2008-03-18[n年前へ]
■「ゆびピアノ ドレミくん」を分解してみよう
「メリーさんの羊」が演奏された後、さっそく「ゆびピアノ ドレミくん」を分解してみた。すると、これが実に面白い。
まず、この「ゆびピアノ ドレミくん」には、5本のネジが使われている。電池ボックスに1本。その左右に2本、そしてマジックテープの影に2本のネジが隠れている。その5本のネジを外せば、が使われているのは、「ゆびピアノ ドレミくん」のケースは開く。逆に言えば、小さな本体のために、5本ものネジが使われている。さらに、5本の「指ユニット」に対して、それぞれ3本のネジが使われている。つまり、3*5+5=20本ものネジが ドラえもん「ゆびピアノ ドレミくん」には使われている。これら20本ものネジは、結構小さく、直径1.5mmほどであるし、それらの「指ユニット」にはシールまで一枚づつ貼られている。……これらは、どう見ても、手作業で作っているように見える。また、ネジや工程を減らすよりは、どれも単純な樹脂・部品を使うというやり方に見える。
もちろん、「ゆびピアノ ドレミくん」は、ネジだけで作られているわけもない。そこには、小さなスピーカ・電源On/Offのためのスイッチ・電子音発生のための(タイマICだろうか?)チップが一つづつ使われていて、音スイッチ部分は全部「ゴム+導電スポンジ+基盤」になっている。また、ボタン電池x2個が、エネルギー源としてこの「ドラえもんの道具」を動かしている。
アニメなどが入ったDVDもつき、ほとんどフルカラーの200ページで、こんな電子機器まで付いている「小学一年生」が「本体524円」で売られている。「ゆびピアノ ドレミくん」自体の原価は70円くらいだろうか?普通に売るなら、このおもちゃだけで300円くらいの値段をつけそうだ。
それにつけても、どうやら、価値と価格というものは、イコールではないようだ。その残差は、なぜ生じ続けるのだろうか。
2008-05-02[n年前へ]
■理科の教科書に出てくる「仕事」と「駅前で聴く音楽」
力積で考える「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押し込む打撃」の「力積」は「力の大きさと力が働く時間を掛けあわせたもの」です。その一方、「力と変位を掛け合わせた(内積)もの」を、理科の教科書の中では「仕事」と呼びます。
中学か高校の頃、理科か物理の教科書の中で「仕事」という言葉が出てきたときに、何だかその言葉の感覚と教科書の中での定義がズレていて首を捻ったような覚えがあります。たとえば、Wikipedia に「仕事とは呼ばない例」として挙げられているようなこと
人が重い荷物を抱え・支えている状況では、荷物は静止していて、エネルギーは変わらない。つまり、この場合、人は荷物に対して仕事をしていない。を聞きながら、それは仕事でないのかぁ……!?と悩んだわけです。「重い荷物を抱え・支えている状況」はとてもしんどそうなのになぁ……と感じました。それは「仕事」ではないかもしれないけれど、筋肉がパンパンにつく肉体改造・大成長状態だろうに……と思ったのです。
私と同じように、理科の教科書を読みながら、頭の中に大きなハテナマークを浮かべた人はきっと多いと思います。
先日、「手作り三次元グラフ」と"Life Work"や「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くといったラクガキをしました。そのとき、”理科の教科書の中の「仕事」の説明を読みながら、頭に浮かんだハテナマーク”を思い出しました。
あのラクガキ中の「他人の満足」という軸は、「その人がどれだけ他の人を満足させたか・その人の力で他の人(の心を)どれだけ動かしたか」という、まるで理科の教科書に出てくる「仕事」なのかもしれない、と感じたのでした。
駅前で誰かが演奏している音楽を聴いて心が動かされたとき、「何だか心の中に豊かなエネルギーが入ってきたなぁ」と思ったりもします。それを、理科の教科書を思い出しながら言うならば、「あぁ誰かに仕事をされたんだなぁ」と感じたりするのです。
「力積」と「仕事」はイコールではありません。もしも、「自らを脅かし・揺るがし、新たな出会いや発見がある」としたら、それは「仕事」よりは、力積に近いものなのだろうか、と思っています。
2008-06-30[n年前へ]
■「競馬」と「資本主義」
「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。
競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン
AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。
2008-12-04[n年前へ]
■ぼくらはどういう状態にいたいのだろう?
Rubyのまつもと氏「エンジニアに安住の地がなくなってきている」と警鐘という記事を読む。
情報の格差というものがある。それは解消すべきともいわれるが、モノが高いところにあれば、位置エネルギーが発生し、電気を起こしたりすることができる。情報の場合も、上の方やまんなか辺りにいれば、位置の差でエネルギーを取り出せる
まつもとゆきひろ
この言葉を読むと、以前「競馬」と「資本主義」で書いた、(AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で岩井克人が書いていた)「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は ”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」といった言葉を思い出す。
”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれているのだと思っている。いや、現在どころか、はるかな昔からそうだったに違いないと信じている。そして、この事実は技術者の志向と実は相反することが多いのではないか、とも思うことがある。
「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、多くの場合、”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」ということは、つまり、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
しかし、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの「間」に立つのなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易だろう。
ということは、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
「競馬」と「資本主義」
ぼくらはどういう状態にいたいのだろう?位置エネルギー、ポテンシャルを高めたいのだろうか、それともエネルギー変換効率が良い場所にいたいだろうか。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
「技術的満足」と「大きな利益」は両立するのだろうか。そんなことができるのだろうか。・・・きっと、その答えは自分で探すしかないのだろう。
そこまでをやりたいの。
西原理恵子@ユリイカ
2010-09-21[n年前へ]
■「鴨川カップル」とエネルギー最小化原理
四条河原町に行く途中、久しぶりに鴨川の川辺に佇(たたず)む人たちに向けてシャッターを切りました。修学旅行生らしきグループ連れや家族連れも多いですが、もちろん”昼間は等間隔に座り、夜は隣のカップルとの間隔が照度に比例するように座る”「鴨川カップル」も水際にちらほら座っています。鴨川カップルたちは、、昭和の昔から、ずっと先の未来まで、同じ座り方をしているのかもしれません。
こうして橋の上から、鴨川カップルたちや修学旅行生たちの座り方を眺めていると、「人は、周囲にいる人々の存在を意識して、その存在感を最小化するように動く」のだなぁ、と強く感じたりします。なんだか、人の影響エネルギーみたいなものがあって、そのエネルギーを小さくするように人々が自動的に動いていくさまを、橋の上から眺めているような気分になります。力学実験の結果、あるいは、力学シミュレーションの過程を眺めているような心地です。
こんな、まるで巨大な力学思考実験のようなさまを感じることができる景色というものも、きっと色んなところにあるだろう、と思います。町の中にふつうにある、眺めようと思った時にすぐ見ることができる、そんな景色を集めてみたいな、と思います。