hirax.net::Keywords::「井の中の蛙」のブログ



2005-12-31[n年前へ]

今年書いた「12のこと」 

 今年一年12ヶ月、その中で書いたものを眺め直して、その中から「12のこと」を拾い直してみました。

1.『「四捨五入と五捨五入」
2.『続「変わらないということは、変わるということ」
3.『「マクルーハンから鴻上尚史」再び
  何かのための「スペース」を作ること、何かを指した「名前」をつけること、というのは似ています。もちろん、そういった要求があるから、でしょうけれど。
4.『紙と仕事や伝言の量
5.『「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」
6.『自分の力と自分の個性
7.『「過去」の長さと同じだけ先の「未来」が見える
8.『「ルートを外して、色んなものを眺めてみたい」
9.『「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」続「井の中の蛙(かわず)」
10.『「長い文章を書くということ」
11.『「想像力」と「創造力」
12.『「WEBコンテンツの変化」と「悪は滅びる」

2007-09-18[n年前へ]

秋の空 

井の中の蛙、大海を知らずされど、空の高さを知る。
この一節も、今の季節の秋空にとてもよく似合うような気がします。

2010-01-26[n年前へ]

井の中の蛙(かわず)、大海を知らず  (初出:2005年09月17日) 

 浜辺に行くと、白い雲も少なくなって、完全に秋空になっていました。広い海と青い空を眺めていると、こんな一節が心に浮かびます。

井の中の蛙、大海を知らず   
しかし、空の蒼さを知る

 これは、誰かが荘子「秋水編」の有名な一節に「しかし、空の蒼さを知る」という一節を付け足したものだといいます。

 井戸の中からでは、頭上に空いた丸い穴を通して、蒼い空が見えるだけです。そんな世界が限られた井戸の中からだからこそ、「空の蒼さ」を誰よりも知ることだってできることもあるのかもしれません。空しか見ることのできない井の中の蛙だからこそ、憧憬とともにその「空の蒼さ」を心に刻むことだってあるかもしれない、と思います。

 そういえば、4歳の頃から6年間ほど、私は長野の野辺山高原に住んでいました。その後、野辺山高原から東京へ引っ越してから、「空が蒼くないこと」と「水道の水が冷たくないこと」に驚いた記憶があります。私がそれまで知っていた「空の色」は濃い藍色(リンク先はPDF)だったのですが、東京へ越してから見る空は「水色」でしたので、とても驚いたのでした。

 長野の(少なくとも当時は)山奥で都会もろくに知らず、まさに「井の中の蛙」だったわけですが、先の詩の通り「空の蒼さ」は知っていたというわけです。

 時折、自分がいる狭い世界でなく広い世界を眺めてみたい、という気持ちになることもあります。「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉が頭に浮かぶことがあります。そんな時、同時に「しかし、空の蒼さを知る」という言葉も心に浮かびます。

 あなたなら、「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉をどんな時に思い浮かべるでしょう?そして、その言葉に「どんな一言」を続けてみたくなるでしょうか?

2010-06-02[n年前へ]

「空の高さ」と「自分の影」と。 

 from redexxx

上(うえ)を見ないものは、空の高さを知らず。
下(した)を見ないものは、新しい芽吹きを知らず。
前(前)を見ないものは、続(つづ)く地平を知らず。
周(まわ)りを見ないものは、ともに歩む友を知らず。
後(うし)ろを振り返らぬものは、己(おのれ)の影を知らぬ。

2010-07-16[n年前へ]

近づこうとしないとわからない「大きさ」や「距離」がある 

 自転車でツーリングをしている途中、遠くに見える林の上に仏像の頭が見えたような気がしました。そこで、その方向に、自転車を走らせてみたのです。しばらくすると、時折、景色の向こうに仏像の姿が見えるようになり、次第にそれが立っている大仏であることがわかってきました。

 ただ、結構自転車のペダルを漕ぎ続けているような気がするのに、集落を超え、林を超え、10km以上走り続けても、なかなかその大仏は近づいてこないのです。

 ただ、大仏の大きさだけは、着実に大きくなっていきます。近くの建物の上に姿を見せたと思えば、送電線を空に高く吊るす鉄塔の上にさらにそびえるようになり、そして、ついには、大仏の手がはるか下の鉄塔に手かざしをしているかのように見えてくるのです。

 ようやく、大仏の近くにたどり着いたときには、他の何とも比べようがなく、青空に浮かぶ月の横に並び立っているようにしか見えない状態になっていました。

 「近づかないと大きさがわからない」ということもある、と実感しました。そして、大きなものに近づこうとするときには、その大きなものまでの距離は、当然のごとく、長く遠い道のりであるということを、大仏を見上げながら考えました。

 たとえば、富士山を麓の街から眺めるとき、すぐそこにあるように思われても、実際には富士山頂までの距離は50kmを遥かに超えていたりすることがあるように、大きなものまでの距離は、何だか近く感じてしまう錯覚があるのかもしれない、などと熱中症気味の頭で想像してみたのでした。

 よく、この人は凄いなぁ、と思うことがあります。そして、そういった人たちに近づこうと、努力してみることもあります。けれど、ほとんど多くの場合、そういった人たちと同じようなことができるようになろう・近づこうとする努力の途中で挫折してしまいます。挫折する理由のひとつは、その人たちまでの距離があまりも遠い、と感じてしまうことがあります。けれど、その挫折するまでペダルを漕いでみたことで、その人たちの大きさをもっとたくさん実感できる、という喜びもあります。

近づこうとしてみないと、そして、少しは近づいてみないとわからない「大きさ」や「距離」がある。大仏の足の指よりずっと下で、私が考えていたのはそんな情けない、悟りともいえない理解だったのです。


大きな地図で見る

近づかないとわからない「大きさ」がある近づかないとわからない「大きさ」がある近づかないとわからない「大きさ」がある近づかないとわからない「大きさ」がある近づかないとわからない「大きさ」がある








■Powered by yagm.net