2007-07-12[n年前へ]
■人の動きと最適化
from n年前へ.
目には映りにくい「働く人の間のつながりといった社会的な価値あるもの」も、高い株価というカタチできちんとその価値が目に見えるモノにされているんだ
12年経つと21世紀がやってきます。世界はより支え合わなければ生きていけない時代であります。「3年B組金八先生」 第3シリーズ 12話(1988)
MITの最初のハッカー達の書いたプログラムは、その言語なんか関係なく、とにかく完全で、美しいものだったんだ。努力に努力を重ねて뒰ꓢ믅뻥꒲꒿꒵ꆣ쎯꒬뢫꓆ꓢꆢそれ以上改善する余地はまったくないほどにね柴田 ただ、あまりにも短く最適化してしまうと、人がそれを見たときに理解しにくいという難点がありますよね それはそうだよ。でも、それを理解しようとする努力は、必ず報われるんだよ。努力して理解できるようになったときに、何かを学ぶことができるんだ。だから、コインには2つの面があるということさSteve Wozniak
いつもより多くの「いろんな気持ち」が水に変わる。もしかしたらそれは数ミリグラムだけしか多くないかもしれないけれど、いつもより気持ちがほんの少しは軽くなるのかもしれない。 14ミリグラムの「いろんな気持ち」
晴れの日に野外で上を仰ぎ見た時、無限に続いて見える、広い空間。 新明解国語辞典「大空」
人が上手く動けないほど、「震源地ゲーム」は面白い。逆に言えば、-震源地-から全く同じように動きが伝わる世界なんてつまらない。コピー&ペーストのように、何も変わらないまま動いていくそんなものは少しつまらない。 誰かが無意識に動いて、その無意識の動きの中に違う何かを他の誰かが見いだして、そしていつの間にか時間をかけて何か不思議な波が伝わっていく、そんな世界の方がきっと面白いと思う。 震源地ゲーム
2007-09-12[n年前へ]
■「理系」と「希望」
『理系ってどういう人かなぁ?』って聞いたらずっと海を眺めている人の荷物に目がいく。ビニール袋と紙袋をまとめ、その荷物の近くで海を眺めてる。紙袋の一番上にはくまのぬいぐるみが入ってる。
最終回の仮題は「希望」です。これまで「満足・価値・魅力・選択肢・感情・技術革新」といったことを聞いてきたつもりですが、その最後は、やはり「希望」です。希望という文字を見ると、いつも「希ガス…」という変な文末が目に浮かぶ。もう少し言い換えれば、いつも「希ガス…」という変な文末を連想するような「気がする」…。
ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。迷うの語源を検索すると、迷う=真酔うだと書いてある。そして、「迷える者は、道を訊かない」という言葉を読む。
科学者たちは魂の力も電気や磁力とおんなじようなものであるという、まことしとやかなおとぎばなしをつくります。どんな道でも人は途中で必ず迷い、そして、迷える者は道を訊かないのだとしたら、道を聞こうとする人は道に迷っていない人で、地を聞かない人は迷っている人だということなのだろうか。それとも、単にその瞬間に迷っていない人だということなのだろうか。
大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。そんな論理を考えようとしても、わからないことばかりだ。迷える者は道を訊かないという論理と同じフレイズを繰り返すなら、わからない時には人は訊くことをしないのだろうか。
海辺には色んな人たちが住んでいる。松林の中に場所を作っている人もいるし、廃車を家にしている人もいる。この小さな町は、それでも人に優しい。雨をしのぐことができる「私有地でない場所」から人を排除することはない。人が日々を過ごす場所から、その人を移動させることもない。
どちらに進んで行けば良いのか、わからない時がきっとあるだろう。年が明けようとする頃、週末、一日二度見ていた人が亡くなった。何年も見つ続けた景色、何年もとり続けた景色、何年も「今日見た景色」として針続けた景色の中で人が亡くなった。
十五で世の中をわかっちまったようなヤツラから見れば 馬鹿げた話さ
それが、最良のキャリア教育であると、私は信じている。
2007-09-14[n年前へ]
■「モーレツ科学教室」と「MatLab」
「キーワード」を介して繋がっているものは多い。そんなものを眺めながら、「そういうものではなくて、こういうものを作りたいな」と思うイメージが、今もまだ満たされていない。
最近、越前屋俵太の「モーレツ科学教室」のDVDを出張帰りに新幹線の中で観ている。京都にいた頃、時折、日本海に行った。といっても、京都は日本海に面してるのだから、県の中を「ちょっとそこまで」移動した、という程度のことに過ぎない。その途中の辺りに、越前屋俵太が住んでいるという。越前屋俵太の「モーレツ科学教室」は本当に面白い。これを小さな頃に観ていたら、きっと科学が何の根拠もなく好きになっていたに違いない。
MathematicaのプログラムをMatlabに変換する作業とビールのテイスティングを深夜まで。MatLabの拡張コードの勉強をする。数年わからなかったことが、今日この瞬間にわかる。いや、わかったような気になる。きっと、本当はわかってない。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。私のMatLabのイメージは、「綺麗な未来の計画でなくて、汚い現実の机の上」という感じだ。「趣味」でなく「仕事」という感じだ。新しさや夢はないけれど、着実に仕事をこなす。そんな、感じだ。
MathematicaやMatlabと、Photoshopを繋ぐインターフェースがあればなぁ。そう思うなら、思った時に作れば良かったんだな、と思う。価値を感じるものに、時間を使ってみれば良かったのにな、と思う。だから、作らなきゃ、と思う。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。
2007-10-24[n年前へ]
■hirax.net on Rails!
先週末から、"hirax.net/dekirukana*"と"hirax.net/diaryweb"を統合するRailsアプリを書き始めました。今週末には、プロトタイプを動かし始めることができそうです。HTMLファイル群やTYPOやHNSを一つのアプリ上のコンテンツとして合体・稼働させるつもりです。
今年の夏はRailsにハマり、「画像処理」「Wikipediaやはてなのキーワードが得意としない女性向けジャンルのWIKI」「コトバでなく曖昧な価値観やイメージ」なんていうおぼろげな感じを形にしてみたいとふと考えて、頭のエクササイズも兼ねて、「Make up Award! "Keywords"」や「Make up Award! on Rails "Image"」なんていうものを作っていました。…というわけで、「コトバやイメージ」がお題のWEBアプリ「Make up Award! "Keywords"」と「Make up Award! on Rails "Image"」をリリースしてみます。そんなガラクタなどで適当に楽しんで頂けたら、うれしいです。
2007-12-12[n年前へ]
■「付加価値」と「ベクトル」と「スカラー」
「付加価値」という言葉が、少し不思議だった。"Added Value"という言葉だけを聞けば、それは、「足された値」という音として響く。それは、つまり、単なる「足された値」=「差分」という言葉として、頭の中に届く。
しかし、それを「付加価値」という言葉として聞いた途端に、なぜか「グリコのおまけ」のように、「本来の目的とは違う、違うベクトルの何か」に思えてしまう。そんな「印象」は一体どこからくるのだろうか。
そんなことを考えたとき、「付加」という言葉、「付け加える」という言葉の「付」という音に、「本来のベクトルとは違う向きのものを付ける」という意味を感じてしまうのかもしれない、と気づいた。さらに、「価値」という言葉に、私が「ベクトル」すなわち「方向(趣向)性=価値観」を感じている、ということにも気がついた。それは、私の中の"value"=「価値」は、値=スカラーではなく、何らかの「軸」を伴ったベクトルだ、ということである。決して単なる"value"=値、ではないようだ。
「付加価値」という言葉を聞くときに、「本来の目的とは違う、違うベクトル」を感じる理由は、一つのことが原因というわけではないようだ。「付加」の「付」、単なる「値」ではない「価値」の部分、そんな色々が組み合わさって、"Added Value"ではない、"付加価値"を感じているような気がする。