hirax.net::Keywords::「漱石」のブログ



2007-05-06[n年前へ]

「送籍」と「名前」 

 図書館は5階建てだが、人でにぎわっているのは1階だけだ。少し前に出版された本が置いてある2階より上には、ほとんど人がいない。人がいない2階で、無意識のうちに1冊の文庫本を手に取っていた。本を手に取ったのは、本当に無意識の一瞬のことで、気づいたら書庫から本を抜き出していたというのが的確なところである。その本を手に取った理由をあえてつけるなら、その本が「コロンブスの卵」という名前で、ちくま文庫だったからだと思う。「コロンブスの卵」という題名は科学的・工学的なものを感じさせるし、ちくま文庫はとても読みやすい文字レイアウトだという感覚が意識の底に染みついていたからに違いない。

 その本を抜き出すと同時に本の頁を開いた途端、少し驚いた。開いた頁に、「徴兵忌避者としての夏目漱石」という考察が綴られていたからだ。「展望」の昭和44年6月号に掲載されたという、丸谷才一の「徴兵忌避者としての夏目漱石」がそこに載っていたのである。前から読みたいとは思っていても読むには至らず、しかし内容が気になり数日前にも関連記事をブックマークしたりした、それらの記事の源流がそこにいきなり出現したので、驚いたのである。

 私の友人で送籍という男が「一夜」という短編を書きましたが…
1905年 「吾輩は猫である」
 

 これまで、半藤一利や北村薫の著作など、漱石の名前の由来を巡る話として「徴兵忌避者としての夏目漱石」の名前を出したものを読んでいた。しかし、「徴兵忌避者としての夏目漱石」は、徴兵忌避のために漱石が北海道へ籍を移した(送籍)ことが、漱石の神経衰弱の大きな理由になっていて、徴兵忌避の自責という視点から眺めてみれば、「こころ」の不可解な結末(乃木大将が出てくる必然性)も納得できる、という内容だった。漱石という名前が、「負け惜しみが強い」という意味の「石に漱ぎ流れに枕す」だけでなく、「送籍」をも意味するのではないかというような内容は、「徴兵忌避者としての夏目漱石」では書かれておらず、あくまで「こころ」に至るまでの背景・構造解説に集約された内容だった。

 「徴兵忌避者としての夏目漱石」の内容はとても自然なものだっただけれど、それとは別の、自然ではない「漱石の名前の由来を巡る話」にも、やはり興味を惹かれる。夏目漱石が最初に漱石という名前を使ったのは、1889年5月の「七艸集」上であって、漱石が(徴兵忌避が可能な)北海道へと本籍を送籍したのは、その3年後の1892年4月であるから、夏目「漱石」という名前の第一の由来は「送籍」ではないのだろう。しかし、漱石の最初の小説「我輩は猫である」で、自分自身を「送籍」という名前で語っているのだから、やはり自身の送籍を意識していたに違いない。

 「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。
1905年 「吾輩は猫である」

 「籍」は名前と住所のデータベースだ。英語で言い換えれば、レジストリである。Windows ユーザが日々悩まされているWindowsレジストリなら、名前と値が階層構造で格納されたものだ。名前などを鍵(キー)にしてそのデータベースを呼べば、値など必要な全ての情報が得られるわけである。籍を移動することで固定されない浮いた状態にしてしまう「送籍」ということからは、「名前が無い・固定できない動的なもの」を連想してしまう。

 小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしとして暮したい希望を持つております
1911年

「無名関数」と「吾輩は猫である」  博士号拒否の際に自身を「ただの夏目なにがしでいたい」と書いた夏目漱石は、その「なにがし」の部分を一つの明らかな言葉で置き換えること、すなわち自身を名付けることはできなかったのではないか、と想像する。この「なにがし」は、博士号という冠・名前を軽く扱う表現上のトリックであると同時に、実は「なにがし」の部分は、漱石にはこのように表現することしかできなかったのではないだろうか。本名の金之助をここに入れることは、もとより忌み嫌っただろうし、それが「漱石」という号であっても、一つの固定した意味しか持たない限りは、ここで使うには至らなかったかもしれない。何かを書くことで自身を作っていくことはできても、その自身にふさわしい名前を付けることは非常に困難なことだったのではないだろうか。関数の中身を長く書き続けることはできても、その関数を「短い言葉」で表現することは不可能だったのかもしれない、とふと思う。

 私はその人をつねに先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。
1914年 「こヽろ」
(dekirukana9/registry)

2009-07-13[n年前へ]

「夏目なにがし」について 

 「何かを作り出す」ことが好きな人もいれば、「何かを動かす」ことが好きな人もいる。新たに自分が何かを生み出すにせよ、(自分が作ったものでない)何かを(それが新鮮だと感じられる場所に)動かすにせよ、「その何か」にお金を払っても良いと感じる人がいたならば、そこに「価値というもの」が生まれることになる。

 何かを作るにせよ、何かを動かすにせよ、その行動を起こした瞬間に、必ずしも「価値が生まれる」わけではない。もしも、何か価値が生まれた時、その瞬間、何かが作り出されり・何かを動かした人に、その価値の対価が還元されるならば話は単純だ。しかし、現実社会では、そうでない場合も多い。

 そんな場合、価値の対価はどこに還元されるのが良いだろう。それは、その「何かが生み出されたり・運ばれてきたとき」と価値が生まれた瞬間とのタイムラグや、その状況次第のところもある、と思う。

 今、価値の対価をどのように還元するのが良いかをふと考えてみると、その判断基準のひとつは、「価値が生み出されるか否か」ということで判断しても良いのではないか、と思う。「価値が生み出された」ことに対価を払いたいと願うのならば、その対価は「価値を新たに生み出すこと」というのも、至極当然であるように思われる。

そんなことを、「「夏目漱石」は日本の共有文化財産です」という記事を読み、ふと考えた。

2009-07-25[n年前へ]

此処では喜劇ばかり流行る 

 向田邦子「阿修羅のごとく―向田邦子シナリオ集〈2〉 (岩波現代文庫) 」のパート1の最終話「虞美人草 」から。

あのね、漱石の「虞美人草」の、ケツ
おしまいンとこ。何てのか知ってる?
「此処では喜劇ばかり流行る」

2009-09-19[n年前へ]

「景気と文学」 

 関川夏央「おじさんはなぜ時代小説が好きか (ことばのために) 」の「景気と文学」から。

 大正9年(1920年)3月15日に株式が大暴落して、第一次世界大戦景気による大正バブルが崩壊します。それで損をした人がたくさんいました。(中略)普通の人々が浮かれたという点では、昭和末から平成初年にかけてのバブル景気とおなじです。人の気持ちはかわりません。
 この文章が書かれてから、「バブル」と「バブル崩壊」のプロセスが、すでに繰り返されているように思います。「人の気持ちはかわりません」という言葉も、きっと何度も繰り返されてきたのだろう、とも思います。
 夏目漱石の活躍期はその戦後不況とぴったり重なっています。(中略)いわゆるプロレタリア文学も昭和不況とともに盛んになるのです。漱石の文学が「不況文学」であるように、景気と文学の関係はもっと考えられてもよいと思います。

2009-10-09[n年前へ]

「漱石のマドンナ」という旅情ミステリ 

 人がいない屋外で読書をする、というのはとても気持ちが良いものです。リュックに軽い本を入れ、自転車に乗り人気ない気持ちの良い場所を見つけます。そして、ひとときの間、本を読みます。

 今日読んだ本は、河内一郎「漱石のマドンナ 」です。本書の半分は、大塚楠緒子と漱石について実証的に書かれ、残りの半分は、漱石が好感を抱いたと伝えられている「10人の女性」につい調べた結果が書かれています。

 これまで、漱石の”マドンナ”について書かれた本を色々読みました。そんな中でも、この本は旅情ミステリのように、「いつ・どこへ行った」「いつ、どこからどんな手紙を書いた」といったことが書き連ねられていて、不思議に心惹かれます。ミステリのプロットそのままに、まるで漱石とともに人生という名の地方旅行をしているような気になります。

 同年7月25日、漱石は群馬県の伊香保温泉に向かった。(中略)上野発午前7時25分、前橋着11時10分の列車に乗ったのはわかっているが、前橋から伊香保へはどのような経路で行ったかは不明である。
 この伊香保行きに、漱石の人生を決める決定的瞬間があると考えている。

 「漱石のマドンナ」は、リュックに入れるには少し重いような気もしますが、夏目漱石の本を(それとともに大塚楠緒子の著作についても)読み直してみたい人には一度読んでみても面白いと思います。

屋外で読書








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