2010-07-16[n年前へ]
■近づこうとしないとわからない「大きさ」や「距離」がある
自転車でツーリングをしている途中、遠くに見える林の上に仏像の頭が見えたような気がしました。そこで、その方向に、自転車を走らせてみたのです。しばらくすると、時折、景色の向こうに仏像の姿が見えるようになり、次第にそれが立っている大仏であることがわかってきました。
ただ、結構自転車のペダルを漕ぎ続けているような気がするのに、集落を超え、林を超え、10km以上走り続けても、なかなかその大仏は近づいてこないのです。
ただ、大仏の大きさだけは、着実に大きくなっていきます。近くの建物の上に姿を見せたと思えば、送電線を空に高く吊るす鉄塔の上にさらにそびえるようになり、そして、ついには、大仏の手がはるか下の鉄塔に手かざしをしているかのように見えてくるのです。
ようやく、大仏の近くにたどり着いたときには、他の何とも比べようがなく、青空に浮かぶ月の横に並び立っているようにしか見えない状態になっていました。
「近づかないと大きさがわからない」ということもある、と実感しました。そして、大きなものに近づこうとするときには、その大きなものまでの距離は、当然のごとく、長く遠い道のりであるということを、大仏を見上げながら考えました。
たとえば、富士山を麓の街から眺めるとき、すぐそこにあるように思われても、実際には富士山頂までの距離は50kmを遥かに超えていたりすることがあるように、大きなものまでの距離は、何だか近く感じてしまう錯覚があるのかもしれない、などと熱中症気味の頭で想像してみたのでした。
よく、この人は凄いなぁ、と思うことがあります。そして、そういった人たちに近づこうと、努力してみることもあります。けれど、ほとんど多くの場合、そういった人たちと同じようなことができるようになろう・近づこうとする努力の途中で挫折してしまいます。挫折する理由のひとつは、その人たちまでの距離があまりも遠い、と感じてしまうことがあります。けれど、その挫折するまでペダルを漕いでみたことで、その人たちの大きさをもっとたくさん実感できる、という喜びもあります。
近づこうとしてみないと、そして、少しは近づいてみないとわからない「大きさ」や「距離」がある。大仏の足の指よりずっと下で、私が考えていたのはそんな情けない、悟りともいえない理解だったのです。
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