hirax.net::Keywords::「DNA」のブログ



2007-09-11[n年前へ]

新陳代謝と海面を歩く 

 「ソースティン・ヴェブレンというアメリカの経済学者」を知ったのは、つい最近だ。ヘアカタログを題材にしたプログラムを書くために、グラント・マクラッケンが書いた「ヘア・カルチャー(もうひとつの女性文化論)」を読んでいるときに、そのソースティン・ヴェブレンという名前に出会った。

 ブログと呼ばれる個人サイトでも、昔見たネタが少しの時間をおいて流行ることが多いように見えます。古くから眺めている人にとって見れば、飽き飽きしたネタが繰り返し流行ることがよくあります。
 この本の原題は、"Big Hair (A jouney into the transformation of self)"だ。
 夕暮れ近くの海を自転車で巡る。潮が満ちてきて、防波堤が海に沈む。防波堤の上を歩いていく人がいる。防波堤はずっと波に洗われているから、その人はまるで波の上を歩いているように見える。
 その原題にも入っている"Big Hair"に関する章の中に、"代理消費"ヴェブレンがいた。黒柳徹子や横浜銀蠅や、ツッパリ・ハイスクール・ロックンロールたちの源流が解説される中で、ヴェブレンの姿を見かけた。
 今まさに誰かが傷んでいるまだ飛べない雛たちみたいに僕はこの非力を嘆いている
 どんなミステリーも、どんな構造物も、すべては螺旋階段のようだ、とある時に聞いた。何度も同じような景色を、けれど少しづつ違うところから眺めていくものだ、と聞いた。
 一年の周期で、技術雑誌が同じような特集記事を繰り返す。どの雑誌でも5月号は必ず「新人フレッシャーズのための」という特集を組み、それから少し時を経た2月号辺では、画像関係の特集を組む。「学研の科学と学習」が、毎年同じような特集を繰り返すのと同じだ。
 それは、ウンベルト・エーコが書いたバラの名前を輪講で読んでいる時だったか、レイモンド・カーバーを読んでいるときだったか、そんな教室で聞いた言葉だった気がする。
 不思議だけれど、「海面を歩くこと」が当たり前のように見える場所もある。
 グルグル回る螺旋階段のように、技術雑誌は一年周期で、必ず同じような特集記事を繰り返す。それは、絵に描いたような「何度も同じような景色を、少しづつ違うところから眺める」というビューティフル・ドリーマーな景色だ。
「会社にはメカ・ソフト・電気の三人がいれば十分です」
 三人編成のバンドっていいな、と良く思う。見た目のバランスもいいし、音もなかなか飽きない。
 雑誌の読者層は入れ替わっていきますから、毎年同じ特集を繰り返しても、「読者にはいつも新鮮な記事」になります。そう思わない古い読者は、いずれ読者ではなくなるのです。
 色んな人たちがいる。朝顔の蔓のように、DNAが形作る螺旋階段を時をおいて昇る色んな人がいる。
 バーベキューをしている人もいるし、パラグライダーで空に浮いている人もいる。走っている人もいて、スケートで滑っている人もいる。 そして、海辺でゴルフをしている人もいる。
 海の水面を歩く人もいるし、月面を歩く人もいる。仕事が終わらなくて唸っている人もいる。
 しかし、それを技術雑誌の特集記事のように新陳代謝に対応するためだと考えてみれば、少し面白いような気がします。
 そう思わない古い読者は、いずれ読者ではなくなるのです。

2007-09-27[n年前へ]

ジェスチャーゲーム 

 外国文化の学習用に、ジェスチャーゲームをやった。出題された「単語」を次の人にジェスチャーで伝える、という仮題のゲームだ。"DNA"とか"Acid"が出題された時は、頭がまっ白になった覚えがある。
「あまりに複雑なものは、言葉で説明する方が楽だ」
 しかし、驚いたのは、"DNA"を次の人に伝えた人がいたことだ。
「できるはずだ」ということと、動くものを示して「ほらどうだ」ということの間には、天と地ほどの差がある。
「喋れない言葉」は聞こえない「喋れる言葉」は「音が消えていても」聞こえるようになる
 「喋れない言葉」は聞こえない。そして、「喋れる言葉」は音が消えていても、ちゃんと聞こえる。これは、不思議なくらい本当だ。
 急に寒くなった。もう冬がすぐそこにある。
 "DNA"を知っている人が相手なら、言葉でなくてジェスチャーでもきちんと"DNA"を思い浮かべさせることができる。DNAという言葉を喋れる人になら、その言葉の音が消えていても、ちゃんと伝えることができる。
今の仕事をきちんとこなしていく、それに尽きるなあ、なんて感じています。それがどんな地味な、力作業のような仕事であっても、です。だって今の私にできる、それがベストですもの。

2008-05-20[n年前へ]

「ネイティブ言語」の意外性 

 「DAPDNA」は、IP Flexダイナミック・リコンフィギュラブル・プロセッサ「DAPDNA」だ。ダイナミック・リコンフィギュラブル(動的再構成)技術、つまり、チップの処理内容をns(ナノ秒)単位で切替えることで、多種機能を自由度高く比較的小規模なチップで実現することができるチップである。

 私は去年、日本ですごい異世界を発見してしまいました。手話です。ネーティブの人、つまり「ろう者」の先生から直接手話を習っているんです。福祉に目覚めたわけでは全然なく、それが言語だと知ったからなんです。
  高野秀行

 このDAPDNAの統合開発環境には2種類ある。一つは、C言語のような「高級言語」を使う DFC Compiler で、もう一つが演算器をドラッグ・アンド・ドロップで繫げるGUI 形式の開発環境 DNA Designer だ。

 DAPDNAの紹介文書を眺めていると、”DFC Compiler ではC(風)言語で手軽・簡単に記述することができます””DNA DesignerはGUIを使った開発環境で、ハードウェアの能力を最大限に活用した細かなチューニングをすることができます”というようなことが書いてあった。一瞬、「おやっ?」と不思議に感じた。「C言語なら簡単・手軽で、GUIプログラミングではハードウェアの能力を活かしきるチューニングが可能だ」というフレーズに意外性を感じた。たとえば、「Windowsのアプリケーションを作るのに、APIゴリゴリのプログラミングより、GUI開発環境でプログラミングする方が、チューニングできる」と聞いて、「あれっ?」と感じるような意外性を感じたのである。

 言語が違うということは世界の見え方が違うということです。

  高野秀行

 しかし、これは少し考えれば当然のことだ。行いたい処理を、「C言語」で記述した内容から演算器群を用いて自動生成するのと、演算器を回路図として記述するのでは、後者の方が「ハードウェアの能力を最大限に活用した細かなチューニングをすることができる」のは当たり前である。GUI開発環境上でドラッグ・アンド・ドロップされ、それらの繋がりが描かれた演算器群こそが、こういったチップの動きを一番素直に記述する「ネイティブ言語」なのである。並列化が進んだシステム上で動くものを作るときには、GUI言語こそがネイティブ言語と言えるのかもしれない。

 手話も、手話ネーティブもほんとに面白い。福祉の話題にしておくのはもったいなさすぎます。こんなに文字かなところに異世界があるんだから、一人でも多くの人に楽しんでほしい。

  高野秀行

CGUICIRCUIT






2008-06-15[n年前へ]

あなたから見た「異性」と「チンパンジー」 

 人の遺伝情報を担うのが染色体で、人は46本の染色体を持っている。一本の染色体は、さらに数多くの遺伝子から形成され、遺伝子はさらに数多くの塩基から形成されている。人はおおよそ2万7千個の遺伝子を持ち、それを塩基数にすると、全部でおおよそ33億弱ほどになる。こういった物質が人の遺伝情報を保持し・形作ることになる。

 46本ある染色体のうち、「男」と「女」(あるいは「女」と「男」)はそのうちの一本が違う。男と女で違う染色体が持つ遺伝子の数は、78個で、塩基数にすると5100個になる。だから、たとえば、「男」と「女」の間で違う塩基数を数えてみると、は遺伝子数で5100個/33億個=1.6%の遺伝子情報の違いがあることになる。

 ところで、人類とチンパンジーの染色体間で違う「塩基数」はおおよそ5.3%ほどだ、という話がある。ということは、あなたと「(あなたから見た)異性」の間の遺伝情報の違いは1.6%で、あなたと「チンパンジー」の間の遺伝情報の違いは5.3%ほどになる、ということになる。

 だから、あなたが「異性」との間で「違い」「違和感」を感じた時などは、「あなたと異性の違い」は「あなたとチンパンジーの違い」の1/3くらいにも相当する、と考えてみると楽しくなるかもしれない。つまり、目の前にいるのは「人間っぽいチンパンジー」だと考えてみるのである(それを逆にいえば、あなたが「相手」よりもチンパンジー寄りだというように捉えることもできる)。そうすると、相手が何だか可愛く思えてきたりもするかもしれない。そんな妄想をしてみるのも一興だと思う。

 ところで、1.6%や5.3%という違いは、塩基で数えたものである。もしも、違う「遺伝子」の数で計算すると、あなたと異性の違いは0.3%しかなく、あなたとチンパンジーの違いは83.1%にも達する。ここまで(違いの)比率が違うと、相手を「人間っぽいチンパンジー」だと考えるのは無理があるように思えてくる。もちろん、それは、当たり前の話であるような気もするけれど。

あなたから見た「異性」と「チンパンジー」






2008-09-14[n年前へ]

理系ファッションはなぜ「ジーンズ+Tシャツ+ボタン全開シャツ」なのか? 

 長年の疑問のトップ1に君臨し続けているのが、理系ファッションはなぜ「ジーンズ+Tシャツ+ボタン全開シャツ」なのか?…ということです。私自身、「ジーンズ+Tシャツ+ボタン全開シャツ」というファッションをしていることも多いのですが、なぜ理系人間がそういったファッションをすることが多いのか、よくわからないままなのです。

 右の写真のような眩しい大学生たちが溢れるピッツバーグ大学のキャンパスの隣には、テクノロジーやアートの印象が強いカーネギーメロン大学があります。こっちのキャンパスがどういう感じかというと、山在り谷在り(というより谷在り谷在り)の東工大のキャンパスによく似ています。東工大のキャンパスを大きくしたら区別がつかないかも、と思うくらいです。

 そのキャンパスを歩いているのは、もちろん「ジーンズ+Tシャツ+ボタン全開シャツ」の人ばかりです。そして、その「Tシャツやワイシャツ」は、黒や暗いくすんだ色が多く、ビビッドな色のものを着ている人はほとんどいません。つまり、秋葉原にいる人たちに投網をかけて、網にかかった人たちをゴッソリ東工大キャンパスに放牧した感じ、です。…ひとことで言ってしまえば、たぶん、東工大キャンパスそのままと区別がつかないように思えます。

 一体、なぜ理系ファッションは「ジーンズ+Tシャツ+ボタン全開シャツ」でくすんだ暗い色が多いのだろう?といつも首をかしげます。自分自身、そんな服を着ているのに、なんでいつもこんなファッションで身を包んでいるんだっけ?とふと不思議に思ったりします。一体、この理系ファッションのDNAはどういう具合に発現しているのでしょうか…?

キャンパスキャンパス








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