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2011-03-17[n年前へ]

原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理してみました 

 海外にいる親戚から、昨日、こんなメールが届きました。

 福島第一原発の1・2・3・4号機を「それぞれどのようなシークエンスで収束させようとしてるのか」「どんなリスクがあって、どんな対策が講じられているのか」「最悪の場合には、どんな可能性が考えられるのか」といったことについて全く説明されていないように思う。インターネット上で探してみても、そういった情報が見当たらない。説明不足のことばかりだ。というわけで、「ないなら作れ」の精神で資料を作れ。
 …「ないなら作れ」と言われても困る…それに「ないなら作れ」ではなくて「「ないなら作る」じゃなかったか?…と思いつつ、私もちょうどそんなことを知りたかったので、原子力発電所(軽水炉)における「想定リスク」と「想定対策」および「緊急非常時の対策」…そして「福島第一原発の現状」をまずはざっと整理してみました。それが、下のスライド(画像)です。「スライド1枚でわかる原発想定リスク・対策と福島第一原発の現状」です。

 このスライドは、主に二つの観点から、つまり、
  ■「核分裂の臨界状態による災害」
  ■「放射性物質の拡散による災害」
に対する防御策(しかし起こりうるリスクと対策)などを整理しようとしたものです。たとえば、「原発には五重の防護壁がある」と言われる部分「放射性物質の拡散による災害」を防ぐための(=放射性物質を内部に閉じ込める)ためのものになります。そして、それらの「想定ストーリー」に対する「福島第一原発の現状」を付記したものになります。

スライド1枚でわかる
「原発想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」


 ニュースで報道されていることがらを、このスライドを眺めつつ・追記してみれば、少しは「現状のシーケンス」がわかりやすくなるかもしれません。

 勘違いしていることや、情報を取り違えている(最近の)情報部分もあるでしょうから、ここに貼付けてみたのは、まずは「とりあえず」の資料です(要修正点などについては、jun@hirax.net までご連絡下さい)。

 資料を作ってみて「なるほど確かにそういうものかもしれない」と(思想的な面でなく、システム工学的な観点から)感じさせられたのは、「原子炉には、よく五重の防護があるといわれています。…(しかし)いちばん肝心なところは圧力容器だけで、まったく多重にはなっていません。(中略)一挙に全部壊れてしまう事態が起こるので、このような多重性は意外ともろく、あまり意味がないのです」とか「核燃料サイクル全体を五重の壁が覆っているわけではない」という高木仁三郎の言葉でした。


 なお、「想定リスク」と「想定対策」および「緊急非常時の対策」については、設計段階から考えられているものであり、今回固有のものを指しているわけではありません。

原発の「リスク」と「対策」と「福島第一原発の現状」原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理してみました原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理してみました






2011-03-19[n年前へ]

「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」の法則 

 原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理した時に感じたのは、安全性を問われた時にするだろう「最後の砦(説明)」は、結局のところ「ベネフィットとリスクを天秤に乗せたもの」なんだろうと思います。「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れざるを得なかった」という納得です。

 それは、原発のリスクに限らずありとあらゆると同じく、一番最後に考えることでもあるかもしれないし、一番最初に考えることであるように思います。それは「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れるという選択・判断」です。

 端的な例を挙げてみれば、それはたとえば「アメリカ産の牛肉から(狂牛病に)感染する確率は、自動車事故で死ぬ確率より小さい」の法則です。「○×の確率は自動車事故で死ぬ確率より小さい」というのは、「安全」が話題になる時に、いつも出てくる定番のセリフです。絶対安全というものが存在しない以上、安全は「安全でない確率を比較する」ことでしか評価し得ないというロジックです。興味深いのは、「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」という論理が、時には受け入れられ、あるいは、時に拒否されることもある、ということです。

 下のグラフは、さまざまなことにおける、そんな確率を並べたグラフです。ベネフィットとリスクを天秤乗せて・悩み続けていくのが私たちの毎日なんでしょうか。

「USA産牛肉から感染する確率は…」の法則






2011-03-28[n年前へ]

「まだチェルノブイリより何桁も下とか思ってるのかな」 

 「牧野の公開用日誌

福島原発 の放射能を理解するを見ると、今でも
チェルノブイリのようになってしまうと思っている人も多いです。
とか
皆さん、これを参考にして自分の周り(家族、近所、学校など)で国民の不安を少しでも取り除くための「街角紙芝居」に出て頂けませんでしょうか。
とか書いてあるのね。まだチェルノブイリより何桁も下とか思ってるのかなあ?

2011-05-29[n年前へ]

原発事故関連の処理が適切に行われていない原因 

 原発事故関連の処理が適切に行われていない原因は、「状況分析・策提案」あるいは「策選択・実行」を行うはずの立場にいる人が「行うべきこと」を取り違えていることに尽きます。たとえば、自らが「行うべきこと」を理解していなかったり、「行うべきこと」をはき違えて「行うべきでないこと」をする専門家がいるがために、多くの問題が生まれています。ちなみに、ここでいう「問題」というのは、適切でない選択・責任の不在という2つの弊害を生む原因を指しています。

 「再臨界の可能性はゼロではない」という原子力安全委員会 班目春樹委員長の言葉は「行うべきこと」を理解していないことによるものであるように思えます。また、「(年間の許容被曝量)20mSvから引き下げたら、(大勢の人を)避難させなければならないでしょう?これだけ大勢の人を、何処に避難させるというんですか?(だから、年間の許容被曝量を20mSvから引き下げるわけにはいかない)」という福島県放射線健康リスク管理アドバイザーたる長崎大 山下教授の言葉は、「行うべきこと」をはき違えて「行うべきでないこと」をしている端的な例に感じられます。

 何かしら大きなことを為そうとする場合、個人の力で対応できるわけがありません。だから、多数の専門家が(その担当分野での職務を遂行しつつ)関わることになります。その職務は、「行う策を決める」「策を行う」という2つの側面に分かれますが、これらの2側面のうち、問題になるのは「行う策を決める」という側面です。なぜかと言えば、「策を行う」段階で問題が起きるのであれば、それは「策選び」の段階で「(策遂行の段階で生じる可能性がある)問題発生を予測できなかった」という点において、適切でない選択をしたと判断されるからです。

 「行う策を決める」ということに関わる人たちは、「各々が担うべき観点から状況分析と策選択を行う」という職務を担います。策を実行する権限がなければ、その策を提案します。つまり、「どうすべき」という提案をします。そして、策を実行する権限があれば、策を選択した上でさらに実行する、ということになります。それを端的に言えば「どうする」という判断を行った上で「行う」ということです。

 ここで重要なのは、「状況分析」の段階では可能性・確率を使うことができる、つまり、長い目で見れば(もしかしたら)正確に合っているかもしれないことを語ることができるかもしれないのに対し、「策を選択する」ということは、「合っているかもしれない・けれど間違っているかもしれない」という「結果的には良くないことをするかもしれない」という「ひとつの選択」のみを顕在化させるということです。そして、その選択の結果生じたことの責任を負う、ということです。「状況分析」から「策選択・提案」をするという白線を越えた瞬間に、責任が発生するのです。

 「○×が起きるのは、何パーセントの確率だ」という正しいけれど安全な場所を過ぎ、「○×は起きないと判断する」と言わなければならない(必ずしも正確でなく・しかも自らの責任を問われる)理不尽なことこそが「”選択”をするという立場」です。

 「再臨界の可能性はゼロではない」という原子力安全委員会 班目春樹委員長の言葉から感じるのは、「状況分析」に留まっていて、「各々が担うべき観点からの策選択を行う」ということを自らが担うべきことだとは認識していない姿勢です。「状況分析」を間違うことによって評判を落とすことを気にはしても、その先にある選択・提案(さらには責任)までを担うものとは考えない意識です。

 …再臨界の可能性はゼロではない、きっとそれは100パーセント正しいのでしょう。問題は、100パーセント正しくない可能性があるにしても、「再臨界はしない(あるいはするかもしれない)、だからこうすべきだ」という提案をしなければいけない立場なのに、それをしない(それをしなければいけない立場であることを意識しない)態度です。評論や解説をするという無責任な立場と、そうでなく「選択・提案・実行」をするという責任を負う立場の違いを理解しない意識です。

 「(年間の許容被曝量)20mSvから引き下げたら、(大勢の人を)避難させなければならないでしょう?これだけ大勢の人を、何処に避難させるというんですか?(だから、年間の許容被曝量を20mSvから引き下げるわけにはいかない)」という福島県放射線健康リスク管理アドバイザーたる長崎大 山下教授の言葉に思うのは、「各々が担うべき観点から状況分析と策選択(提案)を行う」という責任を色々なことをごっちゃ混ぜにしてしまうと、「放射線健康リスク」という担当分野から最善策を提案するという立場を無視する姿勢です。健康リスク以外の状況を鑑みて「策を選ぶ・選ばない」という政治・経済的選択に悩み・責任を負うのは、放射線健康リスク管理アドバイザーとは別の立場を担うものであるはずです。

 「政治的・経済的」な判断に対し、それが正しかったのか・間違っていたのかという判断を下せる人はこの世に存在しません。けれど、「射線健康リスク」という担当分野からすべき「選択」を、そんな政治的・経済的な選択の陰に混ぜてしまうことは、適切でない選択・責任の不在を生むに違いないと思います。山下教授の言葉にあるようなことは、年間の許容被曝量を前にこれからどうすべきかという健康面からの解決指針ではなくて、それ以外のコスト・メリットとリスクをも天秤の上に乗せた選択の話です。…けれど、それは「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」にまかされることではないのです。自分が持つべき天秤とは異なる定規を、振りかざしているのです。

 「発生確率」「現状解析」で説明すれば良い世界もあれば、何かしらの「提案・選択」をし、それに伴って未来への責任が生じる世界もあります。原発事故関連の処理が適切に行われていない原因は、そんな世界・立場に対する認識の(間)違いがあるようにも思えます。


 蛇足ながら書けば、広い範囲のことを考えるなら、 十年程度の前の文章「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」をプリントアウトして読めば、良いように思います。この一片の文章があれば、もうそれ以上の文章がなくとも良いと思います。その文章に書かれている問題が必然的に生じるものであるとしたら、それを生じさせる理由を考えてみたくなります。

2011-08-24[n年前へ]

「視野を狭くせず、さらに、総合的に捉える視点」 

 加藤陽子さんに話を聞く「池上彰の「学問のススメ」」”なぜ現場任せで、トップマネジメントが機能しなくなるのか?”を読みました。

 なぜ戦争に負けたのか、なぜ原発は事故を起こしたのか、という点について、「庶民」とは反対側、「トップマネジメント」に焦点をあてて考えていきたいと思います。
 加藤陽子先生の歴史を「その時の状況に沿って考え・整理し直す」やり方は、とてもわかりやすく・新鮮で・面白い。池上彰さんには、ぜひ聞き役・狂言回し・黒子に徹して欲しかったと思います。

 対談中に登場する「戦時中のロジスティクス」という言葉で連想した、日本における日露戦争時の「ロジスティクス」や「経済・外貨問題」に関する言葉を、今日もう一度書き留め直しておきます。

 秋山真之と児玉源太郎に共通する特徴として、戦場の戦闘行為だけに目を奪われないということがあります。秋山は、ロジスティックス、つまり戦争の支援業務が重要だと言っていますが、児玉はもっと広くて、戦争を総合的にとらえる視点を持っていました。たとえば、戦費調達のための外債公募が上手く行くようにと、日露戦争の緒戦(初めの頃の戦い)で目立つ戦果を上げるべく作戦を考えている…。

秋山真之と児玉源太郎

 そう、後ろを支える大動脈・大静脈であるロジスティクスはとても重要で・欠かすことができない、そして、実はもっとも大切な黒子です。

 池上彰さんには、ぜひ聞き役・狂言回し・黒子に徹して欲しかったと思います。



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