2006-03-25[n年前へ]
■「こんな人になりたい」
森山和道 氏の日記を読みに行き、そこで父の名前に出会う。実に親不孝な息子を持ったわけだが、元気にしているのだろうか。ふと、父が書いた「こんな人になりたい」という一節を読んで、考え込んでしまう。
こんな人になりたい。
1. 心が卑しくないこと
2. 優しく広い心を持つこと
3. 日本語がしっかり話せること
4. 他人がいやだと思うことをしないこと
5. 静かであること
6. 自分で考えること
そして楽しくあること
2006-04-09[n年前へ]
■「春の海」と「春の京都」
京都駅で、JR東海・京都キャンペーンポスター10年分を一冊の本にした「そうだ 京都、行こう。」を買う。「『そうだ 京都、行こう。』のこの10年は、20世紀から21世紀への移行の時と重なっています。…嘆いたり、憤慨したり、笑いたかったり、力づけてもらいたかったり、といろいろな人の思いがありました」といった一節を新幹線の中で眺め、その後、春の海を眺める。
「がんばれ」「元気出せ」なんていうよりも……いま、励ましを必要とする人がいたら私なら、ここに連れてきてあげたい、と思います。
太田恵美 '00
2006-07-02[n年前へ]
■海辺の景色
今日は、外へ出てきました。 気が晴れず曇り気味なとき、こんな景色を見ると、ちょっと元気になります。元気じゃない人がいるときは、こんな景色を見せてあげたくなります。 だから、今日は外へ出て、写真を撮ってみました。
2006-07-19[n年前へ]
■「コピー」と「自分」と「河内のオッサン」
from n年前へ.
現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています。 「コピーの時代」
宿泊の際に修士論文もしくは博士論文をお持ちください。一冊のみ2000円で購入いたします」という高学歴者プラン(優越意識プラン) 鬼怒川温泉「佳祥坊 福松」
おー、よう来たのぅワレまあ上がって行かんかいワレビールでも飲んで行かんかいワレ久しぶりやんけーワレ何しとったんどーワレ「河内のオッサンの唄」
「自信が必要十二分以上に満ちあふれている人」でも「自信を無くしている人」でも、どちらであるにしても、自分自身に「(他)人は(他)人、自分は自分」という「心の強さ」があれば、きっと人生は楽しいものなんだろう、と想像してみたりするわけです。 そして、どうしたら「自分がどういうスタンスであるかという自己認識」をしっかり強く持てるだろうか、と考えたりするのです。
他の人の自信を支えるやり方を聞くと元気をもらえます。真似をしたいと思います。
元気な時に自分のやり方をメモしておいて、不安になった時にはそのメモを読んで自分のやり方を思い出しています。
2007-07-06[n年前へ]
■「物語」と「市場経済」
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。
「科学とオカルト 」P.7 はじめに
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
「科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
「科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。
養老孟司
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