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2008-04-19[n年前へ]

「夜のコンビニ・デッサン」と「色々な世界を描くための秘密道具」 

 石膏のベートーヴェンや、皿の上の果物や、あるいは身近なモノをデッサンをしたことがある(あるいは、課題として与えられたことがある)人は多いと思う。芯が柔らかな4Bくらいの鉛筆や、パレットに載せた数色の絵具で、目の前に見えるものを描こうとした経験を持つ人は多いと思う。石膏のベートーヴェンを描くならともかく、色のついたモノを描かねばならない時には、いきなり悩んだりはしなかっただろうか。目の前に見えているモノを、手にした道具でどのように表現するか悩んだりはしなかっただろうか。

 ケント紙のスケッチブックと4Bの鉛筆を手に持って、「目の前の赤いリンゴと、黄色いバナナはどちらが白いのだろう?どちらが黒いのだろう?」と悩んだりした経験はないだろうか? 色々な色をどんな風に限られたもので置き換えれば良いのか、全然わからないままに、適当に鉛筆を走らせた人もいるのではないだろうか? 夜のコンビニを、ケント紙に鉛筆で描いた「コンビニ#3」を眺めたとき、ふとそんな経験を思い出した。


 描かれているのは、人通りの少なそうな道沿いに立つコンビニエンスストアで、青や赤といった色を白と黒の世界に置き換え描かれた世界は静謐で、まるで異次元の世界のようで、それでいて、とても「私たちの現実の世界」を忠実に描写しているように見える。

 いつだったか、絵画の解説書を眺めていた時に、面白い描写と記述を見た。「面白い描写」というのは、絵の中に不思議な機械が描かれていたことで、「面白い記述」というのは、その道具が「目の前の景色をどのような色や明暗で表現すれば良いかを判断するために作られた光学機器である」という説明だった。その「連続色→離散色・明暗変換」の道具は、時代を考えればおそらく単純な色分解フィルタなのだろう。…ただ、残念なことに、その不思議道具(色分解フィルタ・ツール)が描かれていた絵が誰のどの絵だったかを忘れてしまった。時代背景を考えれば、17世紀後半から19世紀中盤くらいの絵だろうと思うのだけれど、誰のどの絵だったのかを全く思い出せないことが残念至極である。

 人間の比視感度を考えると、(赤:緑:青=3:6:1くらいで)緑色の感度が高い人が多い。だから、少し赤味がかった緑色をしたサングラスでもかけながら景色を見れば、色の着いたリンゴやバナナや下履を簡単に黒鉛筆で「濃淡画像」として描くことができるのだろうか。

 夜道、ふと横を見ると、「夜のコンビニを、ケント紙に鉛筆で描いた"コンビニ#3"」に瓜二つな景色が見えたので、ケータイでその景色を写してみた。そこには人も車も写っていて、そのまま私たちの現実の世界だ。けれど、それだけだ。"コンビニ#3"にある妙な存在感(あるいは不存在感)がそこにはない。それが、良いことか・悪いことかはわからないけれども。


コンビニ#3夜のコンビニ






2008-05-04[n年前へ]

夢を紡ぎ続ける画家や作家や多くの芸術家たち 

 美しいものと醜いものが同時に存在する。それは人間関係においてとくに顕著に現れることがあり、青空がたちまち暗雲に閉ざされる気持ちがするものだ。しかし、生きていくということは、きれいごとだけではすまない。夢の虚しさを知ったところで、その夢は消えないものである。そして、そう信じる人たちのために夢を紡ぎ続ける画家や作家や多くの芸術家たちがいる。
 本書に登場する人物をひとつの共通項で要約すると、イメージの達人であり夢を一生追い続けた人たちであるといえる。

夢と遊びの設計者たち

2008-05-16[n年前へ]

バストの測り方の「定義」と「実態」 

 男性にとって「バストサイズの測り方」は、接する機会の少ないもののトップ10に入るものの一つだ。しかし、女性からしてみれば、そんなことは、日常生活の中で当たり前のように知っている「常識トップ10」に必ず入ることの一つに違いない。

 「ブラジャー・カップ解体新書」で調べたように、「ブラジャーのカップ数」は、JIS規格によれば、ボトムバスト(胸のバスト直下の部分の胸囲)とトップバスト(バスト部分の胸囲)の差で決められている。
 このJIS規格(JIS L 4006)は、一見すると実に事務的で厳密な定義に見える。……しかし、よく考えて見ればこれほど曖昧な定義もない。ボトムバスト=「バスト直下の部分の胸囲」はともかく、トップバスト=「バスト部分の胸囲」というものをよく考えて見れば、これほど曖昧な規格もない。

 その疑問をひとことでいえば、「バスト部分」とは一体何だろうか。その形も存在も定かでなく、まるでアメーバのように姿を変える「バスト部分の胸囲」とは一体何を指すのだろうか。ブラジャーのサイズを規定しているJIS規格JIS L 4006「ファンデーションのサイズ」からでは、「トップバスト」が何であるか(さらにはカップサイズが何であるか)は、実はまったくわからないのである。

 トップバストの定義を調べていくと、ワンピース作成時の測定寸法表(PDF) や、基本身体寸法の表示など、「女子のバストポイントを通る胸部の水平周囲長」といった表現が多い。男性がこの言葉から受けるイメージは、「直立した女性の胸部を、水平に輪切りしたような状態で、巻尺(メジャー)で図った周囲長」である。しかし、トップバスとの計り方の「実態」は違うらしい。

 青山まりの「ブラの本。」を読み返してみると、「(まっすぐ立って計ると、実際より小さな値になってしまうので)90度の角度で、お辞儀をするスタイルでトップバストを計る」と書いてあった。つまり、バストの周囲の脂肪が胸部に集まり、そして伸びているような状態で胸部の周囲長を計るのが、トップバストの計り方の「実態」だというわけである。

 「理想」/「現実」や「定義」/「実態」など本来ひとつの同じものにも複数の姿(見方)がある。裏も表もなく、ただ一つの見方しかない(できない)ものは、映画やテレビのセットくらいで、現実には存在しない。「ブラジャーのトップバストの測り方」からそんなことを考える……のは妄想しすぎ、なのだろう。

トップバストの計り方






2008-05-29[n年前へ]

「言葉を解釈する文章」と「眼で見る文章」 

 南伸坊の「ごはんつぶがついてます」中で宮武外骨に関して書いた文章を読み、「あぁ、そういうことなんだよなぁ」と感じた。

 一般に「頭がいい」とされる人は、説明のできる人であって、つまり言葉でわかっている人、耳の人のことです。
 ここで言っている「耳の人」というのは、「音を聞く器官としての耳」というよりは、「言葉を解釈する器官としての耳」というような意味合いだ。本当に素の文字の羅列としての言葉だけを受け取る器官というニュアンスである。
 南伸坊はこんな感じ方に対する説明を書く一方で、それとことなる「解る」をも並べ書く。
 論理をつみあげていって、何かを解(わか)るというのではなく、何かをじっと見ていたり、何かをそこらに並べて、一望していることで、解ることというのがあります。
 南伸坊は、「こういった感じ方をする人々は耳の人ではなく眼の人だ」と名付ける。
 さて、眼の人である宮武外骨は、文章も眼で書いています。……つまり書かれている「内容」ではなくて、書かれ方が「内容」であるというような意味合いにおいて、これは眼の文章なのです。
 「ごはんつぶがついてます」 p.192
 南伸坊が言う「眼の文章」というのは、レイアウト・タイポグラフィー・イラストレーション……といったものがすべて組み合わさった総合体を指している。
 さまざまなWEBページを眺めるとき、ページごとにスタイルも違っていて読みづらさを感じる時がある。もしかしたら、そう感じる時は「耳の人」寄りな頭になっているのかもしれない。そして、スタイルシートでデザインされたページを眺めていて、何だか色々なものの組み合わせが合わさった気持ちよさを感じ、何かを読み取ったつもりになりそうなときは、きっと、「眼の人」よりになっているに違いない。
 そんな、「言葉を解釈する文章(あるいは読み方)」と「眼で見る文章(あるいは見方)」があって、それはそれぞれ得意・不得意な分野があるのだろうと思う。
 論理を積み重ねるようなものが得意な方、曖昧模糊としたものを明瞭に浮かび上がらせることが得意な方、その両方の感覚を兼ね備えられれば良いのかもしれないが、現実それは無理な話だろう。せいぜい、その時の自分の読み方が「耳の人」寄りなのか「眼の人」寄りなのかを意識しておくことくらいしか、できないのかもしれない。

2008-06-16[n年前へ]

ブレーキングとコーナリングの荷重問題 

 車の運転をする時、「各タイヤへの荷重状態」が重要だ、とよく聞くような気がする。あるいは、スキーやスケートをする時も、前後左右への荷重状態、つまりは足裏感覚が重要だと言われる。そして、そういった荷重状態を決める大きな要因は、加速度吸収(サスペンション)と重心移動だとよく聞かされた(ような気がする)。

 車を走らせるときの荷重状態が前後左右に変化するというのは、直感的には理解できるようでいて、それをちゃんと説明しようとすると、結構難しいことに気づく。たとえば、台車を早く押していて、廊下の角を急いで曲がろうとすると、台車が外に倒れそうになることがよくある。それは、感覚的にはとても自然であるし、現実にも台車は外に倒れてしまう。けれど、その動きを論理立てて説明しようとすると、きちんと説明できない自分に気づくのである。

 そこで、車を(これい以上ないくらい)単純なモデルに変えて、ブレーキング時とコーナリング時に働く力、さらにはその力がサスペンションに働き、荷重状態を変える過程を図にしようと試行錯誤してみたのが、下の図である。簡単のために、前後(もしくは、左右のタイヤを90度直行した状態に固定するように繋ぐサスペンションがある、というモデルで絵を描いてみた。

 つまりは、ブレーキをかけた時に働く慣性力や、コーナリング時に働く遠心力が、90度直行する2本のサスペンションにそれぞれ分配される、というモデルである。こんな単純なモデルであると、図の右の方に書いたように、ブレーキ制動時には前輪が沈み・後輪が浮き、左コーナリング時には「右輪が沈み・左輪が浮く、ということになる。

 …が、実際にはこんな風な単純な構造の車はないので、慣性力や遠心力がどの部分にどう働き、どのような荷重状態になっているのかは、やはり今一つよくわからない。また、こういった単純なモデルでは、ロールやピッチやヨーといった、3軸回転を(全体として)表現することができない。誰か、自動車や台車スキーやスケートや…つまりは、ありとあらゆる「乗り物」の荷重状態と動きを簡単にわかりやすく単純明快に説明してはくれないものだろうか。

 「オーディオ」機器に関する説明が単純なようでいて、その説明を追いかけ・納得しようとすると難しさ極まりないように、「(趣味の車やスキーといった)スポーツ」に関する解説も、「なるほど」と納得するのは結構難しくて、落ちこぼれてしまうことが多いような気がする。

車の荷重問題








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