、大体他人の評判なんか気にしてられるかーとか色々言いたいことはあるのだが、そうそうそんなことも言えないのである。ましてや、昔の写真を前にして「この頃のオマエはあんな話を書く子じゃなかったのに…」と言われた日には、そんなことは素直なワタシにはとてもじゃないが言えないのである。仮に心の中で、ワタシに限らずあんな話を書く子はどこにもイナイだろーとか思ったとしても、とりあえず何も言えないのである。
とはいえ、昔のアルバムを広げていると、何かセピアになった白黒写真や色褪せたそんな写真が何故か輝いて見えて、少ししんみりしてしまうのもまた確かなのである。別に、説教が胸に染みたわけでもないけれど、何かしんみりしてしまうのである。何か、並べられている一枚一枚の写真から「何か」が浮かび上がってくるようで、少ししんみりしてしまうのである。これは、まさに「笑顔で作った一枚の写真」で作ったモザイク画のようで、アルバムに貼り付けられた写真が組み合わさって、「何か」を浮かび上がらせているように感じてしまう。
「あー、そーなんだー」とワタシはしみじみ思ったあまり、「笑顔で作った一枚の写真」で作ったHiraxNetMosaicMakerをバージョンアップして、色んな写真を集めるモザイク画の中の各モザイク画のサイズを自由に変えたりして、もっとちゃんとキレイに出力できるようにしてみることにした。そして、できればそれを写真のアルバムっぽく加工してみることにしたのである。まずは、これが今回のHiraxNetMosaicMakerである。
素材画像群を読み込む前に、モザイク画像サイズとマージンを決めて、あとの使用手順は前回と同じである。まぁ、使う人がそれほどいるとは思えないので、詳しい手順は(以下省略)。 で、さすがに記念写真でモザイク枚数があるわけはないので、Googleで似たような集合写真を集めてみた。そして、今回のバージョンのHiraxNetMosaicMakerで処理した後、Photoshopでさらに写真のアルバムっぽく加工してみたのが下の写真である。さっと作ってみた割には、写真のアルバムっぽく見えることと思う。ワタシが知らない色々な人達が何処かで撮ったたくさんの記念写真が、写真のアルバムに貼り付けられているように見えるだろう。
もちろん、この集合写真は実は集合写真「仲間由紀恵 」のごく一部分である。全体を眺めてみると、こんな仲間由紀恵が浮かび上がってくるのだ。このWEBページでは遠くで眺めたり、近くで眺めたりできないのが残念ではあるけれど、この写真は遠くから眺めれば下のように見えるし、近づけば上のように見えるのである。近づけば、「アルバム」に貼り付けられた各々の写真が浮かび上がってくるし、離れてみればそれらの写真が一枚の「何か」に見えてくる。
前回のものと違って、背景の白い部分の面積が広かったりするので、今回のモザイク写真はずいぶんと色も淡く儚いけれど、それがまるで「淡くて儚い昔のアルバム」のようだなぁ、と私は感じたりする。これを眺めるあなたは一体どういう風に感じるのだろうか。私と同じような感想を持つだろうか。いや、きっと他の何かを感じることだろう。
そういえば、今日の朝日新聞を眺めていると、「子供地球基金」が「子供たちの絵で世界を塗り替えよう」と戦争などで傷ついた人達に向けて子供が描いた絵を集めて展示するという記事を見かけた。もし、そんな風に集まった子供達が描いた絵を今回のように集めてモザイク画にしてみたら、これも一つのアルバムのように感じるかもしれない。
ワタシが最初にしみじみしたワタシの昔のアルバムは、ちょっと色褪せた「過去のアルバム」だったけれど、この記事の子供達の絵を集めたアルバムの方は「過去のアルバム」ではなくて、子供が描いた「未来のアルバム」ということになるのかもしれない。こっちのアルバムは淡く儚いなんてことは決してなくて、鮮やかで眩しい感じなのかな。うん、きっと、そうなんだろうな。
2001-12-05[n年前へ]
2002-02-20[n年前へ]
■「やおい」の評価演算子
ベクトルの彼方で待ってて II
東京駅近くの飲み屋「美少年」で、日本酒利き酒セットを目の前にしながら、私は珍しく「日本の政治」について話していた。といっても、単にそれは話し相手が社会部に属する新聞記者だったからである。で、その時の話題は小泉首相と福田官房長官の話だったろうか?
「福田X小泉っていうのは、結構上手くやっているのかな?」と私が言うと、おもむろに
「あれは、福田X小泉じゃなくて、絶対あれは小泉X福田なのー」とその記者が言ったのである。何を言っているのかその意味がよく判らないまま、「ん〜?」と私が首を傾げていると、繰り返し
「福田X小泉と小泉X福田は全然意味が違うのー」と言い始めるのである。何が何だか訳がわからない。じゃぁ、何か?小泉X福田だと小泉純一郎が総理大臣で福田康夫が官房長官だけど、福田X小泉だと福田康夫が総理大臣で小泉純一郎が官房長官になるとでも言うのか??政治の世界では、言う順番で総理大臣が決まるとでも言うのか?と私が口をはさむと、
「そう。ただ、ちょっと政治の世界とは違う世界かも〜。政界じゃなくて、やおい界ではー。」と言うのだ。なんだコイツ?政界は判るけど、やおい界って一体何処の世界の話だ??と、困惑する私も構わず、そこから延々と長い演説が始まった…。その大河ドラマのようにやたらと長い話を要約すると、
- やおい → 一部の女性が好む「男性同士の恋愛もののストーリー」のこと
- X → やおいの世界で恋愛の関係を示す記号。例えば、AさんとBさんが恋に落ちるであれば、Aさん×Bさんと表す。で、ここで重要なのは先に位置する方が「攻め役」となって、後に位置する方が「受け役」となる…。つまり、例えばサド侯爵とレオパルド・マゾッホであれば攻め役がサド侯爵で、受け役がマゾッホなので、サド×マゾなのである。決して、マゾ×サドではない…
で、日本酒を飲みながら、まだまだ続くその話に悪酔いしていると、「カップルの順序が重要なんだー」という言葉を聞いて、ふと中学の頃の数学の授業を思い出した。その頃、大学を出てまだ一年目の斉藤慶子似の数学の先生と話していたときに、「Hくん、あのね掛け合わせる順序が違うと結果も違っちゃう計算もあるのよ」と教わったことがあった。そんな言葉から私は未知の「数学の世界」をかいま見たりしたのである。 今考えてみれば、新任の斉藤慶子似の女性教師の個人授業なのだから、行列・ベクトルの掛け算の順序なんかじゃなくて、「もっと違う順序」を手取り足取り教えてくれても良かったんじゃないか、とか思ったりするし、そうすれば、私は未だ見ぬ「大人の世界」を覗き見ることができたのではないか、と思ったりもするのだけれど、そんなことは残念ながら無くて、私はただ「行列・ベクトルの世界」を覗いただけだったのである。
で、そんな昔話を思い出したせいか、頭の中でこんな風に思ったのである。そういえば、これまで「できるかな?」では数多く「恋の力学」でも遊んできた。ただ、そこでは「惹かれ合う恋心の大きさ」だけに注目して、そのカップルの中での役割などは考えたことがなかった。そこで、今回は「やおい」のカップルの「役割・順序」に注目し、その「役割・順序」を評価する演算子を行列・ベクトルの掛け算になぞらえながら考えてみることで、これまでと同じく色々な「恋の形」を眺めてみたいと思う。
まずは、色々な人物(実際の人物であったり、小説などの登場人物であったり)のタイプを二次元空間に配置しよう。「この人は結構攻め役が合いそう」とか「この人は絶対受け役が合うのだー」という適性を
- 攻めベクトル
- 受けベクトル
そして、カップリング適性では「A×B、B×Aが全然違う」ということから、外積(ベクトル積)をそのまま流用して、適当な評価関数を作ってみるのが自然だろう。まず、
カップリング適性ベクトル = (攻め度(s)、受け度(m))と表記して、例えばAさんのカップリング適性ベクトルを(As, Am)と表すことにしてみよう。すると、Aさんが「攻め」でBさんが「受け」のカップリング適性は、この二人の適性ベクトルのベクトル積として表すことができる。つまり、
A×Bのカップリング適性 = ( As * Bm - Am * Bs )となるわけである。式を眺めれば判るように、Aさんの攻め度が高くて、Bさんの受け度が高ければ、この評価関数は高い値を返す。つまり、「A×Bの順序は正しいのだー」という評価を返す。つまり、「A×B」はなかなか良いカップルだー、と教えてくれる。また、もしAさんの受け度が高くて、Bさんの攻め度が高ければ、低い値を返す。つまり、「A×Bの順序は絶対間違ってるのだー」と評価してくれるのである。なんともありがたいことに(いや別にありがたくはないか…)、この「やおいのカップリング評価演算子」が「福田X小泉」と「小泉X福田」のどちらが自然なのかを教えてくれるのだ。試しに、上のサドくんとMくんであれば、「サドくん×Mくん」= (100,0)×(0,100) = 100*100 - 0*0 = 10000でとっても「良い感じ」でああるが、「Mくん×サドくん」= (0,100)×(100,0) = 0*0 - 100*100 = -10000で「このカップリングは絶対順序が違うー」と判るわけである。
= Aさんの攻め度 * Bさんの受け度
- Aさんの受け度 * Bさんの攻め度
とりあえず、今回はこの評価演算子を作成するところまでで終えたいと思うが、いずれこの「やおいの評価演算子」を武器にして、いつか(?)「やおいの世界= やおい界」に限らず、色んな数多くの恋の関係を目に見えるようにしてみたいと思う。そして、これまで数多く考えてきた「恋の〜シリーズ」を充実させていきたいと思うのである。
ところで、今回のカップリング適性評価演算子は基本的に外積そのものである。つまり、この演算が返す値は「二人のベクトルでできる平行四辺形の面積」に等しい。つまりは、「二人のベクトルでどれだけ色んな違うことがきでるか」を示す尺度である。そして、その値は二人のベクトルが直交する時、すなわち二人のベクトルが重ならず独立である時に最大値となる。つまりは、「二人のベクトルが違えば違うほど大きく」なる。例えば、先の「サドくん×Mくん」であれば二人のS,M趣向が完全に正反対であったからとてもお似合いのカップルになったのである。
これをいわゆる恋の話で考えてみると、とっても独立な二人、趣味が重ならない二人がお似合いだということになる。なるほど、そんなカップルも世の中にはたくさんいることだろう。そんな人達を「外積タイプのカップル」と呼ぶことができると思う。
一方、趣味が重ならないカップルだけでなくて、世の中にはそれとは正反対の「趣味が重なる良いカップル」も数多くいる。それは「内積タイプのカップル」である。内積はA,Bベクトル間の正射影に比例する量であって、つまりは「二人の重なるベクトルの大きさ」である。それは例えば、相手の中に自分を重ね合わせるような「二人の重なる部分が二人を結びつけるようなカップル」なのである。
「理系と文系」・「男と女」が対極的なものでも、相反するものでもないのと同じく、「外積カップルと内積カップル」も別に二つに分けられるようなものではないだろう。「外積タイプの恋」も「内積タイプの恋」が混じり合って、それぞれに良いところもあれば、危ういところもあって、などと想像してみるのも面白いに違いない。そして、さらにはもしかしたらベクトル空間で萌えることができるようになったりするかもしれない。
そういえば、ふと考えてみると以前「恋の形を見た人は」で最後に引用した本橋馨子の「兼次おじ様シリーズ」は男性同士の恋の話だった。つまりは「やおい」の話だった。そこで、もう一度そのセリフを最後に飾って眺めてみようと思うのである。
「愛はどんな形をしているか知っているか?」「見た事ないからわかりません。」「そうだ、誰も見た者はないのに、誰もが当然のように形づけて受け入れている...
もし愛に優劣を決めるものがあればなんだろう?... 異性愛か、同性愛か、そんなものじゃない …たとえ、どんな形だろうと選ぶのはおまえ自身だよ。」
2002-04-20[n年前へ]
■今日のGoogleイメージ検索
"First Kiss"。なかなかキレイかな。(リンク)