2005-05-27[n年前へ]
■大阪府立大学でマクルーハン
大阪府立大学で、印字(画像)出力市場の10年後、に関するシンポジウムを聴く。個人的には、アラン・ケイの言葉で話を締めくくった富士ゼロックスの深瀬氏の話と、マーシャル・マクルーハンの言葉で締めくくったリコーの平倉氏の話に興味を持った。もっとも、興味を持ったのはどういう人が・どういう言葉のひくかという点だった。
「アラン・ケイの言葉で話を締めくくった深瀬氏の話」には、「未来を予想しよう」というシンポジウムと「未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ"The best way to predict future is to invent it."」というアラン・ケイの言葉とどう両立するのか、を聞いてみたくなった。また、「マクルーハンの言葉で話を締めくくった平倉氏の話」には、マクルーハンの言葉に繋がるフレーズを眺めると、フォーカスされるべきは出力技術自体ではないのでは?という質問をしてみたくなった。いずれも、その答えは(自分自身が出すべきことだと思ったので)結局質問はしないまま…。
Gutenberg made everyone a reader,Xerox made everyone a publisher.
Marshall McLuhan
And, personal computers are making everyone an author.
Stewart BrandAnd, the Internet has made everyone a commentator.
Christian Science Monitor;June 19,1995
2006-03-11[n年前へ]
■「ハイスペックな人」と「年収500万円の境界線」
先日、ある人材を扱う会社で打ち合わせをしている時に「ハイスペック」という言葉が飛び出てきました。意味がわからなかったのですが、何回か聞き直してから、ようやく「人」を指す言葉だということがわかりました。「優秀な人」というような意味で、「ハイスペック」という言葉を使うのだというわけです。PCなどの製品を扱う際には、よくスペックという言葉を確かによく使います。「人」を売り買いする会社なので、製品たる人を差して「スペック」という言葉を使うのでしょう。
そこで、私は「ハイスペックでない人はなんて呼ぶのでしょうか?」と聞いてみました。…すると、「そういう人を話題にすることは少ないので、とりたてて(そういう人たちを指す)名前はありません」という答えでした。なるほど、何だかとても「リアル」な話です。「ハイスペックでない人」「優秀でない人」は話題に上らない、というわけです。ハイスペックでなくて、優秀でもない私としては、背筋に汗をタラタラかきつつ、リ・リアルだ…と心の中で呟いていたのです。いえ、もしかしたら、口に出して呟いていたかもしれません。「そういう人を話題にすることは少ないから、呼び名も特に必要ない」というリアルさに、まさにそんな私は「吾輩は猫である。名前はまだ無い…」と呟きながら、ただダラダラと汗をたらしていたのです。
そして、「ハイスペックの基準」はというと、これがまた興味深い基準でした。なぜかというと、ハイスペックか否かは「市場価値が決める」というのです。そして、その市場価値は結局のところ「現在の給料」が大きな基準になる、というわけです。価値が金額を決めるのか、金額が価値を決めるのか…?というようなナゾを私はふと考えてしまいました。…そして、そのハイスペックか否かのボーダーラインは「年収500万円」だということを聞いて、さらにもっと複雑な気持ちになったのです。「年収500万円以上の人たちが"ハイスペック"」という言葉を聞いて、何とも形容しがたい気分になったのです。
どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。
夏目漱石 「我が輩は猫である」
2006-07-12[n年前へ]
■「インサイダー取引ってなぜ悪いんですか?」
『大学への数学』『高校への数学』『中学への算数』などでの連載でも有名な小島寛之・帝京大学経済学部助教授に、村上ファンドやライブドアの事件報道中で見聞きした「インサイダー株取引」「企業の価値」「会社は一体だれのものか?」といった話を聞いてみました。
今回の小島寛之 助教授へのインタビューは、話の内容を全文公開したいと切実に思っているほど面白かったのです。そこで、せめて2回に分けた記事にすることで、少しでも記事に入れられる内容を増やしてみました。というわけで、小島寛之 助教授へのインタビューの第一回目です。
単なる一従業員である経営者が、会社の持ち主面をして株式市場に"物言い"をつけるのは何かヘンじゃない?
目には映りにくい「働く人の間のつながりといった社会的な価値あるもの」も、高い株価というカタチできちんとその価値が目に見えるモノにされているんだ…ところで、編集者に送る寸前に、実は原稿のまとめ部分の最後を変えたのです。変える前は実はこんなでした。
いつの間にか”お金大好き”カネゴンになってしまわないか心配になってくるくらいです【鏡を見ればおれカネゴン】。
2006-08-20[n年前へ]
■続・西村和雄 教授に聞いてみたい経済学のこと
「西村和雄 京大経済研究所教授へ質問してみたいこと」へのレスポンスなど。
「情報の伝達速度 vs 市場の安定性」 市場が微分方程式を離散的に積分しているとするならば、情報の伝達速度が速いほうが市場が安定するように思えます。けれど、現状は不安定に向かっているように見えるのは…なぜ?
「愚民ゆえの衆愚でなく、システムとしての衆愚」「神の見えざる手」「ビルトイン・スタビライザー」は、カオス・アトラクターとよく似たものなのでしょうか? そうであるとした時、(案外正しい?)「みんなの意見」「神の見えざる手」は時には物事を発散させてしまったりしないでしょうか?
2007-07-06[n年前へ]
■「物語」と「市場経済」
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。
「科学とオカルト 」P.7 はじめに
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
「科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
「科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。
養老孟司