2001-06-25[n年前へ]
■フェイスフィニティ
北川悦吏子繋がり?で、直リンク。色彩関係のセミナーには化粧業界関連の人々が多く来るという話だ。それはともかく、「服につきにくい」というのは本当だろうか? その「服につきにくい」ということへの需要というのはどの程度あるものなのかなぁ、と思ったりしたが(以下省略)。(リンク)(リンク)(リンク)
2002-12-25[n年前へ]
■ATOK 「コマンド処理」プラグイン
結局、クリップボード経由で自動ペースト(Ctrl + V)方式に変更。というわけで、ペーストをCtrl+Vでサポートしていない環境では使えないです。とはいえ、その場合にもクリップボードに結果が入れられているので、もしかしたら使えるかも。
Cygwinやらperl, rubyのワンライナーやら得意な人のご意見など参考にしてみたい、です。とはいえ、数式処理プラグインと同時併用は今のところできませんのでご注意を。というわけで、人柱版をここにおいておきます。とりあえず、面白いけど需要は少ないか。
ちなみに、"calc"と打てば電卓が立ち上がります。とはいえ、そういう類のことはShellExecuteEXを使う「ラウンチャー」プラグインを別途用意してあるので、そちらを使う方が便利ですかね。
2007-07-06[n年前へ]
■「物語」と「市場経済」
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。
「科学とオカルト 」P.7 はじめに
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
「科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
「科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。
養老孟司
2007-11-16[n年前へ]
■「美味しさを生む変化」と「老舗の銘菓」
美味しいものが、食べるとき・飲むときに感じる不均一さや変化といった「違い・移り変わり」にいよるものが大きいのだとしたら、美味しさと大量生産・長期保存は背反することになりそうだ。たとえば「堅さと柔らかさ」の両方を兼ね備える美味しいスパゲッティ、堅さと柔らかさの間を変化しつつある「皿の上のスパゲティ」はを長期保存するということは簡単にはできそうにない。あるいは、「ジョッキに注がれた黄金色のビールと白い泡」もその状態はごく短い時間しか続かない。老舗の銘菓に関する記事を読み、相反する美味しさと大量生産・長期保存を繋ぐこと、不規則に揺れ動く需要の波に対応すること、はきっと大変なんだろうと考えた。
、美味しさを生む変化や不揃いを作る技術や、それを長続きさせる技術の歴史はどういったものなのだろう。そして、そういった具体的な製法・技術とは別に存在するだろう、食べる側・飲む側が「美味しさ」を想像する助けとなる観念的なものには、どんなものがあるだろう。たとえば、「老舗の歴史」や「食べ物の由来」のような、飲食をより楽しめるような食べ物の背景にある物語の効果はどのくらいあるのだろうか。
2008-03-14[n年前へ]
■10万円札を浴槽に浮かべる「バブリーバブルバス」
『武藤鉦製薬「610ハップ」で温泉気分』のような自然の温泉を素朴に再現した昔ながらの入浴剤もあれば、それとは全く逆に現代の欲望を現代の技術で結晶化したような入浴剤もある。そんな「現代の欲望を現代の技術で結晶化したような入浴剤」が、バンダイが最近発売し始めた「バブリーバブルバス」だ。一万円札(額面は何と10万円だ)をイメージした紙状の泡入浴剤である。浴槽に(1回分として適当な)10枚程度浮かべると、1分間程度でその10万円札が溶けていくという。
(デザインは1万円札だが)10万円札10枚入り250円だから、100万円のお札を浮かべた浴槽に入ってみるのも面白い……かもしれない。そんな浴槽に浸かりながら、「豊かさ」と「貧しさ」、そのどちらを実感するかは、その人次第なのだろう。
「お客様は神様です」という言葉とともに、「消費者が望むだろう」と誰かが考えたものを誰かが作る。需要あるところには、必ず供給が生まれる。あるいは、今では、その逆にして、供給のあるところに需要が生まれていく。お客さまという神様たちの欲望に応えようと・欲望を生み出そうと、供給者が色んなものを作り出していく。