2004-04-18[n年前へ]
■漢字アートの安室奈美恵
AmetMultiにオマケ添付されている「漢字アート」コマンド・プログラムの使い方をメモしておきます。
使い方は、以下のようになります。出力ファイルは元Bitmapファイル名に".bmp"が付加されたものになります。ノイズ数は擬似輪郭を見えにくくするためにかけるホワイトノイズの量です。30〜10位が適当でしょうか。オマケ用に作ったものですけれども、そこそこ高画質だと思います。ちなみに、漢字の変換テーブルは「漢字で絵を描く」のものを流用しながら少し変えたものを使っています。もしも、自分で変更したかったら付属のLUT.TXTを適当にいじってみて下さい。
kanjiart.exe 元Bitmapファイル名 幅の文字数 ノイズ数
2004-05-24[n年前へ]
■若気の至り+過去の過ち
「ナニ屋さんですか?」を書いていてふと思い出したのが、ずっと昔の配属面接。
配属面接なのだから当然のごとく私はまだ若かった。そんな若かった私は思わず「バブルジェットって原理的に高画質出力は無理そうですよね。熱利用ってなんだか今ひとつダメダメですよね」とインクジェット部門のお偉いさんに言ってしまった。それから何年かした後に、エプソンがPM700を出したことをキッカケに(ただ熱を使ってないので、そういう意味では今でも同じ意見を私は持ち続けているのだが)、高画質インクジェットの時代が訪れた。今では、高画質と言えばインクジェットだ。とんだ大誤算+若気の至りである。
そして同じ頃、違う部門のやはりお偉いさんに「NEXT OSって終わってますよね。あんなとこのしかもハード部門を買う会社の気がしれないですよねー」とやはり若かった私は言ってしまった。すると、そのお偉いさんは「何言ってんだ、NEXTはこれからのOSだー」と言い放った。その時、私は「落ち目のNextをこれからのOSだなんて、こらアカン。この会社は絶対アカン」と思ったのだった。が、最近ふと気づいてみればNEXTはMacOSXとして見事にこれからのOSに変身している。これまた、とんだ大誤算+若気の至りだった。思い出すたび、自分を恥じるハズカシイ思い出話である。
そしてやはり同じ頃…、と言い出すときりがない。考えてみれば、そんな予想外のことがたくさん起こる。世の中には、良くも悪くも予想外のことばかり起こる。私のツマラナイ予想はたいていの場合、幸か不幸か外れ続けている。それが良いのか悪いのか判らないけれど、世の中は「若気の至り」と「とんだ過ち」ばっかりだ。
2004-07-31[n年前へ]
■「書き変えたベクトル」を眺めたい
先日、大阪で「電子写真の極限画質を探る」というシンポジウムがあった。プログラムには「電子写真プロセスを理論的に考える」と記載されているリコー渡邉/門永氏の講演は「電子写真プロセスを物理的に考える」という題名だった。そこには、「理論」ではなく「物理」だ、という両氏の意志があるわけだ。その「理論」→「物理」という二文字の変化の方向・ベクトルに、彼らのベースにある考えがほんの少し映し出されているわけである。
森村泰昌がマネの「フォリー・ベルジェールの酒場」の登場人物を演じることにより、「美術史の娘/劇場A」「美術史の娘/劇場B」を作成したときに、森村泰昌は「マネの絵では酒場のカウンターに手を置いているが、実際にやってみると描かれた(マネが描いた)酒場の女性の腕は極端に長くデフォルメされていた」ことに気づく。マネが腕を極端に長く事により、「白い顔・白い胸・白い腕」で形作られる力強い三角形が酒場の女性を力強い主役へと変え「その女性の力強さをマネは描いていた」のである。
結局、森村泰昌は「長く太い腕を石膏でつくり、自分の腕と握り拳で女性の胸のふくらみを語る」ことにした。マネが描いた極端に「長い腕」を「石膏の腕」に変え、「白い胸のふくらみ」を「力強い握り拳」へと変えるのが、森村泰昌が書き換えたベクトルだったことになる。それは森村泰昌が示した強い意志に他ならない。
よく、更新があったWEB日記などを見に行くと、書かれている内容は増えていないのだけれど、言葉が少し書き換えられていることがよくある。それは文章を推敲したことにより変わったのかもしれないし、何かの事情で書き換えたのかもしれないが、「変更前」→「変更後」という言葉を書き変えるベクトル・意図が書き手にあるのは確かだろう。その書き手のベクトルを眺めてみたい、とよく思う。
更新チェックをするアンテナで、更新された履歴だけでなく、言葉が書き変えられた履歴を眺めてみたい。書き手がこだわって書き変えた小さな部分を知りたい、眺めてみたいと思う。何を意識して、「元の言葉」からそれとは違う「他の言葉」へと書き換えたかを知りたい。どう「書き方」を変えたかを知り、その書き手の中に流れる「何かを書き変えたベクトル」を眺めたい、と思う。そして、その先に示されている意志を想像してみたい。
2004-12-10[n年前へ]
■ジャイアント馬場(ババ)と矢口真里(ヤグチ)が暮らす部屋
背が伸び縮みする「エイメスの部屋」
もし、壁に空いた小さな穴から光が漏れていたら迷わず覗く、それが人間だ。他人の部屋から何やら怪しげな声が聞こえれば、ドアに頭を押しつけて聞き耳をたてる。そのドアに小さな覗き穴が空いていれば、迷わず片目をつぶり、そしてもう片方の目を大きく開き穴の向こうの世界を覗く。もしも、その覗き穴の向こうが他人の家の浴室であれば、覗きの現行犯で逮捕されてしまかもしれないが、とにもかくにも覗き穴を除くのが人間なのである。「歩く好奇心」、好奇心が服を着ているのがイコール人間なのである。
そんな人間であるあなたの前に壁があり、壁の向こうには「謎の部屋」がある。そして、そのあなたと「謎の部屋」の間を遮る邪魔な壁に小さな覗き穴が空いていたら、あなたは一体どうするだろうか?そう、もちろんその穴から不思議な部屋の中のようすを覗いてみるに違いない。好奇心のかたまりとなって、その「謎の部屋」の中を眺めてみるに違いない。
というように、その「謎の部屋」を実際に覗いてみたのが下の二枚である。左は、部屋の中を覗いたようすを示すJavaアプレットであり、右はそのJavaアプレットを静止画像にしてみたものである。まずは、Javaアプレットを動かさず、ただ眺めてみることにしよう。
しかし、実はこの二人の身長は全く同じなのである。この「謎の部屋」は「エイメスの部屋(Ames room)」と呼ばれる特殊な作りになっていて(ペーパークラフトの模型の例)、部屋の中のどの場所に立っているかにより、(覗き穴の外から眺めた)身長がまるっきり違うように見えてしまうのである。部屋の左と右では実は覗き穴からの距離が違っているのだが、その距離に応じて部屋の高さを部屋の左右で変えることにより、その左右が奇妙な形状をした部屋が「覗き穴から眺めてみると」綺麗に四角い部屋に見えるのである。覗き穴の視点からの遠近感を「帳消し」にするような形状にすることで、「エイメスの部屋」を覗き穴から覗くと普通の四角い部屋にしか見えないわけである。
というわけで、「覗き穴」からは綺麗な部屋に見えるけれども、実は部屋の高さと距離が左右で違っているわけで、誰かが視点(覗き穴)から近い側(そして部屋の高さも低い)に行くと、その人は部屋に比べてひどく大きく・背が高く見える。そして、同じ人が視点(覗き穴)から遠い側(こちらの部屋の高さは高く作ってある)に行くと、その人は距離に応じて大きく作ってある部屋に比べて(その人自身は遠くにいるので小さく見える)ひどく小さくく・背が低く見える。そのため、例えば誰かが部屋をトコトコ歩いて行くようすを外から眺めていると、いきなりその人の背の高さが伸びたり縮んだりしてしまうように見える不思議な部屋「エイメスの部屋」ができあがるのだ。というわけで、上のJavaアプレットの場合は右に立っている巨大なジャイアント馬場は単に覗き穴から近いところに立っているだけで、実際には左に小さく見える矢口真里と同じ身長・同じ大きさなのである。ジャイアント馬場と矢口真里が一つ屋根の下で暮らしているわけではなく、実は同じ背格好の人間が二人立っているだけなのである。ちなみに、上のJavaアプレットは 「左クリック+マウス移動」: 物体回転 「Shit+マウス上下」: 視点移動・回転 「Ctrl+」: 「Sボタン」: 通常 → 平行法立体視 → 交差法立体視 というように動かして眺めることができるので、「エイメスの部屋」が特殊な作りになっていることがわかる。他の視点から眺めてみれば、この部屋は決して四角い普通の形ではなく、何とも奇妙な形であることが実感できることと思う。
* ちなみに、足の位置を眺めるとその距離感がつかめてしまうかもしれないが、それは単にポリゴン配置の都合でそんな風に手を抜いただけで、ちゃんと作ればそんな風には見えてしまうことはなく、巨大なジャイアント馬場と小さく可愛い矢口真里にしか見えなくなる。 「エイメスの部屋」を他の視点から眺めてしまうと、仏の四角い部屋でなく、奇妙な形状の部屋であることが判ってしまうということは、「エイメスの部屋」のトリック・魔術にひっかかるのはただ一点から眺めた場合だけなのである。違う視点に移動して、「エイメスの部屋」を覗き眺めてみれば、全然不思議でもない(ただヘンな形をした)部屋になるだけなのである。
他の視点から見た「エイメスの部屋」 視点位置(覗き穴)は右であり、(視点から見て左側に見える)手前の壁は視点から離れるほど高くなり、その一方で床は低くなっていることがわかる。 視点位置(覗き穴)は左であり、視点から見た左右がずいぶんと歪んだ形の部屋になっている。
あるいは、視点をわざわざ移動しなくても、「覗き穴」から片目でその部屋を眺めるのではなく両目でその部屋を眺めてみれば、その部屋の不思議は一瞬にして消え失せる。両目で、すなわち「二つの異なる視点から」その部屋を見るやいなや、頭の中にエイメスの部屋の真実の姿・立体形状・遠感が得られるハズである。部屋が奇妙な形をしていることや、部屋の中の人物が立っている場所がずいぶん離れていることなどを自然に感じとることができるに地がない。「エイメスの部屋Javaアプレット」で"S"ボタンを押して、立体表示させてみれば、(それまでは背の高さが違って見えた)二人が同じ背の高さに見え、単に二人の距離が近いか遠いかどうかの差だけであることがわかることと思う。
二つの目(視点から)でエイメスの部屋を眺めてみる (平行法)こんな風に、「エイメスの部屋」の中では本来同じ背丈の人が背が高く見えたりも背が低く見えたりもする。同じ人であっても、その人との距離や・その人の後ろに見える背景のせいで大きく見えたり小さく見えたりする。だから、片目をつぶり、もう片方の目だけで特殊な場所を覗いてみると「右に歩けばジャイアント馬場、左に歩けば矢口真里」なんていう魔術や幻想が生じたてしまったりするのである。 「背比べ」に絶対的な基準があるわけでもなく、「比べ」というからには、それは単に相対的な高低・大小の比較に過ぎない。となれば、こんな「エイメスの部屋」のような細工された場所、歪んだ世界を距離感を失いながら眺めてしまうと、途端にあるはずもない「ジャイアント馬場と矢口真里が暮らす部屋」が出現してしまう、というわけなのである。いや、「あるはずもない」と言ってしまうと、(今は亡き)ジャイアント馬場に失礼な話だが。
2004-12-26[n年前へ]
■スミア防止の二重撮り
カメラ付き携帯電話で写真を撮ることが多い。あるいは、デジタルカメラを使うにせよ、小さくて安いものを使うことが多い。そして、普段の生活がら、昼の南の海や夕方の西の海の景色を撮影することが多い。すると、カメラ付き携帯電話や安いデジタルカメラでは「スミア」が派手に出てしまう。青い海の上の、青い空に輝く太陽の景色が、途端に陳腐な景色に変わってしまう。
そこで、カメラを回転させて二回撮影を行い、その二枚の画像を合成することにした。例えば、(右に示す写真の左側二枚のような)二枚の写真を撮っておく(特許風に言えば、二枚に限るものではなく、むしろ三枚以上撮影した方が合成画像の画質は良くなるので好ましい)。それら二枚の写真はスミアの方向が異なるわけで、その二枚の画像を適当に合成してやればスミアの影響のない綺麗な画像ができあがる(一番右の写真)、というわけである。というわけで、そのための専用アプリケーションは適当に仕立てて、近日中にアップ予定。