2006-10-26[n年前へ]
■「コンビニで周辺地図をプリントしよう」「記憶色」
from n年前へ.
「宇宙を飛ぶ人工衛星から眺めるGoogle Map」が生まれ、「街角にあるコンビニでプリントする地図」が始まる。次は、どんな地図サービスが生まれてくるのだろうか?
開発者の口から「記憶色」という言葉が出てきて、居合わせた写真家と苦笑した。…思い出はみな美しくなり、現実は見えにくくなる。
2007-06-05[n年前へ]
■Mobile Planetarium(モバイル・プラネタリウム)
携帯電話から星空を眺めることができる「プラネタリウム」ページがMobile Planetarium です(PCからアクセスすることもできます)。Mobile Planetarium の少し変わった特徴は、「星空を眺める場所」を指定できるところです。といっても、東経や北緯といった「場所」のことではありません。もちろん、よくあるプラネタリウムソフトがそういった指定をすることができるように、Mobile Planetarium でも東経や北緯といった場所の指定をすることはできます。けれど、それだけではありません。「星空を眺める場所」が「スモッグに覆われた大都会」なのか「空気が綺麗な田舎の町」なのか、「冷たい空気が肌を指すような高い山の上」なのか、それとも真空中をただ突き進む宇宙船の中から…といった指定ができるのです。
都会の夜景はスモッグに覆われ、その中を進む列車の中からは、星空を見ることはできません。けれど、走る列車の屋根の上、はるか頭上に広がっているはずの星空を、携帯電話の画面を通して眺めてみたら、どんな気持ちになるでしょうか。プルダウンメニューから、あなたがいる場所を「高山の頂上」に変えれば、都会の列車が瞬時に高山の上を走る銀河鉄道に変わり、頭上に広がっているはずの星空が携帯電話の画面に浮かび上がってくるのです。
もちろん、目に見える星の名前や、それらが形作る星座を知る・カンニングするために使っても良いでしょう。けれど、通勤列車の混雑の中や、小さな部屋の片隅で、携帯電話越しに見えない星空を眺めてみることができるのが、Mobile Planetarium の一番の特徴です。見えない星空をケータイの画面に浮かび上がらせるのが、なによりの特徴です。
今は、携帯電話の画面越しに小説を読み、その液晶画面を通して世界を感じる人も多い時代です。そんな道具を介して、見えないものを眺めることができたなら、どうなるだう?その道具を使って、自分を取り囲む世界の姿を、変えることがもしもできたらなら、どうなるだろう?…と思いながら、作ってみたのがこんな道具"Mobile Planetarium"です。
2007-07-02[n年前へ]
■ニュートンと旧約聖書(科学と魔術)
ニュートン(1642-1727)が、旧約聖書のダニエル書をもとに「西暦2060年以降に世界の終わりが来るかもしれないが、それ以前に終わる理由は見つからない」と書いた文書がヘブライ大図書館に保管されていて、その文章が18日から公開されているという記事を見た。
小山慶太が10年前に書いた「神さまはサイコロ遊びをしたか—「宇宙の法則」に挑んだ人々(講談社学術文庫)」で、「心臓と血液の運動(1628)」を書いた近代生理学の創設者ハーヴィ、「学問の進歩(1605)」を書いたベーコン、彼ら17世紀の科学思想の巨人らを指して、こう書いていたことを思い出す。
後に科学と呼ばれるようになる知的営みの原型と、それと相反する迷信とみなされる魔術が、彼らの頭の中で同居していたことは、我々の目にいかに奇妙に映ろうとも、まぎれもない事実である。 それが歴史の複雑さであり、そして自然を理解しようとする人間の精神の複雑さであった。 「神さまはサイコロ遊びをしたか」一章 ケプラーと魔女 (P.25)
2007-07-03[n年前へ]
■科学とオカルト
「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」を読んだ。
オカルトとは元来「隠されたこと」を意味し、…シェパードによれば「通常の経験や思考ではとらえることのできない神秘的、超自然的な現象を信じ、これを尊重しようとする進行全般を示す概念であって」(渡辺恒夫・中村雅彦「オカルト流行の深層社会心理」)ということになる。 …この定義に従うと、ビッグバン仮説を信じている物理学者はオカルト信者となってしまう。なぜなら、百五十億年前、宇宙はゴルフボールぐらいの大きさだったと主張するビッグバン仮説は、通常の経験や思考ではとらえることのできない進歩的、超自然的な現象を信じることにほかならないからである。 「科学とオカルト」 P.17 第一章 科学の起源「水からの伝言」に関する記事へのブックマークを眺めるとき、そこには「オカルト」「ニセ科学」「科学」なんていうタグがついていることが多かった。それらのタグがどういうことを指そうとしているのか、そんな言葉にはどんな過去があるのかを考えてみたりした人たち、あるいは考えなかった人たちであれば、この 「科学とオカルト」を読むときっと面白いと思う。
十六、七世紀の第一の科学革命の頃、業績評価というのは、もっぱら異端審問のためのものであった。…理論は所詮オカルトであり、背反する神学的信念のどれが正しいかを決める客観的基準などあり得ようはずはなかった。 十九世紀になり…さまざまなオカルト(個々の研究者の理論や実験結果)を平準化する必要が生じた。オカルトの大衆化あるいは民主化といってもよい。社会的に平準化されたオカルトは、公共性を獲得したのだから、もはやオカルトとはいえない。それでは何と呼ぶかというと、「科学」ということになったわけだ。実に科学とはオカルトの大衆化だったのである。 「科学とオカルト」 P.47 第二章 オカルトから科学へアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」と書いた。科学の専門化・細分化・高度化が進む21世紀は、そんな科学と魔法が区別が付きにくい時代なのかもしれない。