hirax.net::Keywords::「ビール」のブログ



2007-07-18[n年前へ]

月と言葉 

 from n年前へ.

 夕暮れや月を見ると心が少し和む。そして、誰かにそんな景色を伝えたりしたくなる。
 114年前にゴッホが眺めて描いた満月も、誰かに景色を伝えたいという気持ちが強く現れている。
 それは、なんだか心が少し落ち着くような景色だ。
 防波堤の上にいる子供には波の飛沫がかかってる。あの子たちのお母さんが心配性の小心者なら、走り寄って行きそうだなぁ。
 …「きっと愚かだろう」アプローチ

愚善同盟
 昨日は山鉾巡行、一昨日は宵山。京都の空気はひどく蒸し暑く、祭りの余韻を残してる。こんなに、京都の夏は暑かったんだなあ。
 夕立の後の四条河原町を、ビールを飲んで歩くと、とても気持ちがいい。
 四条河原町では太鼓を叩きながら歩くデモ隊がいる。デモ隊の写真を撮る公安警察がいる。それを見てエキサイトする(デモに参加している)学生風の人がいる。その学生に「他の人に迷惑を掛けるな、戻れ」と叫んでいる人がいる。
 街を歩く人は、チラりとそれを眺めている。京都の街は小さな小さな盆栽の箱庭だ。
 新聞のインタビュー記事は、ほとんどの場合、インタビューイの言葉で締めくくられている。インタビューイの口から出た言葉の中のどれを選ぶかが、記者の意思、あるいは感情表現なのだろう。
 記者の言葉で終わる記事が、時には読んでみたい。
 "I love you."を、あえて日本語にするなら、「一緒に月を眺めませんか」
 「ユーザーが抽出すべき情報がいかなるものであるかを”知っている、知らない”の差は大きいだろうから、研究者が行うデータマイニングよりも、Windowsのヘルプファイルの方が根本的な困難を伴うのでは?」と思う。

2007-08-26[n年前へ]

夏の終わりの浜辺の音楽 

 湿度が高いけれど、涼しくなってきた夏の終わり。風が吹く浜辺沿いでは、昨日は浜茶屋だった場所で、ビールやカクテルが売られている。夏の最後の風と、少しのアルコールと、流れる音をを楽しんでいる人たちは、とても心地よさそうだ。
 風吹く浜辺では、気持ちよい音楽を体で感じることができる。少し離れたところでは、アコーディオンとバイオリンの音が、ウッドベースの音に支えられながら流れている。

2007-09-09[n年前へ]

「ヒューリスティクス」と「焼き肉」と「ビール」 

 NTTがテレホンカードを導入した頃、20年くらい前、KORGのM1を抱えながら、武蔵野線に乗って初めて柏に行った。夏休みを迎える頃、「運河」近くで2,3日過ごしたような気がする。朝から晩まで技術工作をして、夜は運河へ蛍を見に行って、確か2,3日の時間を過ごしたような気がする。

 70年前の「いかにして問題をとくか」を読んで、ようやく「ヒューリスティクス(発見的論法)」の意味がわかった気になりました。
 その時のいつかの早朝に、ゴミ捨て場でFtbというカメラを拾った。1年もしない内に、そのカメラは永眠したけれど、そのカメラには色んな影響を受けた。少なくとも、その後の20年くらいは、そのカメラに影響を受け続けた。
 人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから
 それから何年も経ってから、繰り返し柏近くへ行くようになった。その近くで、1月半ほど過ごしていたこともある。午前の5分間の休憩と、45分間の昼休みと、午後の7分間の休みを経て、いつも夜には中華料理屋でビールを飲んだ。
 今年の初め、東京大学大学院 新領域創成科学研究科で話をしてきました。その夜は、基盤情報学専攻の某研究室の人たちと焼き肉屋で美味しいビールを飲んでいたわけです
 とても美味しかった焼き肉は、ふと思い返してみれば「牛鈴」だった気もする。 いや、違ったかもしれないけれど、茨城の県道沿いにある、焼き肉屋までテクテク歩いて行った気がする。…つまり、それをひとことで言うならば、つまりは「最高に美味しい焼き肉」だ。
  ヒューリスティクス(発見的論法) AならばBであるとき、Bだった→Aは正しいらしい

"How to Solve It" George Polya@1945
 確実なことも、100%正しいことも、きっと世の中には存在しない。そんな世界で、ポリア教授が書くヒューリスティクス(発見的論法)は、とても新鮮に響く。
 なにか心配事があってもだいじょうぶですよ
 それから、繰り返し柏に行くようになった。行く目的や、行く立場は変わっていったけれど、何度も何度も柏へ、あるいは、柏近くへ行くために柏を通り過ぎた。
「女性を感じさせないから(感じる前に終わるし)、体内を(女の子になるX精子が生き残りやすい)酸性のまま」にしておけるし、「ゴールから遙か遠くから、精子耐久レースを始めることができるから、酸性に弱い(男の子になる)Y精子を最後まで行かせない」ことができる…というような告白が「遺伝的アルゴリズム、遺伝的プログラミング、人工生命」というキーワードとともに語られたのです。
 「こんなものがあったらいいな」と思うことがある。けれど、そんな時「そんなものがあったらいいな」と思ってくれる人がいないことは多い。「そんなもの」が「どんなもの」なのかわかってくれる人はいないのが普通の当たり前だ。
だって、人には 限界があるのですから人にはできないことも あるのですからだから 一生懸命がんばったらあとは神様に おまかせすればいいのです
 そんな時、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを実際に作り出すことになる。そのための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。作り出した瞬間はほんの一瞬で、その峠を過ぎる一瞬が訪れたと同時に、その瞬間は過去の事象に変わる。だから、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを作り出すための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。
 だって、人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから

2007-09-14[n年前へ]

「モーレツ科学教室」と「MatLab」 

 「キーワード」を介して繋がっているものは多い。そんなものを眺めながら、「そういうものではなくて、こういうものを作りたいな」と思うイメージが、今もまだ満たされていない。

 最近、越前屋俵太の「モーレツ科学教室」のDVDを出張帰りに新幹線の中で観ている。
 京都にいた頃、時折、日本海に行った。といっても、京都は日本海に面してるのだから、県の中を「ちょっとそこまで」移動した、という程度のことに過ぎない。その途中の辺りに、越前屋俵太が住んでいるという。越前屋俵太の「モーレツ科学教室」は本当に面白い。これを小さな頃に観ていたら、きっと科学が何の根拠もなく好きになっていたに違いない。
 MathematicaのプログラムをMatlabに変換する作業とビールのテイスティングを深夜まで。
MatLabの拡張コードの勉強をする。数年わからなかったことが、今日この瞬間にわかる。いや、わかったような気になる。きっと、本当はわかってない。
 そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。
私のMatLabのイメージは、「綺麗な未来の計画でなくて、汚い現実の机の上」という感じだ。「趣味」でなく「仕事」という感じだ。新しさや夢はないけれど、着実に仕事をこなす。そんな、感じだ。
 MathematicaやMatlabと、Photoshopを繋ぐインターフェースがあればなぁ。
 そう思うなら、思った時に作れば良かったんだな、と思う。価値を感じるものに、時間を使ってみれば良かったのにな、と思う。だから、作らなきゃ、と思う。
 そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。

2007-11-15[n年前へ]

「喉越し過ぎるビールの速さ」と「ポタージュスープのトロみ」を味わう 

 料理の美味しさについて調べていたとき、結局のところ「違い」が美味しさを生んでいるんだ、という言葉を聞いた。 それが、居酒屋でビールなら、ジョッキに注がれた黄金色のビールと上に乗る白い泡の違い、飲むうちに変わっていく味や食感のグラデーション・移り変わり・違いがビールの美味しさの大きな要素になっている、なんていう話を聞いた。

 「ビール」「違い」「美味しさ」と言えば、尾崎邦宏氏の「レオロジーの世界」を読んでいるときに、一番気に入ったのが「人が飲み物を飲むときの、液体の粘度と飲むときの速度(抵抗)の関係」を示すグラフだった。 それは、流れの速度で抵抗が変わる非ニュートン液体を被験者に飲ませ、被験者たちが「どのくらいの速度(また、それに応じて変わる抵抗)で飲み物を飲んでいるか」を確かめた結果である。 面白いことに、飲み物の飲み方に関して被験者ごとの違いはなく、誰でも飲み物の粘度に応じて「同じような飲み方」をしていたという。

 粘度が10Pas以上の高粘度の飲み物、たとえばポタージュスープのような飲み物は、10 s^-1 程度の定速度で飲み込む。 非ニュートン液体は流れの速度で抵抗が変わるから、それは、スープの粘度の違いを「飲むときの抵抗の違い」として味わっている、ということになる。 トロトロしたポタージュスープを飲む時はポタージュが喉の中を伝う強い抵抗を味わい、サラサラとしたスープを味わう時には軽めの抵抗を楽しむ。

 その一方、粘度が0.1Pas以下の低粘度の飲み物、たとえばビールなどを被験者たちが飲むときは、飲むときの抵抗値が一定になるように「飲み物の粘度に応じて飲む速さを変え」飲んでいた。 つまり、粘度が低い液体は早い流速で飲み、粘度が高めの液体は若干遅く飲んでいた、ということである。 ジョッキの中のビールを飲み込むときには、人は、そのビールがどのくらいの流速で喉の中を駆け抜けていくかを味わいの「違い」として楽しんでいる、ということになる。

 空気の振動も、それがひたすらに一定単調だったなら、それはただの「音」に過ぎない。 しかし、音の高さが次々と変わっていくとき、それは音楽になる。 口に入れた途端に溶けていくアイスクリームの食感や、舌の上で甘みや辛みや苦みのバランスを複雑に変えていく味噌の味や、渓流下りのように速度を大きく変化させながら喉の奥へ落ちていくビールの喉越し、色んな違い・変化が「美味しさ」や「楽しみ」を作り出している。 色んな物理単位を鍵にして、食感の違いや、味の違いや、喉越しの違いが語られているのを見ると、何だか少し面白い。 そんな物理単位を「味の違い」として眺めることができるようになれば、理科年表を見るだけで思わずよだれが出てくるかもしれない。 そういう人に私はなりたい!?

なぜ液体はドロドロ・サラサラしているのですか?粘性とは液体の粘度と拡散ビールジョッキ








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