hirax.net::Keywords::「西原理恵子」のブログ



1999-03-05[n年前へ]

できるかな 

ドアの向こうには、

本サイトとドラえもんの共通点

以前、「iMacはドラえもんの夢を見るか?-さようなら、ドラえもん -(1999.02.03)」 の時にドラえもんの話を出した。今回もまたまたドラえもんの登場である。私はドラえもんをさほど読んでいたわけではない。しかし、ここまでドラえもんにこだわるのは、高校時代のサミー本田先生の教育の賜物なのかもしれない。

今日(1999.03.05)の朝日新聞の朝刊に4面全面を使ってドラえもんの映画の広告が載せられていた。その内の1面を少し加工したものが下の写真である。

「できたらいいな」

できるかな」がメインテーマの本サイトとしては、この「できたらいいな」というのは非常に興味を惹かれるコピーである。また、下に示す面の広告のコピーは「iMacはドラえもんの夢を見るか?-さようなら、ドラえもん -(1999.02.03)」 の時に最後に浮かんでしまった疑問の一つの答えであるようにも思う。

「ドアの向こうに、いつも夢があった。」

「できたらいいな」という気持ちは、その答え故に起きるのであるし、だからこそ「できるかな」という考えが湧くのである。

ところで、本サイトの「できるかな」の名前の由来は「ノッポさんとゴン太くん」の「できるかな」、そして、西原理恵子の「できるかな」である。

もともと、「子供向け」の血は受け継いでいるのである。これら先達の名前を汚さないためにも、これからも、本サイトでは「できるかな」をモチーフに深く広く調べていくつもりである。

おまけ

こういう広告を眺めていると、
  • ドラえもん
  • パンドラの箱
  • 量子力学
からなる三題話も面白そうだと思った。高校、あるいは自然科学史を教える大学辺りの先生であれば、この三題話をレポートのテーマにしてみるのも面白いのではないだろうか。ところで、大学の学部授業の時のレポートで面白かったのが動物分類学のレポート試験の
「クジラは哺乳類か魚類か?、論ぜよ。」
という題目であった。この題目についてレポート用紙5枚位で説明できるとお考えの方は不可確実である。言い換えれば、自分なりの「動物分類学を構築せよ」と言っているのである。その人の姿勢まで問われる深い問題である。

2002-11-18[n年前へ]

眺める景色 

 「景色」というのは、「直接には関わりの無い、余裕の有る傍観者の立場からする言葉」だと新明解は言う。けれど、そうじゃないような気も少しする。よく判らないけれど、そう思う。
 私の好きな西原理恵子の描くマンガには、時折とても柔らかい景色が描かれるわけだけれど、あれは「直接には関わりの無い、余裕の有る傍観者」が眺めている景色だろうか?いや、きっと違うだろう。
 つまりは、「余裕のない傍観者」だって景色を眺めるだろうし、直接でも間接的でも関わりがどうかなんてそこにはあまり関係がないような気もしたりする。2ちゃんねるでみかける(ワラ)という言葉でさえ、たまには(泣き笑い)に見えたりするのとそれは同じだろう、というのは例えが極端だろうか。
 とはいえ、新明解の「直接には関わりの無い、余裕の有る傍観者の立場からする言葉」という言葉はそれはそれで好きだったりする。というわけで、何はともあれこれは今日見た「空と送電線」です。東名高速の裾野インターを出たところで撮りました。「昼休みに眺めた白い花」の方は勤務先の駐車場の横、で撮りました。

眺める景色眺める景色






2003-06-27[n年前へ]

今日の一人でしみじみ納得で、ちょっと涙…。 

 本屋で大枚払って「西原理恵子の人生一年生二号」を買った。1300円の本も海を渡ると二倍以上になるので、結構財布が痛いのである。
 で、個人的にあぁそうなんだよなぁ、としみじみと納得したのが「恨ミシュランの真実」の中の「新聞記者は謝らない。プライドが高くて自分の非を絶対に認めない。自分の記事で人が死んで一人前、と思ってる」という西原理恵子の言葉なのである。そういう世界なんだろう、とは思うのだけれど、一人でしみじみ納得し、そして、ちょっと一人で涙する言葉なのである。

2003-06-30[n年前へ]

ぼくんち@300円 

 西原理恵子の「ぼくんち」(全)を300円で古本屋で買う。2ページ1話で全114話だから、1話が1円硬貨にもならない値段。だけど、2ページの中に色んな世界が詰まってる。

 ぼくのすんでいるところは 山と海しかないしずかな町で はしに行くとどんどん貧乏になる。 そのいちばんはしっこがぼくのうちだ
 そんな1円以下のページをめくり続ける。 

2004-04-02[n年前へ]

どんなものでも寂しがりや 

 どんなものでも基本的には寂しがりやだという。だから、寂しい過疎の町からは段々人が出て行ってしまい、大都会にはさらに人が集まって行く。そしてまた同じように、中身が寂しい財布からは寂しがりやのお金が逃げだして、豊かな財布の中へ逃げ込んでしまうという。つまりは、ビンボー人はますますビンボーになり、金持ちの財布にはますますたくさんのお金が集まっていくのである。

 そんな哀しい真実を知ったのは西原理恵子のマンガからだっただろうか。そして、さらに哀しいことに、この法則はどんなものにも当てはまる。多分、人やお金だけでない。例えば、時間だって寂しがり屋だ。「時間」が無いところからはますます「時間」は逃げていくし、仕事はたくさんあるところにはますます仕事が集まってくる。「どんなものでも寂しがりや」なのだから、どんなものも仲間を呼び寄せようとするのだ。

 ということは、「幸せ」「不幸」なんてものだってきっと寂しがりやなのだろう。「幸せ」は「幸せ」を呼ぶし、「不幸」は「不幸」を呼び寄せるのかもしれない。すると、幸せになりたければ幸せな人にすり寄るのが一番だし、仕事を抱えたくなければ仕事を抱えた人に近づいてはイケナイという法則が導かれるわけである。逆に言えば、不幸な人からは人が逃げていくし、仕事を抱えた人の周りからは一目散に人は逃げていく、ということにもなるわけだけれど。



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