2010-01-27[n年前へ]
■「フロー」と「ストック」と「豊か」ということ
塩沢修平「デフレを楽しむ熟年生活 (講談社プラスアルファ新書) 」から。
これまで説明してきたように、GDPや国民福祉指標などのフローの指標で豊かさをはかることは、適切とも言えないし、難しくもある。
ヨーロッパでは何百年も前に作られた建物や道路がいまでも立派に使われている。人々はそれらを利用して豊かに暮らしているのであるが、それらを利用してもGDPには換算されない。
あなたが今年、家を建てて、そこに住み始めたとしよう。その家の建築費は今年のGDPに含まれるが、来年以降のGDPには含まれない。建物や道路あるいは耐久消費財などは、つくられた年のGDPには含まれるが、その後は何人使われても、家賃などを除いてGDPには換算されないのである。
ただしそれらは、フローとしてではなくストックとして社会に残り、あなたが豊かな生活を送るために大きく貢献する。(中略)豊かさはフローだけではなく、ストックも考慮して比較したほうが実態に近いと思われる。
ふと、「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! (Kobunsha Paperbacks Business 17) で感じた、いくつかの疑問を思い出した。
「フローとストックというのは、作業給と能力給の違いのようなものでしょうか?」
「技術者が勉強用に本を買ったりするのも、単にモノを買う消費ということになるのでしょうか?」
2010-02-16[n年前へ]
■「オンラインゲーム内通貨」と「国際貿易」
現在多くのオンラインゲームでは RMT (Real Money Trade) と呼ばれるゲーム内の通貨やアイテムを現実世界の金銭で売買する行為が行われています。(中略)人件費が安い海外でゲーム内通貨を稼がせて、日本国内で売るとなると、事業として成立するレベルで儲かってしまうため問題が深刻になっています。オンラインとオンライン、日本国内と海外・・・ボーダーレスのようでいて、ボーダー=境界があるからこそ成り立つ現象が、何だかとても興味深く・同時に考えさせられる。
2010-02-23[n年前へ]
■南海泡沫事件で1億円失ったアイザック・ニュートンの名言
三井住友銀行コンサルティング事業部 編集・高橋 進「スローライフのマネー学―ゆっくり生きよう、しっかり殖やそう 」から。
「バブル」の語源となった「南海泡沫(サウスシー・バブル)事件」は、1720年の英国で発生しました。
…万有引力の法則を発見した天才ニュートンは、当時の株価バブルに踊って、大枚2万ポンド(現在の1億円に相当)を失っているのです。
ニュートンは、暴落以前に一度は投資から手を引いたのですが、バブルに踊る大衆の熱気にあおられて、再度買いに走って大失敗。
「私は物体の運動は測定できるが、人間の愚行を測定することはできない」という名文句を後世に残しました。
「南海泡沫(サウスシー・バブル)事件」とニュートン・ラグランジェといった科学者がいた時代背景を一目で確認してみたい人は、「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! (Kobunsha Paperbacks Business 17) 」の巻末1を見ると良いかもしれません。
2010-06-05[n年前へ]
■リスクを背負いつつその可能性に賭けることができる人たち
川合史朗さんが、「選ばなかった人」の物語(「選ばなかった道」)に続き、その逆の場合、ある「選んだ人」のことについて書かれていました(「選べる人が選べばいい」)。
でも正直に言って、自分が食えるかどうかという不安など、「従業員に来月の給料を払えるかどうか」という不安に比べたら、吹けば飛ぶような悩みにすぎない。その点で、私は人を雇って事業をしている人は尊敬している。
「このチャンスに乗ることを選んだら大変な思いをして、きっと選んだことを後悔する。けれども、選ばなかったらもっと後悔するだろう。」
そう心底思える人だけが、選べば良いのだと思う。
ふと、以前考えたこと、経済学者の栗田啓子先生に話を聞きに行った時に手帳に記した内容を思い出しました。その内容をもとに、書籍用のコラムに変えたものの下書きを引用すると、このようになります。
「賭けることができる人」が経済を動かしてるここで登場するリチャード・カンティロンは、18世紀に生き、放火事件で亡くなり、召使に殺されたとも言われている人です。
「経済学88物語 」(根井雅弘 編)で栗田先生がカンティロンの著作「商業試論」を紹介されています。読んでみて、とても興味を惹かれたのが「市場の動きとなる企業者(アントレプレナー)の本質は、不確実な利益のチャンスを選択するということだ」という内容の部分でした。
”成功するかどうかわからないチャンスに賭けて、そこに向かって走り出すことができる人たちが、企業者であり・経済の市場メカニズムを動かし続けている軸なんだ”という280年も前に書かれた言葉は、今の時代をも、やはり的確に表現しているように思います。
いろいろな技術分野で、確実ではない可能性があるときに、リスクを背負いつつその可能性に賭けることができる人たちが社会を回し続けているのかもしれない、となぜか納得したのです。
「アントレプレナー」の訳語としては、「企業者」という言葉を使う人が多いようです。本来、意味が同じで、発音も同じである「企業者」と「起業者」ですが、経済学素人の私には少し違う言葉に見えてしまいます。
「自ら会社を興し、新たに事業を手がける人」(Wikipedia)というアントレプレナーの意味を考えると、「起業者」という言葉の方がふさわしいようにも思えます。 私のような経済学素人には、歴史の中の「企業者」という言葉は「起業者」と置き換えながら考えた方が、わかりやすいのかもしれません。
コラム以外の部分では、アントレプレナーの訳語としては、(翻訳語句が作られた)歴史的な背景もあり、企業者という語句を使いましたが、私は「起業」者という言葉の方が今でも「わかりやすい」と感じています。
だから、企業者という言葉を起業者と置き換えて、もう一度、その前半の言葉を書き写してみることにします。
”成功するかどうかわからないチャンスに賭けて、そこに向かって走り出すことができる人たちが、起業者という存在であり、その起業者が、経済の市場メカニズムを動かし始める軸なんだ。”
2011-01-19[n年前へ]
■戦場で写るもの・写すもの・写らないもの
旅先でテレビをつけると、何度眺めても、いつも私の心をくすぐる、魅力的な戦場カメラマンが出ていました。そして、こんなような言葉を言っていたような気がします。
「戦争で得をする人が必ずいるんです。戦場で、ファインダーをのぞき、それを見つけ出すことが大切だと、私は感じています」
わかりやすい言葉です。けれど、少し「わかりやすぎる」言葉にも思えます。だから、その言葉をきっかけに、なぜかずいぶん長いこと考え込んでしまいました。
戦場に立ち目の前に広がるものを眺めたとき、そこに写る人がいれば、その人々はほとんどが戦争で損ばかりををする人ではないか、という気がします。そして、それと同時に、競馬場でレースを眺める人たちのように、そこに立つ人の中にはは得をする可能性もあるけれど、悲しいくらいの損をする可能性も高いという人も多いのではないか、などと考えさせられtのです。
もしかしたら、「戦争で得をする人」という存在があれば、それは戦場で覗くファインダーには写らないのではなかろうか、という気もします。そういう存在こそが、そういう存在を指向することこそが、「戦争で得をする存在」なのではないか、などとと感じたのです。
(病室に横たわる)夏目雅子の顔を撮れない奴は、戦場で死体の顔だって撮れねえんだよ。病院の壁を乗り越えられねえ奴が、どうして戦場の鉄条網を越えられるんだよ。倒れて行く兵士たちの顔を、正面から撮るんだぞ。
野田秀樹 「20世紀最後の戯曲集 」
ファインダーにはたくさんのものたちが写ります。それと同時に、写らない「人やもの」もたくさんあるのかもしれません。私たちは、戦場に向けられたファインダーに写る存在でしょうか。それとも、写らないものを指向する存在でしょうか。
しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。日本の最高裁判所にある「正義」の像は目隠しをしていない。
彼女は、誰を天秤に乗せ、誰に対して剣を振るわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない - そうする自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら」
白倉伸一郎 「ヒーローと正義 (寺子屋新書) 」