1999-02-26[n年前へ]
■ヒトは電磁波の振動方向を見ることができるか?
はい。ハイディンガーのブラシをご覧下さい
(1999.02.26)
リチャード・ファインマンの本の中で次のような問題があったように思う。
「偏光板がフィルターが一枚だけある。その偏光フィルターの偏光方向をどのようにして知れば良いか?」
その本の中での答えは、
「物体の反射光を偏光フィルターを通して見てみる。」
だった。ブルースター角で入射した光の反射光は、入射面に対して電場の振動方向が垂直になっている、ということを利用するわけである。
分かりやすいように、偏光フィルターを通してみたガラスの反射光をデジカメで撮影してみる。左が反射光を通すような角度に偏光フィルターを回したものであり、右が反射光をカットするような角度に偏光フィルターを回した場合である。この左の場合、すなわち、反射光が一番通過している角度から液晶の偏光面がわかるわけである。
ところで、このようなファインマンが示したような方法を用いなくても、そもそもヒトは電磁波の振動方向を見ることができるのである。以前、「渡り鳥の秘密- 3000kmの彼方へ - (1999.01.30) 」の中で「鳥は太陽の位置、光の偏光パターンを位置のセンサーに使う」という話があった。ヒトも同じく光の偏光方向、すなわち、電磁波の振動方向を見ることができるのである。鳥はどう見えるかは私にはわからないが、ヒトならば自らが実験台になれるので、電磁波振動方向をどう見ることができるか調べてみたい。というわけで、「渡り鳥の秘密- 3000kmの彼方へ - (1999.01.30) 」の中で「近日中にある実験をする予定である」と書いたものが今回の確認実験である。なお、光の進行方向と磁界の振動方向を含む面を「偏光面」、電界の振動面を含む面を「振動面」と呼ぶ。
電磁波の振動方向をヒトが見ると「ハイディンガーのブラシ "Haidinger'sBrushes"」というものが見える。それを知ったのは、いつものごとく「物理の散歩道」からである。網膜に複屈折性があるために「ハイディンガーのブラシ」が見えるのだという。
私はこれまで、「ハイディンガーのブラシ "Haidinger's Brushes"」を見たことがない。いや、正確に言えば意識したことがない。そこで、判別しやすいように直線偏光を用意してやることにした。そこで、東急ハンズで偏光フィルターを買ってきた。
そして、空を見てみる。もちろん、偏光の偏りが強い、太陽を中心にして90度の角度をなす同心円方向である。詳しくは、
- 可視-赤外域での偏光観測による衛星観測手法の開発基礎研究(http://www.mri-jma.go.jp/Dep/sa/Lab1/labt01-s.html)
- エアロゾル観測(http://mars.im.kindai.ac.jp/KISYO/YPROJECT/kansoku.html)
さて、ヒトである私は、空を眺めて格闘すること5分程で、「ハイディンガーのブラシ"Haidinger's Brushes"」がわかるようになった。私が見たハイディンガーのブラシ"Haidinger's Brushes"を示す。
この絵で太陽の方向は右上であり、偏光面は次の絵の青の矢印方向になる。
というわけで、ヒト(少なくとも私は)電磁波の振動方向を見ることができるのである。慣れてしまうと、白い紙を見つめているときなども(条件によっては)見えるようになる。色を扱う人は意識すると面白いと思う。
ところで、偏光フィルターがどういうものか知らない人のために、NotePCの液晶に偏光フィルターを重ねた写真を示す。
なぜ、こうなるかわからない方は、
などを参考にして欲しい。液晶ディスプレイの構造がわかると思う。そして、面白いことに気づいた。NotePCの液晶からの光は直線偏光である。ということは、NotePCの液晶にはハイディンガーのブラシが映っているのである。正確に言えば、NotePCの液晶を見ているあなたの視界の中央には、ハイディンガーのブラシが映っているのである。と、気づいてみると確かに見えている。
というわけで、液晶ディスプレイを使用している方はハイディンガーのブラシを見て頂きたい。以下のやり方がわかりやすいと思う。
1.このWindowを最大化する
2.下へスクロールして画面を真っ白にする。
3.液晶ディスプレイ(NotePC)を回転させる。
4.画面(視点)の中央に(視点に対して位置が)動かない黄色いもやが見えるはず。もちろん、回転はする。
液晶ディスプレイやヘッドマウントディスプレイ(HMD)を色々見てみたが、どれにもハイディンガーのブラシは存在していた。視界の中央に不思議な十字架のように現れているのである。現代の液晶技術が負う十字架である。
誰もが、目の前にあるのにそれに気づかないというのも、実に面白い。まるで、「青い鳥」のようである。そして、そういうことはとても多いのではないかと思う。それはそれで面白い話だ。
- それでは、ハイディンガーのブラシをご覧下さい -
2000-12-22[n年前へ]
■子供の科学
少し前に本屋で「子供の科学」を立ち読みした。末尾の広告に懐かしくもドキドキした。そして、「めざせプログラマ!」がどうなっているのか興味深く読んだ。私の感想としては、私の好きだった「子供の科学」としては失敗だと思う。ファインマン物理学が大学生・高校生のみならず中学生・小学生に見せても良い教科書であるのと違って、少なくともこの連載は「子供の科学」向きではない。別にこの連載の内容自体が悪いなんていう資格はとてもじゃないが私には無いが…。
2004-06-22[n年前へ]
■僕の記号
僕の記号は普通使われている記号に比べ、優れているか、そうでなくても同じくらいの価値がある、そもそも記号などはどれを使おうとこっちの勝手だ…と僕は思っていたのだが、あとになって必ずしもそうはいかないことに気がついた。人に何かを説明するときには、やっぱり標準の記号を使わなくてはならないことを悟り、それ以来自己流の記号を使うのはあきらめてしまった。ファインマン 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 岩波書店
2006-06-22[n年前へ]
■「自分の書法と標準の書法」
fromn年前へ
自分の表現したいことを、能率良く、無駄なく演奏家に伝える方法を常に考えて欲しい。見やすい、わかりやすい方法で書いた方が自分のために得なのだ。先日亡くなった岩城宏之と、ファインマンの言葉。
岩城宏之
人に何かを説明するときには、やっぱり標準の記号を使わなくてはならないことを悟り、それ以来自己流の記号を使うのはあきらめてしまった。
リチャード・P・ファインマン
2008-04-24[n年前へ]
■「困ります、ファインマンさん」と「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」の違い
一冊の本の内容を短くまとめると、「あらすじ」になり、本の内容を限りなく短く一言で言えば、それは「タイトル」になる。
物理学者ファインマンの人生を描いた本というと、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」
「困ります、ファインマンさん」が思い浮かぶ。前者「困ります、ファインマンさん」という本の原題は、"What Do You Care What Other People Think?"だ。「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」というタイトルと、「困ります、ファインマンさん」は何だかずいぶん趣が違う。
その違いがいつも気になってしょうがない。"What Do You Care What Other People Think?"という本の内容を一節の言葉にしたとき、それが「困ります、ファインマンさん」では、何だかとても違うようにも思う。「困りますねぇ」という言葉と、「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」という言葉の間には、非常に大きな隔たりがある。言葉の力が持つ向きが180度違うように思う。
そんな具合で、この「困ります、ファインマンさん」というタイトルは好きではないのだが、そんなつまらない気持ち以上に、この本に描かれている内容は大好きだ。パラパラと楽しみながらページをめくることができるのが「ご冗談でしょう、ファインマンさん」であるならば、一行一行をゆっくり読み進みたくなるのが"What Do You Care What Other People Think?"だ。
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を思い浮かべて、「困ります、ファインマンさん」というタイトルの本を手に取る人も多いことだろう。けれど、そのタイトルをにアレルギーを感じて「逆に手に取らない人」も多いかもしれない。けれど、そんな人こそ、この原題"What Do You Care What Other People Think?"という言葉を、誰が誰に向かってどんな時に口にしたのかを知るためだけにでも、この本を手にとって見るのも良いと思う。その意外な答えは、きっと、あなたを勇気付けると思う。
"What Do You Care What Other People Think?"