hirax.net::Keywords::「青春」のブログ



2009-12-09[n年前へ]

「結局は、自分のためにやってきたんです」 

 山際淳司「スローカーブを、もう一球 (角川文庫) 」の「たった一人のオリンピック」から。

 そして時が流れた。二十代の後半を、彼はボートとともにすごしてきてしまったわけだった。ほかのことに見向きもせずにだ。オリンピックに出るという、そのことだけを考えながら、である。
 決算はついたのだろうか。彼が費やした青春時代という時間の中から果実は生み出されたのだろうか。一つのことに賭けたのだから、彼の青春はそれなりに美しかったのだ、などとは言えないだろう。
「結局は、自分のためにやってきたんです」
 津田真男は、現在、ある電気メーカーに勤めている。ボートはやっていない。

2010-01-16[n年前へ]

ルートを外して、色んなものを眺めてみたい (初出:2005年09月15日) 

 昨年の春頃、青春18切符のポスターがJRの駅構内に張られていました。もちろん、今でも(青春18切符が販売される)そのシーズン毎のポスターが貼ってあるわけですけれど、特にその時のポスターが好きでした。正確に言えば、そのポスターに書いてあった

√a = 18

旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。

という「小さな数式とその解説」が大好きだったのです。単純な数式と洒落た遊び心に、旅をする時の気持ちがこもっているように感じ、不思議なくらい心を惹かれたのです。

 しばらくしてから、そのポスターの数式とコピーに対する「この数式は、普通にa=324という答が出てしまいます」という指摘をどこかで読みました。その文章を読んで、「確かに、それは確かにそうだよなぁ」と思いつつも、私はふと屁理屈を書いてしまいました。…それは、こんなコジツケた屁理屈です。

 この数式で使われている"="は、いわゆる等号"= ="ではなくて、代入の"="かもしれません。つまり、この数式は「√a が 18 と等しい」ということを言わんとしているのではなく、「√aというものは全て18が代入される」という手順・代入式を意味しているということを意味しているのかもしれません。
 つまり、実はこの式は、方程式ではなく、"√"という関数(もしくは演算子)を定義する式なのではないでしょうか。
 …すると、この式は「"Root"をとると、どんなaを入力してみても、いつでも18になる」という意味になります。それを、さらに素直に言い換えるならば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。
 この式は、そういった「誰であっても18歳の頃に戻してしまう」ようなものが「旅路(Route)」なんだ、と高らかに定義・宣言する数式なのかもしれないと思いました。

 そして、さらにその数式から、さらに、「人のルート(Root=根底にあるもの)は、そんな18才の頃のようなものだよね」という強い意思を想像したのです。青春18切符のポスターに書かれた小さな式は、「旅は人を18歳の頃の気分にさせる。そして、それこそが - 人の根底- にあるものなのだ」と、そう伝えようとする言葉だと勝手に想像してみたのです。

 青春18切符の公式から"a=324"なんてなんだか当たり前の答を導いてしまうのは少しツマラナイ話です。もっと色んな答えを想像してみるのもきっと面白いと思います。

 そしてまた、例えば自分(や他人)のつまらない考えに沿った「決まり切った道(Route)」の上だけを走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少し良いのかもしれません。 …あなたが「外したいと思ったことがあるルート」「外れたルート」「外したルート」は、どんなものでしょうか?

2010-01-26[n年前へ]

知らないことは知らないと言おう。 

 太宰治の(「パンドラの匣」と「正義と微笑」が収録されている)「パンドラの匣 (新潮文庫) 」のAmazonレビューから。

 世にある(太宰治)のイメージは、「人間失格」や「桜桃」の虚無的な人なのでしょうが、太宰は意外に軽みと明るさのある人であったな、と、大人になった今は思います。
 私が始めて読んだ太宰は「正義と微笑」でした。前向きな、爽やかな青年の姿がかかれています。しかし、その底流には、病気と闘っていたり、繊細な心で色々なことを考えたりするといった、陰の部分もあるわけです。
 この小説を読むと、何かと戦いながら、軽やかな明るさをつかんでいく青春の姿を感じます。それは、まるで夜明けの寂しい明るさのようです。けれど、そこには(ほのかな)希望の光が見えます。

 「正義と微笑」の冒頭と最後を抜き出してみる。

 ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。

 「正義と微笑」の冒頭節から
 まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。
 僕は、来年、十八歳。

 「正義と微笑」の最終節から

2010-08-09[n年前へ]

「"青春"という名のついた切符」の意味 

旅少女」から。

 大学を卒業してこの切符を使うことのなくなった頃、このポスターを駅で見かけたことを覚えている。使いたいと思いながら、使う時間の無くなった自分を思い、青春という名のついた切符の意味を知った。
 東京駅23時35分発、大垣行きの夜行列車は、夏休みの旅をする若者たちで一杯だった。なかなか辿り着かない目的地。ウトウトとしか眠れない硬い座席。
 あれからもう12年も経つのかと想うと懐かしい。確かに、あの頃、自分の可能性を色々と夢見ていたような気がする。
 夢は大人になって実現したのだろうか。夢はいつも現実と仲が悪い。

2011-08-05[n年前へ]

”青春そのもの”だった「ぴあ」の最終号 

 39年、39歳になっていた「ぴあ」の最終号」東京では「ぴあ」を買い、関西では「Lマガ(Lmagazine)」(2008年末に休刊)を買っていた…けれど、そのどちらもがもうなくなった…と。何というか、サヨナラだけが人生だ。

 学食で昼を食べながら、「ぴあ」を片手にその週の予定をたてていました。上京したての1年生のうちは、一人で寂しく。そのうちそれはサークル仲間でつるむ目的だったり、彼女とのデート目的だったり・・・完全に、自分にとっての「青春そのもの」でした。
 編集部からのコメント:作り手にとっても、ぴあは「青春そのもの」でした。



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