2003-01-23[n年前へ]
■両手は聴衆の視線の地平線
ご存じの方はご存じのアレとは少し違うかもしれないが、今日もいつものようにグリグリ〜としたプレゼンをしてみた。朝通勤途中の車の中でポリスのシンクロニシティコンサートのLIVE CDをガンガンにかけていたので気分はスティングで、相手が誰でもとりあえず関係ないのである。いつものように、頭の中で「ステージの上では私は女優(あっ、男優か)よ」と誰かが囁くのである。というより、性格的にそうでも思わないと大勢の人に喋るなんてやってられないのである。
で、まるでシンクロニシティのようにhardでloxseな日々経由で作品をよく見せるためのお手軽なテクニック集なんかを眺めてみた。これは、なかなか面白い。「個性的な人の顔写真を使うと安易に笑いが取れる」なんていう、一件クダラナそうに見えることこそ、特に参考になるような気がするのである。
そうえいば、これまでに受けたプレゼンの研修の中で一番心に残っているのがこんな言葉だ。「オマエの両手は聴衆の視線の地平線だ」「つまり、聴衆はオマエの両手より下は決して見ないものだ」「ということは、両手を肩の高さ辺りでキープしておけば、聴衆はオマエの顔から目をそらせなくなるし、聴衆の視線の位置だって自由自在にコントロールできる」「だから、腕は胸の高さより下げるな」「聴衆の視線をコントロールするる努力を惜しんではいけない、絶対に」
というわけで、私はこれ以降プレゼンの姿勢はスキーと同じだと思うことにしたのである。スキーで滑っているときに、腕が下がっているスキーヤーはスキーが下手なのと同じように、プレゼンテーションをしている時に腕を下げている発表者はプレゼンが下手なのだ。この「両手は聴衆の視線の地平線」という言葉には本当に目から鱗が落ちたのだった。
2003-09-22[n年前へ]
■「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)
遠い彼方に見る陽炎
負われて見たのは、まぼろしか。
…
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先
三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実
先日、はてなに寄せられていた検索の一つにとても興味を惹かれるものがあった。それは
そこで、興味をそそられながら、その質問への回答を眺めてみると、
この「小焼け」の不思議なところは、「日没後に10~15分するともう一回赤く明るく光る」という「現象の不連続性」である。日没後にだんだんと光が強まるのでも薄まるのでもなく、まるでフラッシュバックのように不連続的に「10~15分するともう一回明るく光る」というのはとても不思議に思われる。何らかの「境界」がないことには、そんな風にパタンと何かがひっくり返されるように不連続な現象が起きるとは思えない。
そこで、こんな風に推理してみた。「小焼け」というのは、日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が、私たちの頭上に浮かぶ雲を下側から照らし赤く光らせているさまを指しているのではないだろうか?地上に立つ私たちから見るとすでに日も沈んでしまった後に、だけど私たちの頭上高くに浮かんでいる雲からはまだ夕日が見えるような時に、その雲が下側から照らされて夕日の赤い光を私たちに向け反射させているさまを「小焼け」というのではないだろうか?そしてまた、夕日は太陽の角度が低ければ低いほど大気中を通過する光路長が長くなりきれいに赤くなるし、それに加えて太陽の角度が低ければ低いほど太陽光が雲に当たる角度が深くなるため雲の下側に当たる光の量が多くなる。だから、雲の高さから見た日没の時に雲の下側が一番強く赤く照らされることになり、その直前のことを「小焼け」というのではないだろうか?
こんな推理にしたがって、簡単な計算をしてみることにした。秋の空に浮かぶ雲といいえばひつじ雲やいわし雲といった高積雲である。それらの雲の高度は私たちの頭上7~10kmといったところだろうか。その雲から見た日没というのは地上の私たちから見た日没からどの程度後になるだろう?ざっと計算をすると、その結果は雲の高度が7kmのときに約11分後、雲の高度が10kmのときに約13分後になる。私たちの頭上でなくてもう少し西の空に浮かぶ雲であればそれよりは若干遅くはなるけれど、それでも数分の違いも生まれるわけではない。つまり、私たちが日没を見た十数分後に、空に浮かんでいる雲の下側に一番強く夕日の光が差し込み、雲の下面が私たちに向かって赤く輝くことになる。
そういうわけで、「小焼け」というのが「日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が頭上の雲を下側から照らし赤く光らせているさま」だと仮定してみると、ちょうどその現象が起きるのが私たちから見た日没後十数分後であることから、
そういえば、三木露風が最初に発表した「赤蜻蛉」の詩は「夕焼け小焼けのあかとんぼ」ではなくて「夕焼け小やけの山の空」だった。だから、三木露風が夕暮れに「見たのはまぼろしだったか」と呟いたのは元来は「赤とんぼ」ではなく「夕焼け小焼けの山の空」で、そんな風に呟くとおり、地平線の向こうの夕日を頭上の雲を鏡にして見るという、「小焼け」はまさに蜃気楼か陽炎のような現象だと考えてみるのはとても自然で、そして興味深いことだと思う。
なぜなら、後年に「赤とんぼ」と改名したけれど、三木露風がこの詩につけた題名は「赤蜻蛉」であるからだ。詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の古名を、その漢字のとおり「蜻蛉(かげろう)」をこの詩に名にわざわざ使っているからである。つまり三木露風はこの詩を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」と名付けたのである。地平線の向こうに隠れた夕日(太陽)が炎のように燃え上がるちょうど陽炎のような「夕焼け小焼け」意味する題をこの詩に名付けているからである。
そういえば、三木露風は三十三才の時、北海道で夕日の中を飛ぶ赤蜻蛉(アキアカネ)を見ながら、子供の頃を思い出しつつこの詩を作ったという。きっと、蜻蛉(かげろう)が飛ぶ夕焼けの景色を眺めながら、陽炎(かげろう)のように浮かぶ小焼けの向こうに昔をまぼろしのように思い出していたに違いない。
秋の夕暮れに日が沈んだ後の美しい夕焼けを眺めていると、地平線の彼方に沈んだ太陽が炎のように雲に浮かび上がる「小焼け」の様子を眺めていると、色んな幻が地平線や水平線の彼方に浮かびあがってくるような気がする。三木露風が眺めたように
、昔眺めた景色がどうしても陽炎のようにふと浮かび上がってくるような気がする。雲の下が赤く照らされる様子を眺めながら、そんないつか見た景色を少し眺めてしまうのである。
2004-03-28[n年前へ]
■浅草・北千住
浅草を過ぎるときに、撮った写真が一枚目。なんだか、その場所が持っている雰囲気に暗示をかけられたせいなのか何なのか、空気が少し色褪せて見える。こういうところで、「120°のわたしだけの地平線」を切り取ってみるのも確かに良いかも。タイトルをつけるなら、…「雷おこしと青いビル」
北千住では、昼食をとりながらドラマ「プライド」の最終回の話題に。私はまだ見ていなかったのだけれど、なかなかにすごいストーリー展開だったらしい。「相手を抜いても抜いてもセンターラインにすらたどり着けない」というキャプテン翼も真っ青のコートの広さとか、「完璧なまでのマンツーマンシフトを逆手にとった奇想天外戦法」とか…、なんだかそれを聞きながら、ふと帰ったらビデオで「プライド」最終回を見てみようと思ったのだった。
それはともかく、「氷の女神の女神なんか見えない」(アイスでもないし)わけで、すると当然ながらその結果は、「負けてるし」というのが後の二枚の写真です。
■LOMO Horizon 202 ++
「超広角パノラマイメージの飛翔」120°のあなただけの地平線を切り取る。ガソリンスタンドと彼女のバイク、摩天楼と信号点灯、入道雲とカブトムシ、おばあさんとコンピュータ。というLOMO Horizon 202 ++。
2006-07-03[n年前へ]
■「地平線までの距離」
リコーのデジタルカメラ RICOH GRD で地面近く・足下近くから、その先の景色を撮影し、「巨人の国」を蟻の視点から眺めてみよう、というという"DISTANCE TO THE HORIZON" その景色からは、確かに「地平線までの距離」を実感することができる。写真集のスライドショーページはこちら。
実はその(本城直季の)撮影方法のアイデアは本城のオリジナルではない。昔からそのやりかたは知られていたし、実際は本城よりもずっとまえに同様の、写真集も海外で出版されていた。
多くの人が彼(本城直季)の写真に共感するのは、その撮影方法のアイデアがオリジナルかどうかではなく、かれが描きだしたビジョンが他の写真家より明確で、一歩進んでいたからだろう。