2009-09-21[n年前へ]
■「個性」という安易な幻想
関川夏央「おじさんはなぜ時代小説が好きか (ことばのために) 」の「無知に個性はない」から。
近年は、個性とかオリジナリティとかの言葉が、魔法のように人を束縛しているのではないでしょうか。自己表現、自己実現も同じです。また、次の言葉は 堀井憲一郎「落語論 (講談社現代新書) 」から。
いま、(中略)人は一人一人が個性を持った素晴らしい存在である、と教えられる。おとなになって木陰で休んでいる気分で振り返ると「嘘も休み休み言ってもらいたい」とおもえる。
2009-09-26[n年前へ]
■「柳谷観音」と「話の舞台」
堀井憲一郎の「落語論 (講談社現代新書) 」を読んでいると、落語「景清」が登場していた。舞台となる清水観音と柳谷観音のうち、清水観音=修学旅行生が溢れる京都の清水寺の方は知らない人はいないだろうが、柳谷観音の方はそういうわけではない。関西ではそこそこ有名なのだとは思うが、他の有名寺社仏閣の山々に埋もれているように思う。
柳谷観音は、京都に近い長岡京市の山腹に位置している。竹林の丘や山を越え、急な峠道を上った先の山中にあるので、歩いて行くのも、自転車で行くのもかなりハードな場所である。何度か参拝した記憶はあるが、いつも車に乗って行った。地元の中高生などは、ランニングでこの辺りまで走りに来ることがあると聞いた時には、そして、実際にそんな学生たちを見た時は、思わず見とれてしまったくらいだ。10kmくらい山道を走るという学生たちの中に、自分がいなくて良かった…とつくづく思ったものである。
小説や落語の舞台、あるいは、ミステリや映画の舞台に行ってみるのは、とても面白い。そういった場所に行った後に、もう一度(その場所が登場する)本や映画を見ると、そういったストーリーがさらに身近に実感できる。「柳谷観音」に行けば、きっと「景清」をもっと楽しめるのだろうし、ナイル川に行けばクリスティをもっと楽しめるに違いない。
実際に行って、その場所の空気を吸った街には愛着が生まれ、親近感を覚えるものである。本を読むたび、その本に登場する町や場所の中に入って、少し暮らしてみたくなる。
2009-10-11[n年前へ]
■「雑誌」の寿命
編集者の姿が見える雑誌というものがある。そういう雑誌に寿命があるのは自然なことなのだろう、と思う。たとえば、少し変な例かもしれないが、「噂の真相」なんていう雑誌も、そんな雑誌のひとつだったのかもしれない。
堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書) 」の一説を読んでいて、雑誌の寿命というものを連想した。
何が残ろうと、死んだらおしまい。そう送ってあげるのがいいんだよと、落語は教えてくれています。それは残ってる者がしっかり生きろというメッセージでもあるわけで、動物としてはそういう生き方が正しいと思う。
さて、これも、グラフィケーション(GRAPHICATION)に関して考えていた時に(無料の「ネット記事」を読むなら、無料の「GRAPHICATION」も読みませんか?)、ふと連想したことの「ひとつ」です。雑誌の作り手が消えても、その雑誌の読者が消えても、どちらにしても「その雑誌」はどこかに消えていきます。さらに、こういった話は雑誌だけに限らない話なのだろう、とも思います。
2009-10-13[n年前へ]
■単位は「取る」か「来る」か?
堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」から。
単位を取る。僕たちはそう言っていた。1979年に30単位取ったときも、1980年に16単位しか取れなかったときも、僕はそう言っていた。
最近の学生は「取る」とは言わない「来る」と言う。
いつのまにか「単位」は「来る」ものになっていたのだ。いつからそうなったのか。歴代のアルバイトにさかのぼって、聞いてみた。1997年からだった。
世界は自分の思いで動いてくれない。だから自分のまわりの世界を、ちょっと非現実的にとらえていたほうが、自分を守りやすいバーチャルが楽なのだ。
だから努力してがんばっても、単位は「来る」のである。
2009-10-15[n年前へ]
■世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかない
堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」中の「1989年の一杯のかけそば」から。
世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人
2 騙される人
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でもそれは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。