2010-03-29[n年前へ]
■飲んでいることを忘れたいから酒を飲むという「星の王子さま」に登場する問答を。
角田光代の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」(鴨志田穣)への書評から。
なぜ酒を飲むのか、飲んでいることを忘れたいからだという、「星の王子さま」に登場する問答を幾度も思い浮かべた。
いってはいけない場所は避けて生きる。それが正論だが、人生は正論にはおさまらない。生きることはかくも理不尽である。それでもこの小説が絶望に彩られていないのは、「帰りたい」、そう切望する場所を、理不尽な「僕」が諦(あきら)めることをしないからだろう。
「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」の「僕」は、とても理不尽で不器用で、その理不尽で不器用な「僕」が生まれてからの話、そして、「彼女」と描く-西原理恵子-のもとに、やはり限りなく不器用に「帰る」までの話である。「帰る」ことができた一節には、「帰りたい」と切望したその場所の大きさと魅力が透けて見えてくる。
2010-05-01[n年前へ]
■それが見たくて、いつもポッケにアメをいくつもつめる
西原理恵子の「毎日かあさん4 出戻り編 」から。
途上国のストリートチルドレンたちは、お金をあげても、親にとられてしまうので、まるで表情がない。
けれど、お菓子をあげると笑う。こどもの顔で笑う。
私はそれが見たくて、いつもポッケにアメをいくつもつめる。
2010-05-17[n年前へ]
■「ずっと」も「好き」も、どこにもないから
西原理恵子原作の、映画「パーマネント野ばら」に対する、森山京子の言葉。
誰かを愛さずには生きていけない。愛しているという思いこみでも、かつて熱烈に愛したという記憶でもいい。心の傷に蓋をし、タフな明日を迎え撃つためにも、その熱の微かな残りを抱きしめていたい。
テレビで、おそらく宣伝番組なのだろう、映画「パーマネント野ばら」を作り上げた女優三人が「女の嘘」というものについて話をしていた。誰だろう、菅野美穂でもなく、小池栄子でもなく、池脇千鶴だったろうか、女の嘘というモチーフに対して、「女が男につく嘘」の話をしていた。…「パーマネント野ばら」に描かれているのは、そういう味の嘘でなない、ように思う。
「ずっと好き」はどこにもないから、『私は、毎日、「嘘」をつく』…けれど、それは他の「誰か」につくのではない。その「嘘」という名の物語を語る相手は、「自分自身」である。騙(かた)る相手は他の誰かでなく自分自身だということにこそ、哀しさと切なさと真実がある、と私は思っている。誰かを信じさせる「嘘」ではなく、「自分」を信じさせる嘘だからこそ、切実で哀しくて、そしてリアルなのだと私は思う。
私は毎日、小さな嘘をつく──。
それから、王子さまとお姫さまはキスをして、
二人はいつまでも幸せに暮らしました―。
そんなお話は この世に ないけど―。
好きやずっとなんて、ないことは、
とっくのむかしから知っている。
だから、わたしは、
毎日、小さなウソばかりついている。
2010-05-19[n年前へ]
■空豆の中にはいつも何かが入ってる
西原理恵子の「パーマネント野はら」から。
最初に娘をみたとき、空豆の夢を見た。
どこともしらない空の上に空豆があって、
のぞくと、私の娘がはいっている。
私は、私の空豆をみつけることができて、
うれしくてしかたがない。
また、こんな一節は、「営業ものがたり 」の「うつくしいのはら」から。
兵隊さんに土をかけたら、次の年、
そこから空豆の木がはえた。
青い空に空豆がきれい。
そして何年もして、その空豆は、
私のおなかにふってきた。
うつくしいのはら西原理恵子が描く空豆の中には、女性の大きなおなかのように、いつも赤ちゃんが入ってる。そんなものが入ってる。
あおい そらと そらまめ
あいしてる
2010-05-20[n年前へ]
■たくさんの空豆
西原理恵子「毎日かあさん 5 黒潮家族編 」から。
ゆっくりおりてきたその空豆をのぞくと、
中にはみんなこどもが入っていて、
「まだかな まだかな」
って顔をしている。
あのたくさんの空豆を、
今でもよく思い出す。
■Powered
by yagm.net