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2003-11-07[n年前へ]

日本は国民の6割が疲労を訴える「疲労国家」 

文部科学省の調査によると、日本は国民の6割が疲労を訴える「疲労国家」。回復をうたう栄養補助ドリンク市場は2500億円にのぼる
というわけで、面白くもアヤシイ「疲れ」を数値化、回復薬を開発という記事。「疲れ」を数値化した結果が面白いと良いな。その結果を見ると面白くて疲れが回復するような感じだと良いかな。

2004-01-20[n年前へ]

「地図にない場所」 

 「男の隠れ家」という雑誌に少しハマっていたのは何年も前。その頃は、山奥や海が見える山中にある「男の隠れ家」を扱う雑誌がずいぶんと多かった。今では、そんな雑誌の扱う話もずいぶんと小さくなって、「男の小さな玩具」程度の雑誌が増えてしまった。それも、現実の経済事情を考えれば、まぁ仕方のない話だ。

1 山奥にある「男の隠れ家」ではないけれど、ガイドブックにも載っていない、地図にすら載っていないような隠し湯に憧れたりする気持ちを持つ人は多いと思う。つげ義春が歩くような辺鄙な温泉宿や、あるいは誰もいない山の中でぼぉっとしてみたいなんて思う人は多いハズだ。「地図にもない場所」だなんて、その響きだけで気になってしまう人だっていると思う。


 「はてなアンテナ」というサービスを知ったのは一年少し前だったろうか。『「おとなりアンテナ」という機能があって、不思議なくらい自分の好みに合ったサイトを教えてくれるんですよ』と、ある人に教えてもらったのだった。そして、実際に使ってみると、サイトの好みの類似度から「好みに-近い-サイト」を計算するその「おとなりアンテナ」はとても面白く感じた。だから、しばらくして「はてなダイアリ」が始まった時、ベータテスターに応募してみることにした。「はてなダイアリ」を使い始めると、日記内のリンク(キーワードリンク)の類似度から、その日記に「近い」と想定される「おとなり日記」を算出してみたりする機能が付いてみたりして、その「近い」「遠い」を算出する手法と趣向には感嘆したのである。そのサイトの間の「距離」にこだわるやり方をとても面白く好ましく思ったのだった。そして、その頃にはてなの作成者が研究室の後輩であることを知った。

 なるほど、測地学研究室という名前で、種々の測定手法で色々な箇所の位置を求め、種々の座標系の中にそれらの箇所を書き記したりするという研究室を選んだり、あるいはその中で時間をいくばくかの時間を費やしたのでであれば、「近い」「遠い」にこだわってみたり、「おとなりMap」を描いてみたりするのはとても自然に違いない。三角測量やGPS衛星を使って、色んな場所の位置や距離を求め、そしてそれぞれに適した座標系のもとで地図をつくる、という研究室にいたならば、「距離」を測って地図を描きたいと思うのが自然に違いない。GPS衛星ならぬネットワークロボットを使って、ネット上を測量し、色んな距離を測ってみたいと思うのだろう。そして、彼(彼ら)のあの伊能忠敬のような行動力であれば、これからも色んな地図を作り出して行くに違いない。

2 そんな、「色んな場所の地図を描きたい」という欲求は私にももちろんとても強くある。ひっそりと隠れている何かを誰の目に見えるようにしたい、という気持ちが強くある。そして、そんな欲求がある一方で、それと同時に「地図にはない場所」や「誰も知らない場所」に憧れる気持ちもやはりある。誰もいない「地図にない場所」に行ってみたいという気持ちも強い。色んな場所の地図を描いてしまえば、「地図にない場所」は減ってしまうだろうし、そこにはたくさんの人も訪れてしまうかもしれない。実際、私にはてなを教えてくれた人は、しばらく前にその人の「はてなダイアリ」を閉じてしまった。「ひっそりと隠れているつもりの日記」は消えてしまった。

 まぁ、よくある言い古されたジレンマの話なのだけれど、ふと「地図にない場所」を好きな人こそ「地図を作ろう」としてしまうんじゃなかろうか、と思ったのである。そして、「地図にない場所」をなくしてしまったりするんじゃなかろうか、とふと思ったりしたのだった。

2004-03-13[n年前へ]

今日の疑問 

 Linuxでg++でアプリケーションを作るときに、起動されたアプリケーションが「そのアプリケーションが置いてある場所」を知るにはどんな関数を使えば良いものなのでしょう?ファイル出力などが必要ない(system()+whichを使ってパスをファイルに吐いて、というようなものでない)方法はどんなものなのでしょう?

一般的な方法はないと思います。Unixのファイルシステムでは、バイナリはハードリンクで複数のパスを持てますし、ファイル実体からそのファイルのパスを参照する方法はありません。(極端な話、アプリケーション起動後にそのバイナリファイルをunlinkしてしまえば、「パスを持たないけれど走っているアプリケーション」になります---「このプログラムは実行終了後自動的に消滅する」ってわけです)。Unix上で、お望みの動作を得るのによく見る方法は、 * argv0を見て、それが絶対パスならそれを採用 * argv0を見て、それが相対パスならgetcwd()して絶対パスに直す * そうでなければ、PATH環境変数をひとつづつ探すというものです。上記の手順はよく使われるので、ライブラリもいくつか存在すると思います。例えばglib (www.gtk.org) の g_find_program_in_path()等は使えると思います。
 ありがとうございます。川合さん

2004-11-07[n年前へ]

「コーラの科学」と「ナニワのオカン」 

「沈むコーラ」と「浮かぶコーラ」

「水槽に沈むコーラ」と「水に浮かぶダイエット・コーラ」

 今年の夏はずいぶんと暑く、真夏日が一月以上続いた。そのため、ソフト・ドリンク類の売り上げが昨年の二倍近く売れたコンビニなども多かったようだ。家の近くのコンビニで、汗をかいた後に、スポーツ飲料や冷たいビールを買って、そしてゴクゴクと飲み干していた人たちも多かったかもしれない。あるいは、夏のキャンプ先で、川の畔の水中にドリンクの缶を沈め、いつの間にかキリリと冷えたビールやジュースを味い楽しんだ人たちもいることだろう。それとも、夏祭りの夜店の水槽の中に沈んでいるジュースを買ってもらって飲んだ子供たちも多いだろうか。

 ところで、「川の水や夜店の水槽の中にドリンクの缶を沈めて、ドリンク缶を冷やした」と何気なしに書いた。しか、し「水槽の中にドリンクの缶を沈めて」というからには、当然ドリンク缶は水よりも重いということになる。ドリンクの缶が水の中でブクブクと沈んでいるからには、それらの缶というものは水に浮かぶことができない「カナヅチ」でなければならないはずである。とはいえ、「カナヅチ」でなければならないはずとは思うのだが、それを確認したことはない。そこで、試しにダイエーで買ったダイエー・コーラの350ml缶(写真中の赤い缶)を洗面台で水中に入れてみると、ブクブクと確かに水底に沈んでいる。…なるほど、コーラ缶はどうやら水より重い「カナヅチ」のようだ。水に浮かぶコーラと沈むダイエットコーラ

 ところが、よくよくこの写真を眺めてみると、その横でプカプカと水面に顔を出して浮かんでいる別のコーラ缶がいることがわかるハズだ。そう、コーラ缶は水の中に沈んでいるのに、なぜかダイエット・コーラの缶(手前の白い缶)は水に浮かんでいるのである。つまり、ダイエット・コーラの350ml缶はナント水よりも軽いようだ…?実験に使った缶は(私がビンボーなので…)ダイエー・ブランドの一本40円ナリのコーラだったが、由緒正しい米国コカ・コーラで実験したようすや、その解説などもあって、やはり一般的にコーラ350ml缶は水に沈むのに対して、ダイエット・コーラ缶350mlは水に浮くようである。何故に普通のコーラ缶は沈み、ダイエット・コーラ缶はプカプカと浮くのだろうか?

350mlコーラ缶の「浮き沈み」を計算してみよう!

 その謎を探るため、とりあえず「コーラ缶350mlの水中における重さ」を計算してみることにしよう。そこで、まずはコーラの350ml缶を定規で測ってみると、ドリンクが入っている部分の高さは大雑把に114mmだった。そして、直径は大体64mmである。ということは、350mlコーラ缶の体積は

π×半径 (65mm / 2) ×半径 (65mm / 2)× 高さ (115mm) ≒ 375 cm3
となり、およそ 375 cm3 程度であることがわかる。350ml缶というくらいだから、おそらく缶の中に入っているコーラは350~355ml(12 オンス)だろう(ちなみに、米国からの輸入品であるダイエーのコーラ缶には、内容量は355mlと書いてあった)。そして、缶の中の差し引き375- 350~355 ml ≒ 20~25mlの空間には炭酸ガスや窒素などが入っているのだろう。ということは、つまりコーラが入った350ml缶は全体として20~25gの浮力を受けることになる。

 また、アルミ缶自体の重さはおよそ16gほどだという。アルミの比重は2.7g/cmだから、体積は5.9cm3である。同体積の水の重さが5.9gだから、16gのアルミは当然5.9gの浮力を受ける。ということは、水中でのアルミ部分は差し引き、アルミの重さ(16g)? アルミの体積が受ける浮力(5.9g) = 10.1gほどの重さになっていることになる。つまり、アルミ缶は10gほどの「重し」を外殻としてまとっているわけである。

 さて、すると残りの肝心のコーラの液体自体の重さはどの程度になるのだろうか? それは簡単、なぜならコーラは結局のところ、「砂糖水」である*1。原材料の表示は「糖類(果糖ぶどう糖液糖、砂糖)、カラメル色素、酸味料、香料、カフェイン」となっているが、つまりはほとんどが糖類である。何しろ、350mlのコカ・コーラには35gもの量の糖分が溶け込んでいるのである(コカ・コーラのライバル「ペプシ・コーラ」の場合には、40gほどにもなる)。砂糖(糖分)が水に溶け込んでも水溶液の体積はほとんど変わらないから、実質この砂糖(糖分)の重さ35gだけ「350ml缶の中にあるコーラの液体自体の重さ」は水よりも重いことになる。

 つまり、コカ・コーラの350ml缶は、水と比べると

  • 缶の中の空き体積分の浮力:20~25g
  • アルミ部分:10g
  • コーラの液体(に溶け込んでいる糖分):35g
の35g + 10g - (20~25g) ≒ 25~20gだけ、同体積の水より重いことになる。なるほど、水の中にコーラの350ml缶を入れれば、これならば確かにブクブクと沈んでいくに違いない。「川の水や夜店の水槽の中にドリンクの缶を沈めて、ドリンク缶を冷やした」という真夏の経験は見事に科学によって裏付けられたわけである。つまり、コーラの甘さを作り出している糖分が「重し」となって、コーラの350ml缶は水に沈むのである。

*1
 余談になるが、かつて「砂糖水を売って一生を終える気か」という口説き文句により、ペプシ・コーラ社長だったジョン・スカリーがアップル・コンピュータの社長に引き抜かれたのは有名な話である。

ダイエット・コーラの秘密

 おやおや? それならば何故ダイエット・コーラがプカプカと水に浮いていたのだろうか?まさか、「ダイエット・コーラはダイエットしたコーラやろ?ダイエットしたんやったら、その分軽くなるやん?」なんて自分本位で超感覚的、つまりは「ナニワのおかん」的な意見を言う人はいないだろう。「何でコーラがダイエットすんねん!?」なんである。「何でコーラがダイエットしたら浮かなアカンねん!?」なのである。というわけで、ナニワのおかんはとりあえず無視して、私たちは科学的に考え・調べてみることにしよう。

 とりあえず、ダイエット・コーラの原材料を眺めてみる。すると、「カラメル色素、酸味料、甘味料(アスパルテーム・Lーフェニルアラニン化合物、アセスルファムK、スクラロース)、香料、保存料(安息香酸Na)、カフェイン」というように書いてあることがわかる。つまり、通常のコーラでは「糖類(果糖ぶどう糖液糖、砂糖)」であったものが、ダイエット・コーラの場合には人工甘味料の「アスパルテーム・Lーフェニルアラニン化合物、アセスルファムK、スクラロース」に変わっているわけだ。

人工甘味料の分子構造
アスパルテーム
アセスルファムK

 アスパルテームは1966年に甘味料として注目され始め、そして1982年に「味の素」が製造特許*2をとった人工甘味料である。アスパルテームは砂糖の150倍もの甘味を持っている。そして、アセスルファムKは1967年に生み出された人工甘味料で、なんと砂糖の200倍もの甘味度がある。甘味度というのは「砂糖と同じ甘さ」を感じさせるためには、水溶液中に「(砂糖と比べて)どの程度の重さ」の甘味料を溶かさなければならないか、ということを示している。だから、甘味度が150~200ということは、「同じ甘さを感じさせるためには、(砂糖に比べて)甘味料の重さが150~200分の1ですむ」というわけである。つまり、通常のコーラで必要だった35gの砂糖が、アスパルテームやアセスルファムKといった人工甘味料を使えば、

35g / 150~200 ≒ 0.18~0.23
というわけで、たったの0.18~0.23gですむのである。ということは、結局のところ通常のコーラに溶け込んでいる糖分の重さと、ダイエット・コーラに溶け込んでいる人工甘味料の重さはずいぶんと違うことがわかる。

*2
この特許は発明対価の22億円を巡って、「味の素」と元社員の間で係争中である。今年2月の東京地裁での判断は1億9千万円を元社員に支払うようにというものだったが、さらに控訴されているため、決着にはまだ時間がかかりそうだ。

実は正しかった「ナニワのおかん」 恐るべき野生の感覚!?

 ということは、ダイエット・コーラの350ml缶は、水と比べてみると

  • 缶の中の空き体積分の浮力:20~25g
  • アルミ部分:10g
  • ダイエット・コーラ(に溶け込んでいる糖分):0.2g
0.2 g + 10g - (20~25g) ≒ - 10~-15g
となる。つまり、なんと同体積の水より10~15gも軽いことになるのである。だから、ダイエット・コーラの350ml缶を水の中に入れると、当然のごとくプカプカと浮いてきてしまうわけである。一言で言えば、通常のコーラが「溶け込んでいる砂糖(糖分)」の重みでブクブク…と水の中に沈んでいってしまったのに対して、ダイエット・コーラの場合はダイエットのために砂糖をカットして人工甘味料を使ったため、砂糖(糖分)の重さ分軽くなって、プカプカと水に浮いたのである。

 …ん?砂糖を「ダイエットのため」にカットしたら、「その分軽くなって」浮いた…? そう、ナニワのおかんの「ダイエット・コーラはダイエットしたコーラやろ?ダイエットしたんやったら、その分軽くなるやん?」ニいう(一言で言えば)ワケのわからない超ヘリクツは実は見事なまでに正しかったのである。恐るべきは「ナニワのおかん」の野生の本能だ。私たちが、「コーラの糖分をアスパルテーム・Lーフェニルアラニン化合物、アセスルファムK、スクラロースに置き換えた分…」なんて長々しく考えて計算するところを、何にも考えずに知性でなく直感だけで「ダイエットしたから、そら軽くなるやろ」と言い放つのだから…。恐るべき、(年を召された)女性の本能だ…。 _|‾|○
 とはいえ、えてしてナニワのおかんは、ダイエット・コーラではなくて35gもの砂糖(糖分)が入っている通常のコーラをガブ飲みし、まるで「水にブクブクと沈むコーラ缶」のようにブクブクと肥えていたりする。「コーラよりアンタがダイエットせなあかんちゃうんか!」とも思ったりはするのだが…。

実は日本のコカ・コーラの350ml缶はプカプカ浮かぶ…!?

日本産のコーラはプカプカ浮かぶ

 ところで、経済事情(一言で言えば私がビンボーだから)により、今回はコカ・コーラでなく、ダイエーで売っていた一本40円の米国産コーラとダイエット・コーラを使って実験をしてみた。しかし、それだけではどうかと思ったので、(大枚払って)一本だけ日本コカ・コーラの350ml缶を買って洗面台で水中に沈めてみた。…いや、沈めてみようとしたのである。ところが、日本コカ・コーラの350ml缶(右手前の赤い缶)は全然沈まずにプカプカ浮かんでばかりなのだ(右の写真)。ダイエー・コーラ(奥の赤い缶)と日本コカ・コーラ(手前右)の違いと言えば、ダイエー・コーラが355mlの内容量で、(米国コカ・コーラと違って)日本コカ・コーラが350mlであるということ、つまり(容器の容量が同じであるとするならば)浮力が日本コカ・コーラの方が5g大きく浮きやすいということと、(表示カロリーから予想すると)ダイエー・コーラの方が3g程度砂糖(糖分)の使用量が多くその分沈みやすいということである。もちろん、少し容器の体積も違う。それらは微妙な違いに過ぎないが、その微妙な違いにより日本産コカ・コーラは米国産コーラと違って水に沈まずに浮かぶのかもしれない…。

 ところで、この「水に浮かぶダイエット・コーラと沈むコーラ」ではないが、コーラ一つとってみても色々な科学を知ることができる。キャンプ先の川辺や夜店の水槽の中に沈んでいるジュース缶の中には、「沈むコーラの350ml缶」から「人工甘味料の化学」や「浮力という物理」や「ナニワのおかんのスゴさ」が詰まっている。日常で目にする景色の中には、色んな科学の入り口が潜んでいる。街中には数限りない面白い謎が満ちあふれている。

2006-12-24[n年前へ]

「逆さメガネ」 

「逆さメガネ」

(2006.12.24)

奇妙な世界

 逆さメガネというものがある。言葉の通り、それは単に上下を「逆さ」に反転した世界を眺めることができるメガネだ。そのメガネをかけた瞬間から、青空は、私たちの足下に広がる底なし沼に姿を変えてしまうし、アスファルトに覆われた地面は、私たちの頭上を圧迫するかのように覆う天井のように見えることになる。そして、道路を歩く人々は、頭上を覆うアスファルトに足を貼り付け、コウモリのようにぶら下がりながら歩く奇怪な動物に変身してしまう。そんな風に、逆さメガネをかけると、目の前の世界がそんな異次元空間に変化してしまう。

 とはいっても、逆さメガネをかけて2週間も生活もすれば、人の脳はその「奇妙な異次元空間」に慣れてしまうらしい。そして、これまで眺めていた景色と同じ上下関係の世界、すなわち、正立した空間として外界が認識されてくるのだという。それどころか、その時点で、もしも逆さメガネを外したりしたなら、「いつもの世界」こそが逆さまの不思議な風景に見えてしまうともいう。

暗闇

 今年の夏、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク "Dialogue in the Dark"」というイベントを体験してきた。一ヶ月間だけしか開催されず、しかも一日八人二十組だけしか参加できない、というイベントだ。イベントの主催者の紹介文をそのまま引用すれば、それは『日常生活のさまざまな環境を織り込んだまっくらな空間を、聴覚、触覚、嗅覚、味覚など、視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の暗闇のエンターテイメント』ということになる。その内容を、もう少し具体的に言ってしまえば、『案内人に導かれつつ、八人一組で完全に真っ暗な世界を散策して回る』というものだ。

 参加者は、明るいロビーで開演を待ち、指定時間になると八人ほどが小さな部屋に呼ばれる。そして、カーテンで仕切られたいくつもの部屋を経て、真っ暗な世界へと近づいていく。最初の部屋で、私たち参加者は白い杖を渡される。そして、完全に暗い世界の入り口で、暗闇の世界の中で私たちを導き歩く案内人と会い、その声に誘われるまま、暗黒の世界に足を踏み入れていく。

 完全な暗闇、光がひとかけらもない世界で私は色々なものに遭遇した。人だと勘違いして、目の前に立つ電信柱や木々に向かい、ずっと話しかけていたりしたこともあった。あるいは、周りにいたはずの参加者たちがずっと先に行ってしまい、真っ暗な林の中で一人取り残されてしまったりもした。そんな時は、いつも、案内人が助けてくれた。例えば、私が少し疲れて休んでいると、その気配を察したのか、案内人は私の名前を呼び「~さん、大丈夫ですか?」と声を掛けたりもした。いつも、案内人は私たちの声を聞き、私たちの場所を見つけ、私たちが進むべき方向を教えてくれた。

順応

 一時間より少し長いくらいの時間を、私たちは光が全く存在しない世界で過ごした。夏の田舎祭りを心から楽しみ、里山を恐る恐る散策し、疲れたら祖父母の家で休んだりした。時には屋台でソース煎餅を食べ、時にはバーに入ってドリンクを飲む。私たちの周りを転がっていく大小の音に心から耳を澄ませ、顔を撫でていく空気の流れを皮膚全体で感じ、微かに薫る匂いに想像力を働かせる。そんな違う感覚で味わう世界に、私は慣れていった。

 それは、その世界が普通に見えてきた、ということだったように思う。光が全くない「逆さまな世界」に、ほんの少しづつ、私は順応していった。「ものを見ることができない自分」に慣れ、「他の人に助けられながら恐る恐る前に進む自分」に慣れ、いつでも自由自在に動き廻る案内人に導かれることで、私はその世界の中を半歩づつ歩んでいった。

 一時間より少し長いくらいの時間が過ぎ、私たちはその暗闇の世界を出ることになった。暗闇の世界から、いくつもの部屋を経て、どこからか少しづつ光が溢れてくる世界に向け、私たちは移動していった。最後の防護壁のような分厚い暗幕を空けて、光が満ちる廊下へ出ると、私たち参加者は椅子が丸く並べられた部屋に入った。私たち八人が適当に椅子にバラバラに座っていると、最後に案内人がその部屋の入り口に姿を現し、私たちに言った。

上下感覚

「どなたか、空いている椅子の場所まで私を案内して頂けますか?」「どの椅子が空いているのか、わからないんです」白杖を持った彼女は微笑みながら、そう私たちに頼んだ。

 彼女の言葉を聞いて、私はまるで地面が反転したような不思議な感じを覚えた。世界の水平感覚、あるいは、上下感覚といったものをふと見失ったような感じがした。

 彼女が白杖を持ち慣れている人だろうということは、暗闇の世界を歩いている時から当たり前のように感じていた。彼女が部屋に入ってきた瞬間に、彼女が全盲なのだということも目に見えてわかっていた。だから、彼女が全盲だったということでなく、彼女の口にした言葉が、彼女が私たちに何かを頼んでいるということが、何か不思議な違和感を感じさせたのだと思う。

 その瞬間に私が見ていたのは、いつも私が眺めていた風景だ。光を発するものに目を向けさえすれば、手が届く近くのものも、あるいは百万光年の彼方に輝く星も、あらゆるものが見える当たり前の世界によくある景色だ。白杖を持つ人が部屋に入ってくれば、、その杖の持ち手の視力が高くないことがわかり、部屋に入って見渡せば、どの椅子が空いているのかが一瞬でわかる世界だ。その世界で、白杖を手にする人が誰かに何かを頼んでいる、それは確かに決して珍しくはない、よくあることだったと思う。

 しかし、ほんのさっきまで「たとえるなら、千里眼を備えるかのように私たちを連れ歩いてくれていた彼女」が、手が届く場所にある椅子が空いているかどうかがわからず、私たちに案内を頼んでいる。その景色は、私にとって、何だかとても変で奇妙な逆さまの奇妙な世界に見えた。彼女は私たちが助けを求め、私たちが何かを頼む相手だと、私は感じていた。彼女は私たちに何かを頼む存在ではなかったはずなのに…と、戸惑いを感じた。

 そんな、腑に落ちない少しの違和感を抱えたまま、会場を出て明るい世界を歩いた。

相対的な世界

 しばらくして、こう考えた。私は、光のない世界の中で案内人だった彼女と出会った。だから、私は彼女がいつでも世界を自由自在に動くことができる存在なんだと感じていたのではないだろうか。もしも、彼女と最初に出会った場所が別の状況、たとえば「光と障害物があふれる世界」であったとしたら、私はまた違う戸惑いを受けていたのかもしれない。もしかしたら、私は、光がない世界を自由自在に動く彼女たちに驚きを覚えたりしたかもしれない。何で、明るい世界での動きと違ってこんなに自由自在に動くことができるのだろう、と感じたりしていたのかもしれない。それは、最初に出会った世界での印象に強く影響を受けていた、ということなのだろう。ひとことで言えば、つまり「先入観」だ。

 助けるだけの存在がありえないように、助けられるだけの存在というものもきっとない。私たちが立つ空間に、絶対的な上や下という方向が存在しないように、全知全能の神もきっとこの世界には存在しない。少なくとも、人という生き物はそんな存在ではありえない。色々な状況の世界が数限りなく存在していて、私たちはその上下軸を定めようがない相対的な世界の中で、それぞれがそれぞれの方向を向いて立っているのだと思う。

 「光がなくなる」という逆さメガネを私はかけ、一片の光もない真っ暗な世界で少しの時間を過ごした。その世界に順応した後に、逆さメガネを外して、これまで暮らしていた世界に戻った瞬間、私は小さな混乱を感じ、小さな発見をした。そして、これまで眺めていたつもりの世界や人々が違う姿に見えてみたように思う。

 このメガネを色んな人がかけてみることができるのであれば、それが何より一番いい。ただ、今のところ、このイベントは残念ながら常時行われているわけではないので、このメガネを誰もが気軽にかけることができそうにない。だから、私が見た「逆さメガネ」の世界を、ここに書いてみた。



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