2000-02-21[n年前へ]
■「私の心」の円グラフ
私と好みが似てる人 その4
これまで、「できるかな?」では
- 「私と好みが似てる人」 その3- ドメイン一覧とreferer log - (1999.08.29)
- 「私と好みが似てる人」 その2- ログ解析の6ヶ月点検 - (1999.05.03)
- 「私と好みが同じ人」 - analogWindows版用のサブドメイン解析ソフトを作る - (1999.01.24)
前回から半年以上の時間が経ったので、今回も、「私と好みが似てる人」の解析を行ってみたい。今回の着目点は次のようなことである。
HIRAX.NETで記録されるreffer_logはHIRAX.NETへリンクが貼られているサイトのアドレスが記録されている。例えば、
http://umz.pos.to/Link/info.html -> /index.htmlというものであれば、「果テシナク続ク複数ノ零 」(きっと、Think Difficultを読んでいたのだろう。)を読んだ後にHIRAX.NETに訪れた、ということがわかるし、
http://www.hirax.net/index.html -> /dekirukana/moire2/index.htmlであれば、HIRAX.NET内の移動であることがわかる。また、
bookmarks -> /index.htmlであれば、ブックマークを使うことで、HIRAX.NETへ訪れたことが判るわけである。
また、実はリンクもブックマークでもなくて、「単に前にただ読んでいただけ(他のWindowで開かれているサイトでリンクが貼られていた場合など)」というものもたまには記録される。
このようにして、「私と好みが似てる人」達がどんなサイトを読んでいるかがわかるのである。最後に書いたように、reffer_logに記録されるのは、HIRAX.NETへリンクを貼っているサイトだけではないので、訪れる前に読んでいたサイトが(ある程度だであるが)わかるのである。
前回の、
では「HIRAX.NETへリンクを貼っているWEB作者を探る視点」から眺めた。今回は「私と好みが似てる人達がどんなサイトを読んでいるか」という視点から眺めてみたい。そして、「私と好みが似てる人」=「私」と考えて、私の好みを第三者的に考えてみたいのである。 話が変わるように思えるかもしれないが、私は「結果が全て」であると考えている(少なくとも、今の瞬間は)。「心の中で思っていて」も、口に出さなければ「思っていない」のと同じである。「掌の中の答え」は掌を開いてみなければわからない。
だから、他の人が自分に対して抱くイメージとは違う「ホントのオレ」があると主張してもしょうがない、と思うのである。「他の人が自分に対して抱くイメージ」=「ホントのオレ」であると思うのである。もちろん、「他の人が自分に対して抱くイメージ」をどう変えるかは自分次第だ。「掌の中の答え」は自分が決めるのだが、「掌の中の答え」を他の人に見せて、やっと「答え」になるのである。
話が長くなったが、「自分の好みはこうだ」と自分で言うのもなんなので、第三者的に「自分の好み」を探ってみることにしたのである。その材料はHIRAX.NETを読んでいる方(つまり、あなた)の読んでいるサイトである。これを読んでいるあなた自身がリトマス紙なのである。「私の好み」は「あなた自身の好み」でもあるのだ。
というわけで、今月前半のreffer_logよりHIRAX.NET外からリンクされた(あるいは移動してきた)、3276アクセスに対して解析を行った。reffer元を私が読んで、大雑把な分類をしてみた。用いた分類は、
- 読み物
- 検索
- コンピュータ
- 日記
- 雑情報
- エロ
- ニュース
- 画像
- 色
- 音楽
- ランキング
- 科学
- 深津絵里
- 製品情報
- イントラ内サイト
- 自然
- 文学
- ゲーム
例えば、
- 読み物 今日の必ずトクする一言 etc.
- コンピュータ お笑いパソコン日誌 etc.
- 雑情報 Fast & First etc.
reffer_logのreffer元がHIRAX.NETでない3276アクセスを分類したもの |
なるほど、「読み物(あぁ、なんて大雑把なくくりだ)」が三分の一を占め、以下「情報検索サイト(infoseekなど)」が1/5程を閉めている。そして、コンピュータ情報等だ。なるほど、それが「私の心の中の興味」と言われれば納得するものである。「科学」や「自然」がずいぶんと下位であるのが不思議なところであるが、まぁしょうがない。まぁ、こんなところだろう。
が、問題は次である。何故か、「エロ」サイトが6位にいるのである。これは、「IO= アイオー」ではない。「エロ = えろ=すけべぇ」である。
reffer_logのreffer元がHIRAX.NETでない3276アクセスを分類したもの |
これは、困った事態である。私としては、「オレはエロサイトよりニュースサイトの方をよく見るぞ!」と主張したいところである。いや、ホントに。しかし、先ほど
他の人が自分に対して抱くイメージとは違う「ホントのオレ」があると主張してもしょうがないと書いた所でもあるし、黙って受け入れなければならないだろう。何か、最近「できるかな?ってあれでしょ。ミニスカートの研究をしているスケベサイトでしょ。」と言われてたりするような気がしてしょうがないのだ… それも、また受け入れなければならないのだろうが…少し、悩んでしまう。
それとも、エロサイトを読んだ後に、心の清涼剤として「できるかな?」を読んでいるのだろうか?なるほど、それならわかる。納得だ。 うん、そういうことで納得しておきたい。
というわけで、先のグラフがが「私=これを読んでいるあなたの心の円グラフ」である。私の悩み=あなたの悩みでもあるはずだ。あなたの心の中には「エロ」が堂々6位に登場しているハズである。あなたの心はニュースより「すけべぇ」が好きなのだ。がんばれ、「私と好みが似てる人」。せめて、「ニュース」の方が上位に来るようにしてくれ…
2000-04-07[n年前へ]
■Canon Simplex +
オリジナルとコピーの追復曲
野田秀樹、NODA MAPの新作「カノン」が上演されている。観に行きたいのだが、距離のせいかなかなか見に行けそうにない。
観ていないので内容は知らないのだが、タイトルのカノンは「規範」を意味するギリシャ語のkanonだろう。英語で言えばcanonである。辞書でカノン(canon)を調べてみると、
- 規範、原則、標準、規準、根本原理 類似語 = "criterion"
- 基本的重要文献
- 真作品
- 教会法
- 聖書正典、正経
- 音楽形式のカノン、追復曲
- 48ポイントの活字
ちなみに、音楽形式としてのカノン=追複曲は、「主題としての一声部が応答としての他声部に模倣される形式」とある。「かえるの歌が聞こえてくるよ…」はその単純な例である。一つのメロディから導き出された旋律が重なり合っていくわけだ。あるいは、山下達郎の「クリスマスイヴ」の中間部のパッヘルベルのカノンといった方がわかりやすいだろうか。
音楽形式の「カノン」では、最初の旋律が主題であり原典である。そして、その模倣旋律が組合わさって、魅力的な音楽が作られていく。
ところで、「カノン」という言葉の意味の大きな割合を占める「聖書」という言葉を考えた時、音楽形式である「カノン」と似たようなものがある。
それは印刷技術である。と、書くと、唐突に感じるかもしれない。しかし、聖書の複製をきっかけとして広まった技術が、印刷技術である。それほど、関係がないわけではない。印刷技術は、グーテンベルク(ちなみに、今年はグーテンベルク= Gutenberg, Johann Gensfleischの生誕600年目である)の「42行聖書」から始った原典を複製する技術である。
印刷技術は、一つの原典から複数の複製物が作り出されていく。それは、一つの旋律から導き出された複数の旋律が追いかけていく、音楽のカノンそのものである。印刷技術はもうひとつの「カノン」なのである。
本来、「カノン」という言葉は「規準、原典、教典」を指すわけであるが、同時に、この「カノン」という言葉には「複製」という匂いがつきまとう。先の追復曲=カノン、そして印刷された聖書もそうだ。
グーテンベルクの「42行聖書」は200部程度印刷された。それらはいずれも色々な装飾がされ、同じ物は一つとしてない。どれも個性豊かなものである。音楽の「追復曲=カノン」でも、輪唱のようなごく単純なカノンを除けば、旋律は魅力的に変化されていく。旋律はどれも個性豊かなものである。個性がなければ、それはとてもつまらない輪唱に終わってしまう。
きっと、NODA MAPの「カノン」では野田秀樹の「言葉を繰り返し、次々と意味を転じさせて、そして、何者かを描写していく力」が発揮されるのだろう。考えてみれば、野田秀樹の「言葉を操るやり方」もカノンそのものである。模倣から始まったモノであっても、何かが新たに加えられていくならば、それは模倣でなくなって、きっといつかは原典になるのだと思う。逆に、あまりに原点としての「カノン」を守ろうとしたものは、それは単なる「コピー」に終わる。
さて、ところで「コピー」という言葉と「canon」という言葉を考えるとき、ある企業(が頭の中に浮かぶ。「Xerox」というオリジナル旋律に派生する企業である。
原典とされた「Xerox(富士ゼロックス)」はかつて、丸善石油のCM「オー・モーレツ!」を原典として、「モーレツからビューティフルへ」というCMを作り上げた。それは素晴らしい本歌取りである。60年代を代表する「オー・モーレツ!」という「キャッチ・コピー」を、「コピー」して、さらに変化させることで70年代へ繋がる「モーレツからビューティフルへ」という「キャッチ・コピー」を作り上げたのである。それはもう、一つの哲学であるといって良いと思う。
一方の企業は80年代に苺の「コピー」にミルクをかけてみせ、「本物と"コピー"の違いは見分けられない」というCMを作り上げた。原典と「コピー」に違いがあるのか?という問いかけである。それもまた一つの哲学だろう。
原典にこだわりすぎ、単なる「コピー」に終わるか、それとも、何者かを加え「本歌取り」としての「カノン」にすることができるか、それは「Vision」の有無にかかっている、のかもしれない。本当の「カノン」になるかは、「Vision」次第だ。そんなに深い意図はないし、適当に書いてみただけだけれど。
うーん、今回はやっぱり、「スクラップ」行きだな。(BGM & Title ゴルトベルグ変奏曲による14のカノンJ.S.Bach)
2000-06-13[n年前へ]
2000-09-07[n年前へ]
■草枕で遊ぶ
それが人間の科学なんだよ、と誰かが言った
どうしても割り切らないではいられない話だと知った時、それが人間の科学なんだよ、と...(半神)
私が大好きな演劇の一つに「半神」がある。レイ・ブラッドベリ・萩尾望都・野田秀樹の共作とも言うべきこの「半神」の中で1/2+ 1/2 = 2/4 という「螺旋方程式」の謎に対して
「その謎はひとごと(他人事)ではない。」というレトリックが使われていた。ここでは「ひとごと」という言葉の意味を巧みに切り替えて、「論理をすり替え」ている。こんなレトリックが私は気持ち良くて大好きだ。急斜面のコブを巧みにすり抜けていくスキーのモーグル選手みたいで、爽快な感じがするのである。
「ひとごと(人ごと)でないのだから、その謎は化け物に関わることだ。」
ところで野田秀樹ほど言葉遊びが巧みな人もそうそういないだろうが、この
「ひとごと(人ごと)でないのだから、その謎は化け物に関わることだ。」というもののオリジナルはもちろん夏目漱石の草枕の冒頭部だろう。その草枕の冒頭部分を部分的に抜粋するとこんな感じになる。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
この
「人の世が住みにくい」という巧みな論理はどうだろうか?私には実に爽快な自然な飛躍に感じられる。目的とする場所へ、巧みに言葉を切り替えていくことで自然に辿り着くこんなやり方がとても気持ちが良い、と私は思う。
->「人が作った世が住みにくいならば、人でないものの世なら住みやすいだろうか」
-> 「人でなしの国へ行くばかり」
-> 「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくい」
ところで、以前
でも挙げたとても面白いの中でもこの草枕冒頭部の論理のすり替えについて触れられていて、その中で漱石の「文学評論」中の「漱石とあたたかな科学」小山慶太著 講談社学術文庫
花は科学じゃない、しかし植物学は科学である。鳥は科学じゃない、しかし動物学は科学である。文学はもとより科学じゃない、しかし文学の批評または歴史は科学である。というレトリックに対しても
「文学のどこに観察、実験、数理解析が施せるのであろうか。」と書かれている。もちろん、「文学を味わうのは心であるべき」ということは言うまでもない。しかし、「文学のどこに観察、実験、数理解析が施せるのであろうか。」というところで思考を停止してしまうのは、実に残念であると私は思う。そこで、今回は「草枕」を題材に採って、いつものように単語解析をすることで、適当な考察をしてみることにした。「草枕」に対して数理解析をして遊んでみたい、と思うのである。
「草枕」は青年画家がブラブラしたり、ボうっと色々なことを考えたりする話だ。そして、いかに芸術が生まれるかということに考えてみたりするのである。例えば、冒頭では
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。という具合である。また、途中の部分では
して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。というように書かれている。
一体、青年画家がどんな時に「画」を書くのかどうかを知るために、他の単語の出現分布と「画」の出現分布を調べてみることにした。今回、ノミネートしてみた単語は「角」・「男」・「女」である。
角が立つ四角い人の世の中で三角のうちに住むのが芸術家であるならば、その「角」と「画」の相関は調べてみたいと思うハズである。また、これまでに様々な「男」と「女」の関係を考えてきた「できるかな?」であるから、やはりここは「男」と「女」もノミネートしないわけにはいかないだろう。
そこで、「画」・「角」・「男」・「女」の各語の出現分布を調べてみたのが次の各図である。もちろん、今回も前回
と同じく、wordfreqを使って解析を行った。 次に、「画」の出現分布に対するそれぞれの言葉の出現分布の相関値を計算してみよう(なお、計算の安定のために、適当な平滑化をここでは行っている。)主人公の青年画家がどんな時に「画」について考えたり、描こうとしたりするかを考えてみるわけである。その計算結果が次の表である。
角 | 男 | 女 | |
相関係数 | 0.08 | 0.09 | 0.21 |
そして、さらにこれをグラフにしてみたものが、下のグラフである。
おやおや、困ったなぁ。ちょっと、この「画」と「女」の相関の高さはちょっと異常だなぁ。「角」や「男」の出現分布の「画」に対する相関は0.1以下であるが、何と「女」は0.2を越えている。最初は、「画」と「角」を強引に結びつけて話を終わらせるつもりでいたのになぁ。これじゃぁ、主人公はヒロインを前にするときだけ芸術家になるみたいじゃないの。おかしいなぁ、こんな狙いじゃなかったのになぁ...まるで、「草枕」は漱石の前田卓へのラブレターみたいに思えてきてしまうではありませんか...
う〜ん、これはどっか間違えたかなぁ。まぁ、いいや。今日はもう眠いし。
ところで、「草枕」ではどのようにして文学・音楽・絵画などのさまざまな芸術が生まれて来るかが書かれている。そして、冒頭の「半神」でも、シャム双生児の姉妹とともに「螺旋方程式」の謎を追いかけるうちに、人の心を動かす孤独と音が生まれてくるようすが語られていく。
今回の相関解析では、「芸術は女を前にしたときに生まれる」というフザケタ結果に終わってしまったが、その真偽についてはまたいつか考えてみることにして、とりあえず今回は草枕の中の台詞で話を強引に終わらせたいと思う。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
2000-10-06[n年前へ]
■恋の分水嶺
ベクトルの彼方で待ってて
深夜に目が覚めてしまい、「探求心開発のすすめ - 「おかしい」と感じ、楽しく追求する事例集- 」北大路 剛 著 燃焼社セレクト教養双書ISBN4-88978-054-8を読んでいた。すると、「はじめに」面白い一節があった。
山の頂上が見えている間は、まだ、その麓にも達していない。山に登りはじめたら、山頂など全く見えはしない。次に踏み出す足をどの岩角に置くだけを考えて、少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達するはずである。「なるほどなぁ。そういうものかもしれないなぁ。だけど、仕事じゃぁそうはいかないような気もするがなぁ。頂上を極めるに至らなくても…とはなかなか言えないからなぁ。あと、次に踏み出す足の位置だけを考えていて、別の峰に登っちゃったらどうするんだろうなぁ。」などと思いながら惚けていた。すると、変なことを考え始めたので、それをここに書いてみることにした。
たとえ、頂上を極めるに至らなくても、その苦労に報いるだけのものは必ず得られるのだから。
次の図は「とある山」を示したものである。ちょうど富士山のような、広い裾を持つ孤立峰状の山である。
この「とある山」における「少しでも高い方向」を示してみたものが次の図である。
図中の各場所における矢印が「少しでも高い方向」を示したものだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」ことがよく判る。
とはいえ、その「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」のは孤立峰だからで、次の図に示すような山脈ではそうはいかない。
この図に示した山脈では、中央の山が他の山より高いのだが次の「少しでも高い方向」を示した図を見れば判るように、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。下の図では青い線で示したような分水嶺が存在して、それぞれの領域の中で「少しでも高いところへ歩を運べば」、その近くの高い部分には到達するが、「やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。当たり前である。
青い線が分水嶺 人々はそれぞれ塗り分けた領域で一番高い山に到達することになる |
例えば、この図の向かって左上側から山に登り始めた人は、必ず青色の領域に入る。だから、青色の丸で示した頂上(実は一番高いわけではない)に登ってしまう。同じように、登り始めたのが右上なら、緑の頂上に登ってしまう。もし、赤色の丸で示した一番高い頂上に登ろうと思ったら、向かって下側から登らなくては頂上にはたどり着けない。
富士山のような形の山はそうそう見かけないのに対して、そうでない形の山はとても多く見かけるのだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」というのは実は一般的にはそうそうありえない話のように思われる。
さて、これはこれまでも考え続けてきた「恋」の問題についても同じだろう。次の図に示すように「マドンナ」が一人しかいない状態では、その「マドンナ」の周りの「恋ポテンシャル」だけが高くなっている。
そのため、こんな「恋ポテンシャル」下での「恋のベクトル」を描いてみると、こんな感じになる。「男はみんな彼女の虜、彼女にみんな引き寄せられる」のである。「恋における孤立峰」での「恋のベクトル」の先には必ず「彼女(別につき合うという意味での彼女ではない)」がいるのである。
それに対して、先程と同じようにこんな「恋の山脈」を考えたらどうなるだろうか?A子、B子、C子という三つの山からなる「恋の山脈」である。
この場合の「恋の山脈」での「恋のベクトル」は先程と同じくこの図になる。つまり、あなたにとって客観的には一番魅力的なのはA子にも関わらず、恋の力に導かれるまま動いていったとしても、必ずしもA子に辿り着くわけではないのである。 さきほどの山と同じく、この場合にも「恋の分水嶺」があって、アプローチをし始める場所によって、B子の方に行ってしまったり、あるいは、C子の方に行ってしまったりするのである。ベクトルの彼方で誰が待っているかは、アプローチ次第だったりするのだ。
というわけで、「実際の山脈」でも「恋の山脈」でも、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではないのだ。
とはいえ、見晴らしのきく頂上に登ったりすると、今度は他の(もっと高そうな)頂上が見えてくるわけで、もう一度そっちへアプローチし始めるなんてこともあるだろうから、結局は「一番高いところ」へたどり着けることもあるのかもしれない。それに、「実際の山登り」でも「恋の山登り」でも道に迷ったりして、思いも寄らぬ方向へ行ってしまうことはよく?あるわけで、そんな時に「恋の分水嶺」を越えてしまうなんてこともよくありそうな事態ではある。
もっとも、「実際の山登り」ならともかく、「恋の山脈」の方では「結婚」なんて状態もあったりするわけで、実はそうそう他の場所へ動けない場合も多いだろう。そんなことを考えるだけでも、これまた大変そうな状況も想像されるのがオソロシイところだ。
そう言えば、この「探求心開発のすすめ」の「はじめに」の中には、私がもう一つとても面白いなぁと思ったフレーズがある。それは、
古くより、「必要は発明の母」と言われていますが、これにならえば「疑問は学問の父」であると言えるのではないでしょうか。という一節である。この一節からは何やら、
- 「必要」という足が地に着いている女、と
- 「疑問」という何か浮世離れした男
いや、何を書いているのだ。そんな話を書こうとしたのではなくて、つまり「色々な疑問」は「学問の父」ってことで、例えそれが結婚システムへの疑問だとしても、それは単に一例にすぎない、ってことで…