2001-12-20[n年前へ]
■「三丁目の夕日 ジングルベル」霜ばしら
コンビニで買った。「霜ばしら」がとても良かった。少し心に残る小さな話。
2002-04-24[n年前へ]
■視線のベクトルは未来に向くの?
マンガのストーリーの方向を顔向きで探る 前編
一年くらい前から、コンビニで300円ほどの安いコミックをたまに買うようになった。休日の早朝、コンビニで発泡酒とおつまみを買って、ついでにそんな安いコミックを買って、そして、ビールを飲みながらそれを読むのがワタシの休日のささやかな(だけど至高の)幸せなのである。そんな至高の幸せをかみしめるとある休日、286円の西岸良平の「三丁目の夕日」を読みながら、ワタシはふと思ったのである。
これまで、「できるかな?」では、様々な小説、例えば「星の王子さま」「明暗」「こころ」「草枕」「失楽園殺人事件」といった小説を色々と解析してきた。そして、その中の主人公達がどんな風に動いていくのかとか、作者が何を考えているかとか、あるいは、犯人は誰かであるのか、などを調べてきた。何でそんなことを考えるの、と人には聞かれそうだけれども、とにもかくにもワタシはそんなことを考えてきたのである。そして、さらにふと考えてみれば、ワタシの至高の幸せを支える素晴らしき286円のマンガ本に関して、ワタシはストーリー構造などを真剣に考えてみたり、調べてみたりしたことはなかったのである。イケナイ、イケナイ、こんなことでは「恩知らず」野郎としてワタシにはバチが当たってしまうに違いないのである。
そこで、今回「コミックの中のストーリー構造」について調べてみたい、と思う。コミックの中で主人公達がどのような方向へ進もうとしているのか、あるいはその歩みの中で主人公達は一体何を考えているのか、などについて少し調べてみることにしたのである。
これまで、小説中のストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるときには、「特定の言葉や主人公達」が登場する位置を調べたり、あるいは他の言葉や登場人物との相関を調べたりしてきた。それでは、一体マンガのストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるにはどうしたら良いだろうか?そんなものどうやって調べるの?と一瞬悩んでしまいそうではあるが、ちょっと考えてみればそれはとても簡単なのである。小説と違って、マンガでは登場人物達がちゃんと見えるカタチで描かれているのである。主人公達がどの方向を向いているかがちゃんと描かれているのである。そしてまた、主人公やその周りの人々や、ありとあらゆる人々がどんな方向を向いているかがもうありのままにちゃんと描かれているのである。
だったら話は実に簡単、マンガの中の登場人物達の向きを刻々調べてみれば、そのマンガのストーリーの中で主人公達がどちらへ向かって何を見ながら動いているかが判る、というわけだ。実に即物的でシンプルなアプローチである。
善は急げ、というわけで、早速今さっきまで読んでいた手元に掴んだままの西岸良平の「三丁目の夕日 ジングルベル」の中から、「霜ばしら」という短編を題材にして、その中の主人公の顔の向きを調べてみることにした。ある恋人同士の、とても楽しくて、そしてとても悲しい物語である。
まずは、マンガのコマ中の登場人物達の向きと角度の対応表を下の表のように定めた。登場人物がコマ中で右方向を向いているときに0度とし、正面方向(すわなち読者方向)を向いている時が90度。コマの左方向を向いていれば180度である。そして、280度では真後ろを向いているという具合である。
270 | ||
180 | 0 | |
90 |
このようにコマの中に登場する主人公達の向きを数値化することにして、話の冒頭から結末までの各コマ中での主人公(周平)とその恋人(アキちゃん)の向きを調べてみたのが下のグラフである。青色の四角が主人公で、赤色の三角がヒロインである。また、その二人が向かい合ってる場合には朱色の丸を方向=0の位置に書き入れてみた。グラフ中では水平軸がストーリーの時系列で、左端が話の冒頭であり、右端が話の結末、そして縦軸が「主人公達の向かう方向」である。また、ヒロインのアキちゃんが途中の2カ所にしか現れないのは少しばかり悲しいストーリーのせいだ。この「霜ばしら」は主人公とアキちゃんの涙を誘う悲しい物語なのである。
左端 = 話の冒頭 右端 = 話の結末 縦軸 = 主人公達の向かう方向 |
このグラフを少し眺めていると大体の特徴が見えてくるだろう。すなわち、
- 主人公達はほとんど45、135、235度の3方向しか向いていない
- それ以外の向き(例えば315度)を向く場合などは、ほとんどが「向き合っている」場合である
- そして、135度の方向を向いていることが圧倒的に多い。
しかし考えてみれば、これらの特徴はごく当たり前なのである。まずは、舞台やテレビと同じく、登場人物達は読者にお尻を向けるわけにはそうそういかない。読者に顔を見せずにお尻を向けていたら、誰が誰だかよく判らなくなってしまうに違いない。だから、登場人物達はあまり後ろを向くわけにはいかない。どうしても、主人公達は文字通り「前向き」にならざるをえない。もし、後ろを向くとしたら、それは文字通り登場人物達に「後ろを向かせる」何らかの強い意図に基づく場合以外ありえないに違いない。それが、例えば他の誰かと「向き合って」いる場合であったり、あるいは他の表現意図に基づくものであろう。
また、日本におけるマンガが右から左に読まれていくのであるから、読者の視線の動きの中では「右のコマ= 過去」「左のコマ = 未来」と時間感覚が成立している。マンガを読む私たちの視線のベクトルは右から左、過去から未来へと進んでいるのである。すなわち、「マンガの中の話の流れ= マンガの中の時間・因果の流れ」をスムーズにするためには、主人公達が過去なり未来なりのコマの方向を向くことで、時間の流れ=因果の流れをスムーズに受け継ぐのが自然だと考えられる。過去に発生した「何か」に応えた反応をするならば、主人公達は当然右を向くし、そうでないならば通常は時間の流れる先の向き= 左側を向くことになるだろう。
すると、マンガの中の登場人物達は読者に対して「前向き」であって、なおかつ時間の流れる方向に前向きの「左側」を向くのがごく自然である、ということになって、「コマの中の主人公達は135度の方向を向くことが圧倒的に多い」ということになるのだろう。まぁ、当たり前の話である。
そしてさらには、こんな風にも考えられる。「右<->左」方向は時間の流れに対する主人公達の向きであって、「前向き<->後ろ向き」は登場人物達が文字通り「前向きであるか」あるいは、あるいは「後ろ向きであるか」という「主人公達の内たる気持ちの向き」ではないだろうか、とも考えられるのである。
だから、例えばこの「霜ばしら」の結末の部分80コマ以降を見ると、45->135->225度という主人公のベクトルの変化がある。これは主人公が「過去に向かう向き(死んでしまったヒロインへを見る向き)→未来に向かう方向へ進む→未来に向かう(だけど、やはり亡くなってしまったヒロインをたまに振り返りながら)」というまさに主人公のベクトルを描き出しているのではないだろうか、と思うのである。そんな風に眺めてみれば、最後のコマの主人公の向きが「何かを振り返りながら、だけど未来へと歩いていく様子」をまさに映し出しているようにも見えるのである。ストーリーはここに書くわけにはいかないけれど、こんな想像も割と良い線をいってるのかもしれない、と思ってみたりするのだ。
こんな風に、単にマンガの登場人物の向きだけで主人公達の向かうベクトルを探る、なんていうことが乱暴なのはさらさら承知の上である。こんな人物の配置解析によるストーリー解析が的を射ているのか、あるいは的を外しまくっているのかは、ぜひこのマンガを読んで実際に判断してみてもらいたい、と思うのである。
さて、こんな風に舞台の右と左、上手と下手に対してどんな風に登場人物達が向かっていくのか、なんてことを考えるといろんな想像が広がってとても面白いのである。時間の進むベクトルであるLeftStage(舞台から見ると逆なんてことは言わずに)に消えていく登場人物達(例えば今回の話では恋人アキちゃんを亡くしてしまった主人公)は「残されたもの達」を連想させてみたり、あるいは、色んなものを眺める私たちの視線のベクトルは本当に未来に向いているのかな?などと色んな想像や空想を駆けめぐらせてみることも、それはそれでとても趣深いことだなぁと思うのである。
2010-03-24[n年前へ]
■「贈る言葉」
昭和の中頃を描いた、西岸良平の「三丁目の夕日」は、もうずっと昔の物語なのだろう、と読む人は誰しも思うのではないだろうか。それなら、「3年B組金八先生」はどうだろう。それも、やはり、昭和の中頃を描いたずっと昔の物語なのだろうか。
1979年の10月26日から、翌年の春先までの期間、半年にも満たない期間に放映されたのが「3年B組金八先生」だ(第1シリーズ)。その短い期間に、どれだけ密度の高いものが詰まっているように感じたろうか。どれだけの気持ちを感じたろうか。
「我々もまた、次の世代、そのまた次の世代のために、何か人間が幸せになれるようなことを残さなければならない責任があるのです。そのために諸君は今、受験勉強をやっているわけです。もし東大に入って大蔵省の官僚になれる人がいたら、人間の本当の幸せのために1万円でも多く予算をぶんどってきなさい。大工さんになる者は家族たちの笑い声がいつも絶えないような、そんな素晴らしい家を作ってください。(中略)そしてこの川の流れ込んだ海の向こうでは、受験戦争どころか本当の戦争で傷つき、肉親を失い、食べ物すらない、そんな少年少女たちがいることをお前たちは忘れるな。
3年B組金八先生 第1シリーズ 「第十六話」
ふと…考える。もう、ずっと昔に「3年B組金八先生」は、前世紀の古い物語になってしまっていたのかもしれない。21世紀になって、すでに十年以上が経っている。時代が「平成」という名前になってから、すでに二十年以上過ぎている。あんな「贈る言葉」を、もう古く感じる時代になっているのだろうか。
戦後が一段落して、これからバブルが来るっていう第2シリーズの頃が、一番いい時代だったのかもしれないね。
「”≠腐ったミカン”加藤優」を演じた「直江喜一」
2012-02-26[n年前へ]
■iPadを懐かしい”ミニコンポ風”にするソフト
iPadがミニコンポ風になるというソフトウェア"Beat Blaster"は、ある年代のノスタルジックな少年心を、とてもくすぐりそう。右に貼り付けたような「カセットテープ」とか、ラジカセとテレビが一体化したラテカセとか…あの頃1970年代から'80を、「三丁目の夕日」的に懐かしく思い出してしまいそう。
BeatBlaster iPad APP from BeatBlaster on Vimeo.
2014-05-04[n年前へ]
■オート3輪が排気ガスをまき散らしてた「あの時代」の夕焼けを眺めてみよう。
「”三丁目の夕日”の頃は大気汚染も酷くて、全然美しい時代じゃなかった*」みたいな話を読んで、ふと考えました。大気汚染が酷いならとても夕焼けが美しそうだ…。というわけで、ド派手にエアロゾル2倍の汚染状態にして、夕日レンダリングしてみました。その結果が、下に貼り付けた画像です。一番左が基準画像で、真ん中が「エアロゾル2倍な大気汚染時代」です。レイリー散乱の影響で、綺麗で赤みがかった綺麗な夕暮れ空になりました。
*三丁目の夕日の舞台となった昭和三十年代は大気混濁係数の変化を見ると、まだ大気は(現在と比べても)まだそれほど汚れてなかった時代のようです。
そこで、さらに調子に乗り、エアロゾルを「倍々ゲーム」で倍返しだ!(古い)という感じでさらに大気汚染の度合いを増やせば、もっともっと美しいはず!と「大気汚染が進んでいるという北京の夕日」をレンダリングしてみた。それが、一番右の景色です。
…うーん、これは少しばかり、暗く陰り過ぎな夕暮れ景色になってしまったかも。