hirax.net::Keywords::「西原理恵子」のブログ



2004-05-03[n年前へ]

顔文字「ぼくんち」 

 「ぼくんち」を描く西原理恵子の絵はとても記号化されている。「笑う」顔は本当に「笑う顔」だ。だからこそ、その記号化された「笑い顔」が泣き顔に見えたりもする。

 そんな記号化された顔で描かれているならば、その顔を顔文字にしてしまうのも良いだろうか? いっそ、顔文字で「ぼくんち」を描いてみるのも良いだろうか。記号化された顔文字で「笑うしかない顔」を表してみるのも良いだろうか。

 というわけで、上手くできないけれど、適当に顔文字で貼り付けてみることにしよう。ついでに、ひらがなもカタカナにして。

「ボクンチ」 113,114話ソノ日ジイチャンハ古イ漁船に乗ッテヤッテキタ。調子ノ悪そうなディーゼルエンジンの音ガばひばひイッテイタ。「二太かっ。オマンが二太かっ」 (⌒○⌒)ジイチャンハ海の水と機械油と焼けた鉄のニオイがシタ。ソレハボクの町と似たニオイでボクハずいぶん安心シタ。 ꇊꋞꇻꋞꇋꆿꆡ(軟-軟 )…ゾウの頭ノカタチヲシタ入り江ヲ通ッテ、恐竜の入り江を過ギルト、イヨイヨボクノ町ガ見エナクナル。/\/\  /\〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  (゜(6 )「ジイチャン。ボク知ッテンデ」「コウユウ時ハ笑ウンヤ」    ( ∩ _ ∩ )

2004-05-04[n年前へ]

元祖!漫画診断。 

 あなたの好きであろう漫画を診断します、という「元祖!漫画診断」 「あなたは 成熟しみじみ型 です。 …『ぼくんち』をはじめとする『感傷的漫画』がツボに来やすいでしょう」 好きな漫画に関しては当たりかな。

 最近、「勝ち」とか「負け」という文字をよく見かける。色々なニュースを見て、それを論評する色んな意見を眺めながら、ふと「あの会社(朝日新聞)は世間的にはやはり『勝ち組』であって」と書く文章を思い浮かべる。それは朝日に限らないのだろうなと思いをはせつつ、ふと四年前に書かれた西原理恵子「ぼくんち」に関する文章をもう一度眺めてみる。

 現代において語られる人間のあるべき姿は、小中高大学と勉強して社会に出て会社に勤め、勝利し、人生の勝ち組たれとでも言うものだと思う。しかし、それ以外の生き方も存在するということをこの物語は教えてくれる。どうしようもなくても、人間のクズですら、人は生きていてよい。 彼女の作品世界には、英雄がいない。現れるのは「北斗の拳なんかで、主人公に一撃で倒されるためだけに出てくる雑魚キャラに虐げられる人々」のような人間である。

2004-05-05[n年前へ]

感傷的漫画について 

 感傷的漫画に挙げられているマンガの中で言うと、大島弓子や「南くんの恋人」が好きだというのであれば、「草迷宮・草空間」は良いかもしれません。萩尾望都・大島弓子(つるばらつるばら とか)が好きだというのであれば、「星の時計のLiddell」も気に入るのかもしれません。また、少し世界は違いますが「無能の人」も似たテイストのような気もします。 ちなみに、「鳥頭紀行」「できるかな」や「まあじゃんほうろうき」辺りだけを読んで西原理恵子を語っては、…イケマセンねぇ。

2004-06-14[n年前へ]

情熱大陸 

 情熱大陸を見た感想は以下同文

宇多田ヒカルは漫画家の西原理恵子嬢と実はすごく似ている。顔もどことなく似ているし、なんといっても性格が酷似。照れ加減、その反動のちょっと粗暴な感じのつっぱり加減。でも実は人に気をすごく使ってるのが丸わかり。頭の回転も早い。

2004-11-01[n年前へ]

その一秒に何の意味がある? 

私自身は、どんな媒体であれ、速報はメディアの生命線だと思っている。「新聞は速報性より、深く掘り下げた分析記事を載せてほしい」という意見もある。それは大切な指摘だが、起きた出来事を一人でも多くの人に、一秒でも速く届けるという役割を放棄していいことにはならない。  毎日新聞「理系白書」の記者が作るページ
理系白書ブログ (私は決してそう思わないのだが)必ず「新聞」記者達は「一秒でも速く届けるという役割」といったような言葉を言う。もっとも、そう思わない心を持つ記者は「新聞」記者を続けていくことはできなくて、単にそう思うことができる記者だけが「ふるい」に残っているだけかもしれない。

 その一秒に何の意味がある?と私は思う。「競技場で誰かと100m走でもしているのだろうか?」「単に特オチがコワイだけじゃないだろうか?」と感じる。速報がメディアの生命線であるというならば、ずいぶんと細く短い生命線なのだな、とも思う。メディアというのはそんなものを生命線にした、本当にそんなちっぽけなものなのか、私はとても疑問に思う。せめて、「新聞」メディアという世界の中にでも限っていて欲しい、そんな生命線は。

 野次馬根性が通常より旺盛(それはこの種の仕事には必要なことだと思う)な新聞記者達は、自分の中の(通常からの)判断基準のズレを少しばかり意識し続けるべきだと思う。そして、速報の必要がある記事、速報の必要が無い記事、その記事がどういったものなのかを考える義務が記者にはあると私は思う。その義務を放棄していいことにはならない、と思う。
新聞記者は謝らない。プライドが高くて自分の非を絶対に認めない。自分の記事で人が死んで一人前、と思ってる。 「恨ミシュランの真実」 西原理恵子



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