2002-02-11[n年前へ]
■めがねっこ大好き。
めがねを外すと美人になるは本当か!?
理系=めがねっこ大好き? 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。
つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。
「めがねを外すと美人になる」は本当か!?
よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。
試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。
下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。
とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。
そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。
下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
「目が小さい」仲間由紀恵 | 「目が小さい」仲間由紀恵 |
日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。
ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
「目が大きい」仲間由紀恵 | 「目が大きい」仲間由紀恵 |
ということで、
- 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
- 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
ところで、理系と文系…
さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。
よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。
そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。
だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。
私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。
2003-04-28[n年前へ]
■出張授業「できるかな?」
してきました、ハイ。題目は「メガネの科学 - 少女マンガの方程式 -」と「"Colors"」です。「メガネの科学」の方はもちろん「めがねっこ大好き」を高校一年生用にアレンジしてみました。女子生徒が過半数以上と言うことで、ちょっと少女マンガをメインに上品に扱いつつ真面目な科学の授業プレゼン風のテイストで。そして、"Colors"の方はお笑い + Scraps + 教訓風?な書き下ろし?です。
結局、面白科学とちょっと真面目な言葉の話の二本立て45分授業でした。授業の方はまぁまぁ良かったんじゃないか、と。しかし、まさか教壇で「めがねっこ大好き」を話すことがあるとは…。
授業で使ったPowerPointのファイルを置いてみたいけれど、インターネットから集めた画像を結構使ったので、できないかな。ちょっと残念。
2004-03-17[n年前へ]
■更紗眼鏡 = カレイドスコープ
『カレイドスコープは、スコットランドの物理学者デヴィット・ブリュースターが1813年に発明しました。日本にカレイドスコープが伝わったのは発明から6年後の1819年(文政・天保期)。大阪の年代記に「更紗眼鏡(さらさめがね)」として記述があります』というカレイド・スコープ(万華鏡)ギャラリーのオタルカン。万華鏡の動画も見ていてとても面白い。
2004-10-30[n年前へ]
■巫女さん
hnsのマスコット巫女さんは少し苦手なのだけれど、Tech総研にも巫女さんがいることに気づく。世の中にはそんなに巫女さんが満ちているものなのだろうか?巫女さんがそんな日常のモノとはとても思えないのだが。それとも、非日常だからこそ何か惹かれるものがあるのだろうか?
私は今のところ非日常の「巫女さん萌え」にはなれないようだ。日常の「めがねっこ」には惹かれないこともないのだが、巫女さんを置いておく位置が私のアタマの中にはどうやらないらしい。といいつつ、篠有紀子のマンガ「高天原に神留坐す」の主人公の禰宜さんは好きなんだけど…。禰宜さんと巫女さんの間に何か違いでもあるのだろうか?
人にはできないこともあるのですからだから一生懸命がんばったらあとは神様におまかせすればいいのです 「高天原に神留坐す」 篠有紀子
2006-08-17[n年前へ]
■ストレス・フリーのホワイトボード「らくがき」術
仕事打ち合わせの時は、大型のホワイトボードに液晶プロジェクターでPCの画面を投影し、必要に応じてホワイトボード(つまりPCの画面)にホワイトボード用のペンで書き込み(説明文や説明用の図)を書き入れていくことが多いです。そして、その画面に関して話し終わったら、デジタルカメラでそのホワイトボード画面(PC画面+ペンによる書き込み)を撮影して、次の話題にうつるわけです。時には、プラズマ・ディスプレイを使った説明などでも、そんな画面への(ホワイトボード用のペンを使った)書き込みをして、周りを驚かせてしまうことがあります。
ところで、自分のノートPCを使っている時や、他の人のノートPCを使って作業をする時には、ちょっと面白い「テクニック」を使います。それは、(文房具屋さんで普通に売ってる)「透明の下敷き」をノートPCの画面に重ねて、その上に自由自在にホワイトボード用のペンを使ってカラフルに書き込みをする、というテクニックです。つまり、普通のノートPCをタブレットPCであるかのように使うわけです。使い慣れた「ホワイトボード用のペン」を使う分、タブレットPCよりも直感的に思えたりもします。例えば、そんな例を動画でお見せすると、「こんな感じ(動画を三つほど右に置いておきます)」になります。あるいは、その動画例からいくつかスクリーンショットを作ってみたのが、下の画像です。
これが私の「ストレス・フリーのホワイトボード"らくがき"術」です。「説明上手になれる「らくがき」の技術」や「ストレスフリーのホワイトボード術」に影響されて、ちょっと書いてみましたが、考えてみれば「仕事」じゃなくて"らくがき"なので、ストレス・フリーなのは当たり前のような気がしてきました。しかも、この動画で示した例なんて、「仲間由紀恵をめがねっこに変えてるらくがき」です。ストレス・フリーなのが当たり前、かもしれません。…けれど、気分転換くらいにはなりますし、説明をしたりする時にもちょっと便利で面白いテクニックです。騙されたと思って、「透明の下敷き」と「細くて小さなホワイトボード用のペン」を文房具屋で買って、持ち歩いて使ってみるのはいかがでしょうか。
ちなみに、この動画中で、ブラウザ画面の左横でピョコピョコ動いているのが「眺めたWEBページ内容をすべて(本文つき)インターネットショートカットとして保存するアプリケーション」です。