2000-02-02[n年前へ]
■日出ずる処のダイナブック
東芝ノートの発表日の秘密
東芝の作るノートPCはアラン・ケイが考えた"Dynabook"という名前で呼ばれる(日本では)。その名に恥じないように、東芝もノートPCに関しては力を入れまくりのハズである。
私も歴史は浅いが数台にわたって東芝ノートのユーザーである。ポインティングデバイスなどは、東芝のトラックポイントとボタンでないと耐えられない体になってしまった。いや、本当に。
しかし、使い始めて年月が経つと性能の低下や不具合が出てくる。特に、ケースが割れまくる機種などを使っていると、なおさらである。
そうなると、どうにも新製品が気にかかってくる。「早くいい新製品が出ないかな」と熱望するようになるのである。
そういう気持ちは誰しも抱くと思われ、NiftyのフォーラムやWEB上の掲示板を眺めてみても、新製品の噂情報は数多く溢れている。
中でも、
- どんな新製品が ( What )
- いつ出るのか ( When )
だからといって、掲示板で「私はいつPCを買えば良いのでしょう?」などと尋ねたりすると、
「欲しいときに買えェ。」 (By スタパ斎藤)などと言われること必至である。
「そんなことは自分で決めろ。」
だから、新製品を買うべきか買わざるべきか、というジレンマに私たちは頭を悩まされることになる。まるで、ハムレットである。
そもそも、このジレンマの理由は新製品の発表が前もって知ることができないという点にある。いつ・どんな新製品が出るかどうか判っていれば、あとは自分の判断で決めれば良いのである。
このジレンマは東芝の青梅工場に忍び込んだりすれば即座に解決できる。しかし、その場合、今度は「囚人のジレンマ」を考えなければならなくなってしまう。このような問題点のために、「東芝青梅工場に忍び込む」方法は採用すべきではない。
そこで、よく考えてみる。先の
- どんな新製品が ( What )
- いつ出るのか ( When )
今回は、東芝のノートPC製品の発売日を統計的に調べ、そこに隠れている規則性を明らかにしてみたい。というわけで、今回は新製品が欲しい人たちに贈る研究報告である。
まずは、
- Notebook Center ( http://www.kamikura.com/notebook/)
- 機種 発売日
- Libretto50 1997/1/7
- Satellite220 1997/5/8
- Libretto60 1997/6/24
- Libretto70 1997/10/29
- Satellite 300/305/310 1998/2/2
- Libretto100 1998/3/5
- TECRA780 1998/4/2
- Satellite 1998/5/11
- Satellite325/320 1998/7/27
- Satellite4000 1998/8/3
- Portege3010/3000 1998/8/12
- TECRA8000_Satelllite4000X/4010X_PORTEGE7000LibrettoSS1010 1998/10/22
- Satellite2510 1998/11/5
- PORTEGE3020 1999/1/7
- Satellite2520 1999/1/13
- SS3300_Satellite4000 1999/1/26
- SS7020X 1999/4/13
- DynaBook4050X/2540S 1999/5/12
- SS3330 1999/6/3
- Satellite4100X 1999/6/15
- Librettoff1100_DynaBookSS3380 1999/6/28
- DynaBook2060 1999/8/5
- Satellite2590X/2100 1999/10/14
- SS3330V 1999/10/26
- SS3380V 1999/12/7
- Satellite4320/4260/2140 2000/1/19
- Dynabook 2000/1/26
ここで、このグラフの曜日軸は、
- 0 日曜日
- 1 月曜日
- 2 火曜日
- 3 水曜日
- 4 木曜日
- 5 金曜日
- 6 土曜日
- 火曜日〜金曜日
何故、月曜日に発表しないのか、このナゾをと某メーリングリストで質問した所、幸いにもその答えを教えて頂いた。それは日付変更線と関係していたのである。
もし、日本で月曜日に新製品を発表すると、日付変更線の向こう側のアメリカではまだ日曜日である。すると、全世界で同時発表ということができない。東芝は全世界を視野におくので、全世界同時発表ができる火曜以降が良い、というわけである。その結果として「火曜日〜金曜日」になるというわけである。
日出ずる処のダイナブックが故なのである。
また、今回の結果では発表月は1,10月が多かった。
そこで、今回の結論は
- 「東芝ノートPC発表は1,10月の週の中頃に期待しろ」
- 「東芝ノートPC発表は月の始めの金曜日に期待しろ」
P.S.メモリー容量の上限をもっと多くして下さると幸いです > 東芝さま
2005-02-21[n年前へ]
■アラン・ケイ「科学とは、新しいアイデアを学ぶためのもの」
「科学も同様で、私たちは子供を数学者や科学者や技術者にしようと思っているのではありません。私たちが子供がそうした考えを理解する手助けをしたいと思うのは、科学が、異なる思考方法やパワフルな思考方法を体現しているからです。
芸術とは、私たちが作るものすべてを指しますが、同時に技術を記述する方法でもあるんですよ。ギリシャ人は技術と芸術を同じ言葉で表して育み、数学はもともと科学の一部として始まりました。
特にギリシャでは、geometry(幾何学)という言葉は「地球の測量」を意味していました。科学は、物質世界で起きていることを考えるための言語として使われたのです。だから、子供たちが科学を学ぶことが大事なのです」というアラン・ケイのインタビュー。
ここに引用した部分は、単にきっかけに過ぎず、必読の文章だと思う。 from 「地球の測量」を経て、Dog yearの中で暮らしている人の日記
2005-05-05[n年前へ]
■「未来予想図の多数決」と「12人の怒れる男」
西村 肇氏の言葉は次のように続く。
独創的な仕事とは、みんなで相談して出来るものではなく、傑出した個人がみんなを引っ張って出来るものという点です「七割が賛成するプランは時すでに遅く、七割が反対するプランでやっと先手がとれる」という松下幸之助の言葉をひきつつ「周囲が - そんなのうまくいくわけない - と思っていることでもとにかくやってみて、他にないものを生み出していけたら…」と語る「反対の中からイノベーションは生まれる 」を読みつつ、確かに何か新しいことをするような場合には「(未来に)正しそうな考え」は必ず少数派になるものなのだろうなぁと想像する。多数決ではきっと未来予想図を描くことはできないだろう、と想像する(私には想像することしかできないけれど)。映画「12人の怒れる男」ではないが、多数の考えが「正しくなくて」の少数の考えが「正しい」ということは、決して稀ではないように見える。
もちろん、その未来予想図が「正しい」かどうかは、西村 肇氏の先の言葉「理科人間の議論は一回で論戦を決着できる物証の提示」で決められるべきものだと思う。つまり、人間の頭の中の想像・妄想ではなくて「描いた未来を物証で示す」べきものなのだろう、と思う。つまり、結局のところ「未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ(The best way to predict future is to invent it.)」というアラン・ケイ(Alan Kay)の言葉に尽きる、のだろう。「未来の想像・妄想図」を現実のものとして作り出してしまえば、それは想像や妄想の未来ではなく「現実」になるのだろう、と思う。現実に生み出された未来を見れば、そしてそれが実際素晴らしくて受け入れられていくものであれば、その未来予想図は「正しい」ということになるのだろう、と想像する。
■「何でもやればできる、という言葉」
ところで、 「未来予想図」は多数決で想像したり決めたりするものではなく、「未来は実際に作りだしてしまえば良いもの」ということを考えるとき、例えば「技術者と作業員」の
技術者とは、大勢の人たちが無理だと思っていたり、どれだけ試行錯誤してもうまくいかないような(例えばコンピュータに関連する)技術的な難題を、人並み外れた凄まじい問題解決能力で解決し、たちどころに目的を達成してしまう能力を持つ特殊な人たちのこと。多くの場合、置換不可能である。誰でも勉強すればなれる訳ではない。のような言葉を連想してしまう。「人並み外れた凄まじい問題解決能力でたちどころに目的を達成してしまう」ような人であれば、「未来を実際に作りだしてしまう」こともすぐにできそうだ。しかし、そんなことはなかなかできることでもなさそうだけれど…とも思ったりする。
以前、ペトロ三木が「ジェネジャン!」の何かの回で、他のタレント出演者たちに向かって
(芸能界で成功するのは才能のある一部の人間だけだろ)(才能あるヤツが)「何でもやればできる」みたいな発言をするから、ありもしない才能を信じる奴らが増えるんだよ。おまえらは社会に対して無責任なんだよ。というようなことを言っていたが、その言葉が頭の中にプカプカ浮かんでくる。「ぼくは別に何かの才能があるわけじゃない。誰でもみんなやろうと思えばできると思う」と語る堂本光一に、ペトロ三木が「アンタのルックスは(みんながみんな持っているもののはない)立派な才能だろ」とツッコんでいたのを思い出す。(社会に対して無責任とは思わないが)誰でも「何でもやればできる」わけではないよなぁ、と思ったりもする。そしてまた、「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あついは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。もしかしたら、それは「夢」を見たり、「夢」を見させたりする能力なのかもしれない。
登 大遊氏は尋常でない才能の持ち主だし、伊藤直也氏だってそれは同じだ。彼らの言葉を「なるほど」と熟読しながら、ふと我に返ると「12人の怒れる男」の正義を追求するヘンリー・フォンダではなく、人の意見に激しく左右されてしまう「12人の優しい日本人」になる自分がいる。彼らの言葉を眺めていると「…_|‾|○」という気持ちにもなったりするけれど、そんなorzな気分は「アラン・ケイの直筆サイン(The best way to predict the future is to invent it !)入り高座扇」ででも吹き飛ばすことにしてみようか。
2005-05-07[n年前へ]
■「もしあなたが部屋の中で一番賢い人だとしたら」
「Squeaker大島芳樹のカリフォルニア日記」の「アラン・ケイ UCLAの授業」及び「ポジティブ・フィードバック」を読み、アラン・ケイ(Alan Kay)が引用したJames Watsonの言葉を知る。
If you are the smartest person in the room, you are in the wrong room.「もしあなたが部屋の中で一番賢い人だとしたら、 あなたは間違った部屋にいる」DNA構造解明でノーベル賞を受賞したJames Watsonはこの言葉をよく語っているようだ(1, 2, 3, 4…)。もう少し長い言葉を眺めてみると、
If you are the smartest person in the room, you are in trouble. Because, nobody can help you.というような感じだろうか。「もしあなたが部屋の中で一番賢い人だとしたら、それはずいぶんと困難な状況だ。他の誰も、あなたを助けることができないのだから」というこの言葉を読んでいると、ふと「賢い人々と、難しい問題を探せ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。」なんていう言葉も連想する。やはり、世の中のありとあらゆるものは同じモノどうしでの引力が強いのだろうか…。