2008-07-30[n年前へ]
■「道具」と「文化」
「道具」は「文化」の要素の一つだ。しかも、それは比較的大きな要素である。「2001年宇宙の旅」で棒という道具を手にした猿が、その棒をついには宇宙ステーションという道具に変えたシーンが象徴的であるように、道具は人の生活スタイルに大きな影響を与え、そしてその生活スタイルは考え方・感じ方にさらに大きな影響を与える。つまり、道具は文化に影響を与える。
「フレームワークと異文化論」が面白い。
「Railsって一本道のイメージなんでしょうか。これにそって作ればWebアプリケーションが不安定にならずに完成するんでしょうか」
「私にとって“レイルズ”のイメージはこれなんです」といいながら、東京近郊の複雑な路線図を大写しにすると、会場は大爆笑に包まれた。
この会場に来るためにどの路線を使ったら良いのかを考えたときに、さまざまな選択肢があったと思います。……そんなにレイルに縛られなくてもいいんじゃないでしょうかp>
「線路」と「人生の方程式」ではないけれど、レール(線路)なんか一本じゃないし、だいたい設計した線路は実際の線路とは全然違ったりする。それが人生ではとても普通のよくあることで、それが大変さでもあるし、楽しさでもある。
多少なりとも他の文化を知らないと、ひとつの文化の姿を実感することはできない。他のものとの差異を見て、初めて自身の特徴が見えてきたりするからだ。道具の特徴を知るためには他の道具を知ることが役立ち、道具が文化に強く影響を与えるのだとしたら、そして文化が人の生活そのものだとしたら、(一つの道具を使えるようになった上で)他の道具を眺めてみることは、人の生活に大きな影響・大きな広がりを与えるに違いない。
2009-05-23[n年前へ]
■「若さ」と「老い」と
「新しい衣服衛生 」より。
人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。
人は自信とともに若く、恐怖とともに老いる。
希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。
サミュエル・ウルマン「青春」
この一説の前段。
青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた想像力、逞しき意思、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねだけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑や不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂を芥(かい)に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。 曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰(せいしん)、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)、事に処する剛毅(ごうき)な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
2009-06-15[n年前へ]
■青春の富士樹海「麻雀大会」
「富士の樹海の真ん中で、徹夜麻雀をしませんか?」と言われた。残念なことに、あるいは幸運なことに、麻雀のルールを知らないことに加え、その日予定があったために、「魅力的だけど不参加で」と答えた。
最初は、富士山頂で麻雀大会をしようとしたが、この季節にはまだまだ無理だということで、開催場所を富士樹海に変更したのだという。その無鉄砲さ、そんなくだらないことを考えて、実行に移せる行動力を、そしてそれを楽しむことができる感性を本当に羨ましく思う。
幅広い心を
くだらないアイデアを
軽く笑えるユーモアを
うまくやり抜く賢さを
眠らない体を
すべて欲しがる欲望を
富士樹海中の麻雀大会が開催された後、「どうだった?」と聞いたら、彼らはこう答えた。
- 樹海中で磁石が役に立たないというのは都市伝説だった
- 6時間歩いて、6kmしか進めなかった
- 道を見失わないように張ったらしきヒモがとても景観を汚くしていた
- 樹海中にいきなり普通の家(道場)があった
- 樹海中でいきなりさまよっている人に出会ったから、麻雀のメンツを現場調達するのも簡単にできそうだった
- Docomoのケータイは樹海中でも使えたが、auは遊歩道でしか使えなかった。ソフトバンクは遊歩道ですら使えなかった。
- エトセトラ・エトセトラ…
僕らの自由を
僕らの青春を
大げさに言うのならば
きっとそう言う事なんだろう
2009-07-16[n年前へ]
■小説ウルフルズ 青春というのなら
9月4日発売の「小説ウルフルズ 青春というのなら」
つい先日、活動休止を発表したウルフルズ。そのオリジナル・メンバーであり、一度脱退後に復帰を果たした“問題のベーシスト”ことジョン・B・チョッパーが書き上げたバンド・ストーリー。ウルフルズという人気バンドを舞台に、初心者としてバンドに加わって以来、“トータス松本”という才能と闘い続けた男、ジョン・B・チョッパーが綴る、魂の青春物語です。また、バンド関係者30人以上への取材を元に構成したノンフィクション『芸の花道』や、活動休止発表後のメンバー最新インタビューも特別収録!
2009-10-31[n年前へ]
■「マンハッタン距離」と「続 理系風デート」
万城目学のエッセイ集「ザ・万歩計 」のこんな一節を読んだ。
京都の生活には、自転車がよく似合う。いわゆる京都市内、つまり、山あり谷ありではない市内を移動するには、確かに自転車が一番適している。周辺部以外には、曲がりくねった道はなくて、道はすべて真っ直ぐ東<->西か南<->北方向に走っている。だから、どこに向かうにもただ、目的の方向に進み・曲がればいいだけだ。
出発地から目的地まで行くのにかかる時間を見積もる、つまり、出発地から目的地まで行く経路の距離を計算するのだって、とても簡単だ。上に書いたように、平安京の時代からある京都市内中央部は、碁盤の目状に道が配置されている。だから、経路の距離は「マンハッタン距離」で計算することができる。東京の街中なら、不定形の道に沿って線積分する必要があるだろうし、野原の真ん中なら…少しは単純だけれど「ユークリッド距離」を計算するために平方根(ルート)を計算してやらなければいけない。そんな計算は面倒だ。しかし、京都市内は違う。
「京都市内の距離空間はマンハッタン距離で計算できるのがいいね」といった、自転車に乗りながらの理系風会話が日常的にしやすい。もちろん、「マンハッタン」距離なんていう一見オシャレに響く言葉を使っているので、理系風デートで使えなくもないフレーズである。
「目的地までの東西距離と南北距離を足すだけでいいから、計算が簡単でいいよね」
「どの平方根…じゃなかった、ルートでも距離は同じだしね」
しかし、その後に、こういうウンチクを口にし始めてしまったりすると、しかもそれが「理系風デート」ならその時点で「終了」していまうことが多い。
あれ?マンハッタン距離を考えたヘルマン・ミンコフスキーって、機動戦士ガンダムのミノフスキー粒子と関係あるのかな?これで会話が続いたら、単なるガンダムおたくである。まさに、「若さゆえの過ち」「ぼうやだからさ」状態である。
…とにかく、京都の町には自転車が良く似合う。先の万城目学のエッセイ「都大路で立ちこいで」でも、最後の一文はこう終わる。
自転車で京都を走ることが掛け値なしに楽しい、ってことだけは、本当なのだ。京都の町に行くのなら、自転車を借りて市内を散策するのが一番いいと思う。紅葉間近のこの季節、天気の良い日なら、乗りやすいマウンテンバイクでも借りて、体育会風に(できれば2,3日かけて)京都を一周してみるのもいいと思う。それがたとえ、1日だけでも、やはり自転車で京都を走ってみたならば、バスや列車で街を離散的に巡るよりも、ずっと素晴らしく連続的な京都の街を知り・同時に楽しめると思う。
「理系」と「文系」と言った話より、「頭」と「体」とか、「情緒/心/感情」と「論理」といったことの方に、今は魅力と確かさを感じる。自転車で巡る京都の町の魅力はは、少なくとも「体」と「情緒/感情/心」といった辺りの中心部を貫くと思う。