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2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2002-02-17[n年前へ]

スキーと計算 

 午前中スキーを二三時間して、午後は気分を切り替えて、ちょっと計算をしてみた。(リンク)(リンク

2002-03-06[n年前へ]

紙飛行機に乗ってた人達 

Fair is foul, foul is fair II

 先日、hirax.netの検索エンジン「ぐるぐる」宛にこんなメールが届いた。

 私たちが折り紙を覚えるとき、一番最初に折ってみたのは紙飛行機だった気がします。もしかしたら、私だけでなくて多くの人たちもそうであるのかもしれません。そこでふとこんな疑問が浮かびました。よく、時代劇で折鶴、紙風船がでてくることがあるのに、なぜ紙飛行機は出てこないのでしょうか?折り方は一番簡単なのに…。
 昔は、飛ばして遊ぶ折り紙はなかったのでしょうか?もしそんなものが何かあったとしたら、それを一体なんと呼んでいたのでしょうか。折り方でいちばん簡単な三角翼、いわゆるジェット機に似た形のものが有ったとしたら、それを何と呼んでいたのでしょうか?
この答えを探しに行った「ぐるぐる」はまだ帰ってこない。きっと何処かで「紙ひこうきの歴史」を調べているところなのだろう。あるいは、何処かで道草でもしているのかもしれない。

  きっといつか「ぐるぐる」も戻ってきて、上の検索結果も判るとは思うのだけれど、今回はこのメールで思い出した「ある紙飛行機に乗ってた人達」の話をメモしておこうと思う。それは、昔から語り継がれているらしい少し不思議な紙飛行機の話である。

 先日、スキーに行った帰りの車中で、私の会社の先輩にあたる人が「この話は二十年くらい前に大学の先輩から聞いた」と言って、私達にこんな話をし始めた。


 「これは不幸にも墜落した紙飛行機に乗っていた人達の話です」と言って、ある人が聞き手の前でこんな風に紙飛行機を折っていく。
 

紙飛行機を折る
まずはこんな紙を用意して
片側を三角に折る
もう片側も折り込む
真ん中で折る
一方の翼の部分を折り返す
逆側の翼も折り返す
よくある紙飛行機ができあがる
普通に飛ぶ紙飛行機である

 そして、話し手は、「ある日、この飛行機に過酷な運命が訪れる。その飛行機は、いつもと同じように乗客を乗せて、いつもと同じように飛行場を飛び立った。しかし、この飛行機は不幸にも翼の自由を奪われてしまう」と言いながら飛行機の翼を折り畳む。そしてさらに、「翼の自由を奪われたこの飛行機は何処かの場所に激突してしまう。紙飛行機には多くの乗客が乗っていたが、その人達を乗せたまま紙飛行機は真っ二つに割れてしまった…」とゆっくりと語り、その飛行機の胴体を二つに切ってしまう。
 

翼の自由を奪われた紙飛行機の胴体を二つに切ってしまう…
紙飛行機の翼を折り畳んだ状態で
胴体を真っ二つに切断する

 次に、話し手は「そしてこの不幸な飛行機の胴体は、紙飛行機に乗っていた人達と共にバラバラに散らばってしまった…」と言って、紙飛行機のカケラを散らばらせる。目の前で、全部で九つある紙のカケラはバラバラになっていく。

 そして、その散らばったカケラの中の一番大きな一つを拾い、折り畳まれたカケラをゆっくりと開きながら、「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行った」と呟く。すると、確かに話し手の掌の中で拡げられていく紙のカケラは、いつの間にか十字架の形に変わっていく。
 

いつの間にか十字架に形を変えた紙飛行機のカケラ

 そして、まだ目の前に散らばっている残りの八つのカケラを話し手は拾い、それをゆっくりと並べながら「残りの罪ある悪しき人々は地獄へ行く」と話す。すると、その言葉のままに、残りの紙飛行機のカケラはいつの間にか姿を変えて"HELL"という文字に変わっていくのである。
 

残りの八つのカケラが形作る言葉…「罪ある悪しき人々は地獄へ行く」

 そして、最後には話し手と聞き手の間には、紙飛行機が姿形を変えた「十字架と地獄」だけが残り、「紙飛行機に乗ってた人達」は「善き人々と悪しき人々」に分けられて「天国と地獄」へそれぞれ別れていく、という話なのである。
 

バラバラになった紙飛行機が姿を変えた「天国と地獄」

 この話を聞いたときに、その「一見普通に見える」紙飛行機がバラバラになって、そしてそのカケラを並べ直すといつの間にか「十字架の形」と「"HELL"という言葉」に形を変えるなんて、とても不思議で少し不吉な話だなぁと小心者の私は思った。

 そして、この話がどんな風に作られて、どんな風に語られているかを知りたくなった私は、この話に関連しそうな話を探してWEBサイトを辿ってみた。すると、キリスト教の説法の一つとして、この「十字架と地獄」という話をいくつもWEB上で見かけることができた。そのほぼ全ては「天国と地獄」「十字架と地獄」といった「善と悪」の話だった。また、その話は「天国へのチケット」という風に、もとの形が飛行機でないものも多かった。
 

 そして、さらにいくつかの情報源を辿っていると、他とは少し変わった終わり方の話を見かけた。その話の中でも、全部で九つの紙のカケラの内の一つはやはり十字架になり、「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行く」というところまでは他の話と全く同じだった。しかし、その話の中では残りの小さな八つのカケラが形作る文字が"HELL"という文字ではないのだった。
 

やはり残りの八つのカケラが形作る言葉…「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」

 その残りの八つのカケラは並べ直すと、姿を変えてこんな風に"LOVE"という文字を綴るのである。そして、語り手はその文字を指しながら「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」と終わるのだった。この形で終わる話を眺めて、ようやく、この「紙飛行機に乗っていた人達」の話は「とても不思議で少し不吉な話」から「とても不思議な話」だと私は思えるようになったのである。

 紙飛行機が何処かに激突して二つに分かれてしまう。ある人が語る話の中では「紙飛行機に乗ってた人達」は「善き人々と悪しき人々」に分けられて「天国と地獄」へそれぞれ別れていくと語られる。そして、また違う人は「紙飛行機に乗ってた人達」は「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行き」「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」と語られる。同じカケラが、語り手次第で「地獄へ行く罪ある悪しき人々は」だったり、「深い愛に包まれる敬虔な人々」だったりする。

 マクベスの冒頭の"Fair is foul, foul is fair."という言葉ではないけれど、何が善で何が悪かはほんの少しの視点の違い次第だ。それはもちろん、この八枚の紙のカケラに限らない。
 
 

2002-03-24[n年前へ]

カオスだもんね 

 以前はこれを読むためだけに週刊アスキーを買っていたが、今ではもう買わなくなってしまった。う〜ん、何故だろう?
 が、「色んなことをごった煮でとにかくやってみる」というスタンスはとても大好きだ。とにかく行って実際にやってみる、というのは面白い。何でも、まずはやってみないと話にならないし。やってみると、思ってもいない面白いこともあったりするし。

2002-04-06[n年前へ]

文字が飛び出すステレオグラム 

愛の言葉とハートマーク

 いつだったか、アスキーアート関連を調べてみるときに、下のような3Dアートを見つけた。単に無意味なの文字の羅列に見えるかもしれないが、ぼんやりと遠くを見る要領でこの英文字の羅列を眺めていれば、いつしかピラミッド状の形状が浮かび上がってくるハズである。
 

ピラミッドを描いた"ASCII art stereogram"
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 これはAA-projectのAA3D- ASCII art stereogram generatorを用いて作成された"ASCII art stereogram"だ。一世を風靡したランダムドットステレオグラムのアスキー文字版である。

 言うまでもなく、ランダムドットステレオグラムは潜在意識でのパターン自動認識を利用して両眼視差を生じさせることにより立体感を得るものであるが、この"ASCIIart stereogram"では「パターン」として、ランダムドットでなくて「アスキー文字」を使ってやるものであって、考え方としてとても面白いアートだと思う。ランダムドットよりも、「謎の暗号っぽい」ところがちょっと楽しい感じになる。

 人間はこんなランダムドットやこのアスキー文字のようなパターンを眺めるときに、目にするその全ての領域に対して「あぁココとココは同じパターンだなぁ」と無意識の内に判断できるわけで、何ともスゴイとしか言いようがない。オリンピックなどを眺めていてもよく思うことだが、人間の能力はとてもスゴイのである。

 が、とはいえ太陽が西から昇ってもワタシがオリンピック選手にはなれないのと同じく、やはりスゴイ能力にもピンからキリまであるわけで、ワタシなどは実はこういう英語のASCIIart stereogramを眺めていても、一瞬で立体に感じたりはしないのである。なぜだか、左右の目が位置対応が一瞬では判らないのだ…。どうもワタシはアルファベットのパターン認識に時間のかかるニブイヤツであるらしい。もしかしたら、いやもしかしなくても、日本語ネイティブで英語が苦手なワタシはアルファベットに対するパターン認識能力が今ひとつ低いに違いないのだ。だから、この手の「英語」を使ったstereogramだと、左右で眺める映像間のパターン相関認識に時間がかかって、なかなか立体感を得ることができないのだろう(根拠はないけど)。ワタシのように異文化コミュニケーション能力が低いとステレオアートの観賞すらろくにできないに違いないのだ。

 じゃぁ、ワタシのような異文化コミュニケーションに欠ける人々は「このステレオアートを日本語で作って眺めてみれば良いじゃないか」と思うわけだけれど、このAA3Dは「アスキー文字」にしか実は対応していないのである。名前からして、ASCIIArt Projectという位だから当たり前と言えば当たり前でしょうがないのではあるけれど、異文化コミュニケーション的には「日本語にだって対応して欲しい〜」と思ってしまうのである。火星人だって大阪弁をしゃべる今日この頃なのだから、AA3Dにも日本語を喋って欲しいところなのであるが、そんなことを言ってもしょうがないわけで、日本語を使ってステレオグラムを作るプログラムを早速自分で作ってみることにした。

 とはいえ、2バイト文字と1バイト文字、全角と半角の混在文章に対応するのはメンドくさかったので、結局2バイト全角文字のみに対応ということにしてしまった。つまり、日本語と英語の混在文章などには対応していないわけで、これでは「日本語に使えないAA3D」と全く同じく、「他の言語のことなんか考えていない」という異文化コミュニケーション能力に欠けた、「作った親の顔が見たい」と言われそうなソフトが生まれただけだったのである。が、何はともあれ、これがそのできあがったNihogo3Dである。

動作画面は下のようになる。使用手順は
  1. 左上の画面に日本語を入力するか、LoadTextボタンで日本語を読み込む
  2. Load Heightボタンで立体マップ(Bitmapファイル)を読み込む(それは0〜255の高さマップに自動変換される)
  3. Make 3D Textボタンを押して、ステレオグラムを作成
という具合である。そして、ステレオグラムができあがったら、その結果をコピーペーストで好きなように使えば良いのである。また、立体マップ(Bitmapファイル)は普通のビットマップを作って読み込むだけで、明るさが高さに自動変換される。ここで、あまり明るい画像では立体度が大きすぎて、キレイな画像にならないので、最初の内はほとんど真っ暗な画像を使った方が良いと思う。つまり、ほとんどの領域の明るさは0で、少し薄暗いところがある、というくらいの画像の方が最初は良いハズだ。下の動作画面に小さな黒い長方形が見えているが、この程度を目安にしてもらいたい。
 
Nihongo3Dの動作画面

 例えば、上の動作画面は左上のテキストウィンドーにラブレターに使うようなちょっと恥ずかしい文字をただ無意味に入力して、そして右上の立体マップ(Bitmapファイル)にハートマークを読み込んで、ステレオグラムを作成しているところである。そして、その出力結果が下のテキストだ。一見意味不明の「読むだけで恥ずかしくなるような文字」がただ並んでるか、あるいはキョーフのデンパ系メールか、と思いきや、実はその言葉を背景にして「ハートマーク」が自分の方に浮かび上がってくる、という趣向なのだ。「愛の言葉を背景に相手の心にハートマークを浮かべさせる」という超マニアックでハイブロウなラブレター(イヤがられる可能性も超高し)なのだ。
 

ちぇっ、ちぇっ、ちゅっ。 Love Letter from hirax.net
いつの間にか「ハートマーク」が浮かび上がる
 

愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。
っ。スキ。大好き。愛っ。スキ。大好き。愛っ。スキ。大好き愛っっ。スキ。大好き愛っっ。スキ。大好き
しい。ちゅっ。ちぇっしい。ちゅっ。ぇっしい。。ちゅ。ぇっしい。。。ちゅ。ぇっしい。。。ちゅ。ぇっ
。スキ。大好き。愛し。スキ。大好。愛し。スキ。大好。愛し。スキ。。大好。愛し。スキ。。大好。愛し
い。ちゅっ。ちぇっ。い。ちゅっちぇっ。い。ちゅっちぇっ。い。ちゅゅっちぇっ。い。ちゅゅっちぇっ。
スキ。大好き。愛しいスキ。大好。愛しいスキ。大好。愛しいスキ。大大好。愛しいスキ。大大好。愛しい
。ちゅっ。ちぇっ。ス。ちゅっ。ぇっ。ス。ちゅっ。ぇっ。ス。ちゅっっ。ぇっ。ス。ちゅっっ。ぇっ。ス
キ。大好き。愛しい。キ。大好き愛しい。キ。大好き愛しい。キ。大好好き愛しい。キ。大好好き愛しい。
ちゅっ。ちぇっ。スキちゅっ。ちぇ。スキちゅっ。ちぇ。スキちゅっ。。ちぇ。スキちゅっ。。ちぇ。スキ
。大好き。愛しい。ち。大好き。愛い。ち。大好き。愛い。ち。大好好き。愛い。ち。大好好き。愛い。ち
ゅっ。ちぇっ。スキ。ゅっ。ちぇっ。キ。ゅっ。ちぇっ。キ。ゅっっ。ちぇっ。キ。ゅっっ。ちぇっ。キ。
大好き。愛しい。ちゅ大好き。愛しい。ゅ大好き。愛しい。ゅ大好好き。愛しい。ゅ大好好き。愛しい。ゅ
っ。ちぇっ。スキ。大っ。ちぇっ。スキ。っ。ちぇっ。スキ。っっ。ちぇっ。スキ。っっ。ちぇっ。スキ。
好き。愛しい。ちゅっ好き。愛しい。ちゅっ好。愛しい。ちちゅっ好。愛しい。ちちゅっ好。愛しい。ちち
。ちぇっ。スキ。大好。ちぇっ。スキ。大好。ちっ。スキキ。大好。ちっ。スキキ。大好。ちっ。スキキ。
き。愛しい。ちゅっ。き。愛しい。ちゅっ。き。愛い。。ちゅっ。き。愛い。。ちゅっ。き。愛い。。ちゅ
ちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大

 

 同じステレオグラムでもランダムドットの方はあくまでも画像なので、メールに貼り付けようとするとどうしても添付ファイルになってしまって嫌がられることも多い。しかし、この「文字ステレオグラム」であれば、こちらは完全に「文字」なのであるから、いくらでもメールに貼り付けることができる。というわけで、e-mail時代の昨今にはとても使いやすいハズなのである。もしかしたら、今年の年末には「2002年度のラブレターe-mailの半分はこのNihongo3Dを用いて作成されました」という驚愕の事実が判明しても不思議でないくらいなのである。
 

 また、「言葉を紡いで-何か-を描く」のが小説であるが、このNihongo3Dを使えばまさに「言葉を並べて-何か-を浮かび上がらせる」ことができる。例えば漱石の草枕の冒頭の文章で「角張った人の世」を描いてみたものが下の文章である。この文章をぼんやりと眺めてみれば、

 人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
という文章を背景にして、「角張った人の世」が何と浮かび上がってくるのが判るハズだ。
 
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。 by 漱石 with hirax.net
世の中は「角がたってる」
山路(やまみち)を登山路(やまみち)を登山路(やまみち)を登山路(やまみち)を登山路(やまみち)
さお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流さ
みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こ
、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画
ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う
「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点
の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかり
住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。
、束(つか)の間(ま、束(つか)間(ま、束(つか)間(ま、束((つか)間(ま、束((つか)間(ま
に画家という使命が降に画家という命が降に画家という命が降に画家家という命が降に画家家という命が降
が故(ゆえ)に尊(たが故(ゆえ)尊(たが故(ゆえ)尊(たが故((ゆえ)尊(たが故((ゆえ)尊(た
かど)が立つ。情(じかど)が立つ情(じかど)が立つ情(じかど))が立つ情(じかど))が立つ情(じ
とかくに人の世は住みとかくに人のは住みとかくに人のは住みとかくくに人のは住みとかくくに人のは住み
ても住みにくいと悟(ても住みにくと悟(ても住みにくと悟(ても住住みにくと悟(ても住住みにくと悟(
作ったものは神でもな作ったものはでもな作ったものはでもな作ったたものはでもな作ったたものはでもな
ある。ただの人が作っある。ただのが作っある。ただのが作っある。。ただのが作っある。。ただのが作っ
人でなし[#「人でな人でなし[#人でな人でなし[#人でな人でななし[#人でな人でななし[#人でな
[#「人の世」に傍点[#「人の世に傍点[#「人の世に傍点[#「「人の世に傍点[#「「人の世に傍点
をどれほどか、寛容(をどれほどか寛容(をどれほどか寛容(をどれれほどか寛容(をどれれほどか寛容(
こに詩人という天職がこに詩人とい天職がこに詩人とい天職がこに詩詩人とい天職がこに詩詩人とい天職が
のどか)にし、人の心のどか)にし人の心のどか)にし人の心のどかか)にし人の心のどかか)にし人の心
う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智(
とお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(
所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したく
 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人
どな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらち
らとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国は
「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍
世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくけれ
の間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよく
あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士

 疲れたときにCRT画面の遙か遠くを眺めるようにして、漱石の言葉をボンヤリと眺めてみれば、その言葉が見る見る立体的に立ち上がって、角張った世界が起きあがってくるのである。疲れたとき、ボンヤリした時には、ぜひこの「草枕2002by 漱石フューチャーリングhirax.netを眺めて、そして楽しんでみてもらいたい。もしかしたら、バラバラに並べられたこんな文字が心の中で不思議に立ち上がってくるのかもしれない、と思うのである。
 

 飛び出せぬ「この世が」住みにくければ、少しはそれを住みよくせねばならぬ。だから詩人という天職と、画家という使命ができる。あらゆる芸術は「この世」をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊とい。



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