hirax.net::Keywords::「ピラミッド」のブログ



2005-10-20[n年前へ]

「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」 

 クールビズやウォームビズについて、少し考えたことがある。その時に思ったことが、「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」ということだ。クールビズやウォームビズが、その目的とする地球温暖化防止の役に立つかは疑問だと私は思っている。「論理は間違っていないけれど、実効性に乏しい」というのではなく、その論理自体に懐疑的なのである。

 しかし、その論理が「正しい」か否かとは無関係に、クールビズやウォームビズは何よりビジネスとして成り立っているようである、つまり巡り巡って人の生活維持に役にたっているようだ。それは、よく言われるピラミッド建設の「エジプト国民救済のための公共事業」という効用に似ているように思う。ピラミッド建設の目的がなんであれ、あるいはその目的達成のための論理が正しいのか迷信なのかとは関係なく、ビジネスとしての効用があるということと、クールビズやウォームビズの効用が似ている、という感じだ。

2005-11-23[n年前へ]

「よかった探しリース 2005」 

 毎年恒例の「よかったことを思い出したり、考えたりしてみる」という「よかった探しリース 2005」(ここの右手左手) これから一ヶ月の間に、つらつらと考えながら3つの「よかったこと」を考えてみることにしましょうか。
■よかったこと 1: 「おれカネゴン」先生のサインをThinkpadにしてもらったこと
■よかったこと 2: ティオティワカンのピラミッドに登れたこと
■よかったこと 3: メキシコ・シティでLuの"Sera"を買ったこと

2006-05-08[n年前へ]

「組織生態系シミュレーション」「フェルメール」「眼鏡」 

 今日の「LINK n年前へ」は「生態系ピラミッドシミュレーションを違うピラミッドとして眺める」「現代のフェルメール」と「水彩画のフェルメール」「眼鏡橋を心の中ににかけてみたい」などです。

偉い人が壊れても下っ端が残ることはありますが、下っ端が壊れると必ず偉い人が全部壊れちゃいます。偉い人が偉いのではなく、偉い人は大量の下っ端に支えられてやっと存在しているのだとか
自分と正反対の自分二つの自分によって作られた眼鏡をとおしてもっといろんなモノを見てみたい

2007-09-21[n年前へ]

「画像処理+Wiki」 → 「画像処理」 + 「Wiki」 

 Rails の勉強がてら作っていた 画像処理+Wiki アプリを手放し、次のアプリを作り始めた。"Our Axes"という名前のWiki アプリケーションと、画像処理に特化したアプリケーションだ。

いつも、「今日」という日を過ごしているはずなのに、その日見た景色が「今日見た景色」でなくなっていくのは少し不思議なことです。
 Wiki アプリを作ろうと考えると、自分の中で「Wikiという言葉で表される、作りたいもの」が、偏っていることに気づく。作りたいのは、「言葉に対して定義を書くことができて」「言葉同士が繋がっているもの」だ。
ふたたび日曜日が そうしてふたたび月曜日がふたたび曇り ふたたび晴れしてその先に何がある?
そして、画像処理+Wiki アプリ で"言葉""キーワード"を"イメージ"にすり替えようとしたように、作りたいのは、「言葉でなく"イメージ"に対して、定義を書くことができて」「その"イメージ"同士が繋がっているもの」だ。
疲れたので、明日からピラミッドの中でエネルギーを充電してきます。
 言葉でなく"イメージ"というからには、人それぞれによって"イメージ"が違う。もちろん、本来、言葉だって人それぞれによって定義が違うけれど、いわゆるWikiの流れを組むツールではそれが明示的に見えないのが、好みでない。
 とはいえ、「昨日見た景色」が「今日見た景色」と違うわけではないし、景色を眺めている私もやっぱり同じ私です。だから、やっぱりどれも「今日見た景色」だと思うのです。
 とはいえ、そんな"イメージ"だけがあったところで、作ってみないことには始まらない。というわけで、曖昧なイメージを形作り始める。

2008-03-28[n年前へ]

「物語が語られる順序」と「因果関係」 

 「ゲームの右と左 マリオはなぜ右を向いているのか」という「上手と下手」に関する記事を読んだ。こういった、上手・下手もしくは左・右といった辺りのことは、スライド・デザインにおける「上手と下手」、もしくは、「上手と下手」のブログで調べたこと・感じたこと・書いていることから、特に自分の中で変わっていることはない。

 けれど、左右や上手・下手という軸でなく時間軸というものを考えると、たとえば、物語が語られる時間軸というものについて考えると、いくつも新しく感じたこと・納得したことがあった。そのひとつが、北村薫「ミステリは万華鏡」(集英社文庫)の中で語られていた「順序」というものである。

 最も簡単な物語の語り方は、はじまりから始め、物語が終わるまで、あるいは聞き手が寝るまで話すというものである。
   「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ

 「物語が語られる時間軸」というのは、物語が時間軸のどの地点から始まり(読者に対し語られだして)、どの時点に収斂していくか 、ということである。もしも、いたって原始的な物語であれば、背景から話を始め、原因・過程を話し、そして結果を話すことになる。

 あるいは、その逆に、たとえば推理ドラマであれば、まず冒頭で、「事件が起こる前・過去」と「ぼやけた形で描かれる事件が起こった瞬間」が描かれる。そして、そのあとの物語は、その瞬間・時点へと逆に遡っていくのが普通である。つまり、結果から原因・背景へ向かっていくのが通常のミステリの「方向性」である。
 語りの順序における斬新な実験の例として思いつくものは、ほとんどが犯罪や悪行や道徳的・宗教的な罪に関するようなものである。
   「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ
 だからこそ、たとえば刑事コロンボの場合は、その物語が語られる時間方向性が、原因→結果という時間の流れそのまま、というところに「意外性」があったわけだ。

 北村薫は「語りの順序が、現在→過去というように流れる物語」に関して、このようなことを書いている。内容を抜粋するために、少し書き方を書き直すならば、それはこのようになる。

 ピラミッドを逆さまにしたように、最後に「出発点・背景」が描かれれば、その一点は、物語の冒頭から語られた「それ以降に起こったこと」のすべて重みがのしかかる。そして、出発点はその重みに歪み、過去と未来のコントラストは、ますます鮮やかになるのだ。

 「普通人間のいちばん好きな考え方は因果関係です」と言ったのは心理学者の河合隼雄で、「人は、因果関係を納得しやすい。というか、因果がないと、物事の関係性を納得しにくい生き物なんだよね、人って」と書いたのは、小説家の新井素子だ。

 彼らの言葉を、「物語が語られる順序」と「因果関係」が描かれたパズルのピースを並べようとするなら、どんな風に人は並べたがるものだろうか。あるいは、そんなピースに描かれた模様は、人によってどのように違って見え、どのように違って組み合わされるものだろうか。



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