hirax.net::Keywords::「他人」のブログ



2002-12-07[n年前へ]

ペンは紙より強し? 

 ATOK数式処理プラグインの話を追加です。電子ペーパーの辺りを眺めてみても、やっぱり入力装置として考えるだけなら「紙」より「ペン」だろ、とか思ったりします。ペンは紙より強し、と物理的には思ったりするのですけど、現実には紙(他人の書きもの)はペン(自分の書きもの)より強いのかも。

私たちの手で全てを描く 

ATOK数式処理プラグインを作る


 大雑把に言えば、「ノートや本で使われている紙」を使うときには「読む(表示する)」「書く(記録する)」という大きな二つの目的がある。もちろん、紙自体には「拭く」とか「包む」とかいった重要で欠かせない役割がある。しかし、トイレットペーパーじゃあるまいし、「本のページでお尻を拭く」なんてのは何かが差し迫ったよほどの非常事態でなければ、絶対しないに違いないのである。とりあえず、「読む・書く」というのが二つが重要なところに違いない。

 しかも、もう少し考えてみると、結局のところそれらの目的・用途は

  1. 自分で何かを書く・描く
  2. 他人の何かを読む・見る
という風に考えることができるのではないだろうか。例えば、本を読むときには「他人の何かを読む・見る」ことになる。もし、そこに自分の意見を書き留めたければ「自分で何かを書く・描く」ことになるだろう。また、ノートにせっせと色んなことを書き留めているときはもちろん「自分で何かを書く・描く」わけだし、もしそのノートを後で読み返すのであれば「他人(過去の自分なんて他人なのだ)の何かを読む・見る」ことになるだろう。

 で、重要なことは紙はこれらの目的の中で「書かれたり、描かれたり」はしているけれど、決して「書いたり、描いたり」はしていないのである。紙の上には文字や言葉やあるいは絵がスラスラと書かれていくわけだけれど、それらの文字や言葉や絵といったものを描いているのは決して紙ではないのである。それらを実際に描いているのはペンであり、そのペンを持っている私たちの手なのである。紙の上に色んなものが描かれていくけれど、それらは単に紙の上に描かれているだけで、全てを描いているのはペンを持った私たちの手なのである。

 だから、アランケイが提唱したダイナブックに近づきつつあるタブレットPCなんかものを眺めていると、それはあまりに多くの役割を「ブック=紙」に求めすぎているんじゃないのかなと感じてしまう。「読む(表示する)」「書く(記録する)」という役割を全部求めようとすると、私たちの「手」で使う道具にしては「重く」なってしまうんじゃないだろうか、と思ったりするのである。それでは、私たちの手で持つ軽いペンではなくて、まるで手で抱える重くて厚い本になってしまうんじゃないだろうか、と思うのだ。あるいは、もしかしたら「読む」ことに重きをおいていて、「書く」ことを無意識に軽んじているのかもしれない。


 

 だから、「ペンが紙の上でどういうものを描いたり動いたりしたかをペン自身が覚えていて」「必要なときに、無線でPCにそれらが描いたものやペンを持ったての動きを転送する」というアノトの電子ペンなどを見ると、逆にとても面白いなと感じるのだ。こういうものだったら、自分で何かを書いたり描いたりする際にとても役に立つ「私たちの手の一部としての賢いペン」になるかもしれない。
 
 
 

ATOK数式処理プラグイン


 そういえば、PC上で動いてはいるのだけれど「IMEなどの日本語入力システム」だって「私たちの手の一部としての賢いペン」に違いない。例えば、それらの日本語入力システム無しには、「自分で何かを書く」際に難しい漢字を書くことはきっとできないと思う。私たちが曖昧に頭の中に思い浮かべた日本語をタイプすると同時に日本語入力システムがちゃんとした漢字に変換することで、私たちの言葉が次々ときちんとした漢字でタイプされていくのである。つまりは、日本語入力システムは私たちの手の一部としての「辞書内蔵の賢いペン」なのである。
 

 ところで、事務処理や技術的な仕事に携わる人であれば何かの計算のために電卓を使うことも多いに違いない。PCを使いながら、そんな計算をしたいときにはどうするだろう?私はこれまでコマンドラインクイック起動のバーでcalcとタイプして電卓ソフトを起動していたのである。そして、電卓ソフトに数字を入力して計算をしていた。
 

コマンドラインクイック起動のバーから電卓ソフトを起動する

 しかし、こんなことをしているとちょっと何だか変な気分になるのである。どうして、電卓の進化した姿であるハズの二十一世紀のコンピューターで、わざわざ電卓ソフトを立ち上げなければいけないのだろう?しかも、その電卓ソフトは昔ながらの電卓そのまま(なおかつホンモノよりもちょっと使いにくい)なんてとても変じゃないだろうか?何でもっと、楽に手軽に計算ができないのだろうか、とワタシは思ったりするのである。


 というわけで、試しに日本語入力システムであるJUSTSYSTEMのATOKに「数式処理機能を追加するプラグイン」を作成してみた。通常の日本語入力システムは「辞書内蔵の賢いペン」であるわけなのだけれど、このプラグインを追加すれば、ATOKは「高機能関数電卓内蔵の賢いペン」に早変わりするのである。
 


 これを使えば、文章作成中に計算をしたくなった時には、例えば

とタイプして変換すると、
という風に変換(計算)されるのである。(辺り→当たりの変換ミス…) もちろん、変数への代入なども自由にできるので、
と入力すると、
1/year= 0.00273972602739726
と表示されるわけだ。sin()やcos()といった関数やpiなどと言った定数も使えるので、普通に使われるような計算であればタイプすると同時にすぐに答えを得ることができるのである。通常の日本語変換システムが「私たちがタイプすると同時に漢字に変換する」のと同様に、「私たちがタイプすると同時に数式計算をしてくれる」のである。これで、やっとPCを「計算機内蔵の賢いペン」として使うことができるわけだ。

 とはいえ、こういう色んな「賢いペン」を使ったところで、結局のところそれらを描いているのはそのペンを持っている私たちの手であり、私たち自身である。書かれたり描かれていくものはペンが描いているわけではなくて、私達自身が描いたものなのである。私たち自身の心が何かを感じ、私たちの頭が何かを考え、そして、私たちの手が全てを描くのである。

2002-12-27[n年前へ]

ニュースインデックスは誰のものか  

 ニュースインデックスは誰のものか
 とりあえず私は他人の褌はキライなのである。他人が作ったニュースインデックスは少なくとも、他人のものに違いないのである。「他人の作ったニュースを流して商売したり」するのはキライなのである。
 もっとも、それが新聞社や記者だけのものかと問われれば、そもそも「そのニュースは誰のものか」ということを考えなければならないハズなのである。「他人の作った人生を流して商売をする」というのはどういうことなのか、と考えなくてはイケナイと私的には思う年の暮れなのである。

 私が思うに人間だれしも寄生虫なわけだけれど寄生虫というか腸内菌にも色々あるわけで、どんな腸内菌になるかじゃないだろうか、と思ったりするだった。

2003-02-15[n年前へ]

コピーについて考える 

 Movable Type開発者インタビューを読みながら思った。最初blog騒動があった時には何ともMovable Typeユーザーには他人の褌画像(人の画像ファイルを勝手にローカルコピーして公開するもの)が溢れてる多いなぁと思ったけれど、今では武邑光裕さんがいまだに続けてるくらいで、ほとんどは画像無しに移行していったり、自分自身が撮った写真などを使うように変わっていったようだ。

 Movable Type開発者インタビューのタイトルではないが、小さい個人が大きなことをしていくときに、大きな会社と同じように画像の使用料や記事使用料は負担しなければならないわけで、そこのコストやら辛さやらを逃れて「革命」をどうやってするのかな、と思ったり。

 私はコピー機メーカーで仕事をしているので、「コピー」についてはやはりたまに考えるざるをえない。例えば、会社で購読している日経新聞を日経の許諾なしにコピーすることを禁じていることとか、戸島国雄さんが「雑誌を当たり前のようにコピーする人が多いが、そんな風にコピーをされても私たちにお金がちゃんと入ってくるわけではない」と言っていた(暗に「著作権者にお金は入らなくても、そのコピーでコピー機メーカーはちゃんとお金をもらっているくせに」ということを言ってると思う)こととや、色々考える。コピーで「お金を得ている」わけで、まぁ色々考えたりする。

 そういえば、RICOH IO Gate、素直に参考にします。リコーと言えばやはり英語技術文献の日本語要約 を有志が業務外でしていたりとか、面白いですね。

2003-03-26[n年前へ]

『魔女っ子メグちゃん』「霧の中の朝刊太郎」 

 「二つの胸の膨らみは…」の主題歌で有名な『魔女っ子メグちゃん』 三十台半ば位の人であれば、知っている人も多いかも知れない。もう三十年近く前のアニメ番組だ。今朝、新聞とテレビを見ていて、その『魔女っ子メグちゃん』のエピソードの中の一つ、「霧の中の朝刊太郎」を今朝思い出した。

 そのエピソードは、「ある日新聞が街に届かなくなる、届いたはずの朝刊を誰かが抜き取っている」という少し不思議な話。朝刊を抜き取っていた少年が主人公達に向かって言う台詞は、時代によらず報道という「良くも悪くも単なる商売」をいまいちど考えさせる。

 「二人組のマンション強盗、おじいさんが焼け死んだ、かわいい子供が車にひかれた、一家無理心中、楽しいことなんて一つも出てないだろ」「それとも君は他人の不幸を喜びたいのかい?」



■Powered by yagm.net