2008-11-05[n年前へ]
■昔の野球は、バッターに今よりずっと近い位置にピッチャーがいた
(「ダイアモンドの中心にピッチャーマウンドがあるか?」の続きです)「野球」のルーツには色々な意見がるが、現在の野球ルールの大部分は、1842年頃にニューヨーク市内の紳士クラブが作った「ニューボッカーズ・ベースボール・クラブ」という社交クラブから始まった、と言われている・・・という。「ニューボッカーズ・ベースボール・クラブは、各ベース間の距離を決めた。それが90フィート(27.431m)である。それは、今の野球規則で定められている距離と同じだから、つまり、野球場の「ダイアモンド」は一世紀半以上大きさが変わっていない、ということになる。
しかし、ホームベースとピッチャー・プレートの距離は違う・・・らしい。書籍を調べていくと、「ニューボッカーズ・ベースボール・クラブ」が作ったルールでは、その距離は45フィート(13.7m)だったという。つまり、今より5m近く短いのである。ということは、ピッチャーは「ダイアモンド」の中心より遙かにバッターに近い位置で愛を叫んでいた、ということになる。
それから数十年後の1881年に、ホームベースとピッチャー・プレートの距離は50フィート(15.24m)に変わり、そして、それからすぐの1893年に18.44mという現在と同じ距離に変更されたのである。ここで、ようやく「野球場のダイアモンドの中心近く」がピッチャーの位置となったのである。
まだまだ、キャッチボール(というよりピッチング)にしかはまっていないのだけれど、ピッチングのテキストを読みあさったり、野球経験者にアドバイスを受けていると、野球の沼の奥の深さにはまりまくる今日この頃だ。
2009-10-31[n年前へ]
■「マンハッタン距離」と「続 理系風デート」
万城目学のエッセイ集「ザ・万歩計 」のこんな一節を読んだ。
京都の生活には、自転車がよく似合う。いわゆる京都市内、つまり、山あり谷ありではない市内を移動するには、確かに自転車が一番適している。周辺部以外には、曲がりくねった道はなくて、道はすべて真っ直ぐ東<->西か南<->北方向に走っている。だから、どこに向かうにもただ、目的の方向に進み・曲がればいいだけだ。
出発地から目的地まで行くのにかかる時間を見積もる、つまり、出発地から目的地まで行く経路の距離を計算するのだって、とても簡単だ。上に書いたように、平安京の時代からある京都市内中央部は、碁盤の目状に道が配置されている。だから、経路の距離は「マンハッタン距離」で計算することができる。東京の街中なら、不定形の道に沿って線積分する必要があるだろうし、野原の真ん中なら…少しは単純だけれど「ユークリッド距離」を計算するために平方根(ルート)を計算してやらなければいけない。そんな計算は面倒だ。しかし、京都市内は違う。
「京都市内の距離空間はマンハッタン距離で計算できるのがいいね」といった、自転車に乗りながらの理系風会話が日常的にしやすい。もちろん、「マンハッタン」距離なんていう一見オシャレに響く言葉を使っているので、理系風デートで使えなくもないフレーズである。
「目的地までの東西距離と南北距離を足すだけでいいから、計算が簡単でいいよね」
「どの平方根…じゃなかった、ルートでも距離は同じだしね」
しかし、その後に、こういうウンチクを口にし始めてしまったりすると、しかもそれが「理系風デート」ならその時点で「終了」していまうことが多い。
あれ?マンハッタン距離を考えたヘルマン・ミンコフスキーって、機動戦士ガンダムのミノフスキー粒子と関係あるのかな?これで会話が続いたら、単なるガンダムおたくである。まさに、「若さゆえの過ち」「ぼうやだからさ」状態である。
…とにかく、京都の町には自転車が良く似合う。先の万城目学のエッセイ「都大路で立ちこいで」でも、最後の一文はこう終わる。
自転車で京都を走ることが掛け値なしに楽しい、ってことだけは、本当なのだ。京都の町に行くのなら、自転車を借りて市内を散策するのが一番いいと思う。紅葉間近のこの季節、天気の良い日なら、乗りやすいマウンテンバイクでも借りて、体育会風に(できれば2,3日かけて)京都を一周してみるのもいいと思う。それがたとえ、1日だけでも、やはり自転車で京都を走ってみたならば、バスや列車で街を離散的に巡るよりも、ずっと素晴らしく連続的な京都の街を知り・同時に楽しめると思う。
「理系」と「文系」と言った話より、「頭」と「体」とか、「情緒/心/感情」と「論理」といったことの方に、今は魅力と確かさを感じる。自転車で巡る京都の町の魅力はは、少なくとも「体」と「情緒/感情/心」といった辺りの中心部を貫くと思う。
2010-07-16[n年前へ]
■近づこうとしないとわからない「大きさ」や「距離」がある
自転車でツーリングをしている途中、遠くに見える林の上に仏像の頭が見えたような気がしました。そこで、その方向に、自転車を走らせてみたのです。しばらくすると、時折、景色の向こうに仏像の姿が見えるようになり、次第にそれが立っている大仏であることがわかってきました。
ただ、結構自転車のペダルを漕ぎ続けているような気がするのに、集落を超え、林を超え、10km以上走り続けても、なかなかその大仏は近づいてこないのです。
ただ、大仏の大きさだけは、着実に大きくなっていきます。近くの建物の上に姿を見せたと思えば、送電線を空に高く吊るす鉄塔の上にさらにそびえるようになり、そして、ついには、大仏の手がはるか下の鉄塔に手かざしをしているかのように見えてくるのです。
ようやく、大仏の近くにたどり着いたときには、他の何とも比べようがなく、青空に浮かぶ月の横に並び立っているようにしか見えない状態になっていました。
「近づかないと大きさがわからない」ということもある、と実感しました。そして、大きなものに近づこうとするときには、その大きなものまでの距離は、当然のごとく、長く遠い道のりであるということを、大仏を見上げながら考えました。
たとえば、富士山を麓の街から眺めるとき、すぐそこにあるように思われても、実際には富士山頂までの距離は50kmを遥かに超えていたりすることがあるように、大きなものまでの距離は、何だか近く感じてしまう錯覚があるのかもしれない、などと熱中症気味の頭で想像してみたのでした。
よく、この人は凄いなぁ、と思うことがあります。そして、そういった人たちに近づこうと、努力してみることもあります。けれど、ほとんど多くの場合、そういった人たちと同じようなことができるようになろう・近づこうとする努力の途中で挫折してしまいます。挫折する理由のひとつは、その人たちまでの距離があまりも遠い、と感じてしまうことがあります。けれど、その挫折するまでペダルを漕いでみたことで、その人たちの大きさをもっとたくさん実感できる、という喜びもあります。
近づこうとしてみないと、そして、少しは近づいてみないとわからない「大きさ」や「距離」がある。大仏の足の指よりずっと下で、私が考えていたのはそんな情けない、悟りともいえない理解だったのです。
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2010-07-17[n年前へ]
■「距離」と「遠近感」が生み出す、楽しき「大きさの誤謬」
近づこうとしないとわからない「大きさ」や「距離」があります。巨大な大仏の足元で、そんなことを思いました。そんなことを考えているうちに、いつの間にかうたた寝してしまいました。起きると、すでに空は夕焼けで赤く染まっていて、大仏はその夕暮れの中でそびえていたのです。
その大仏を見ながら、「距離」が離れているから「大きさ」がわからないからこそ面白いこともあるかもしれない…と寝ぼけ頭で思いました。そういうわけで、こんな写真を撮ってみました。「とても小さな大仏さまの掌に、指先で触れてみた」という写真です。薄暮の空の中に佇(たたず)む”小さな”大仏さまに、人差し指で触れてみたのです。
遠近感の錯覚をケータイの画面中に眺めながら、「距離」が離れていて「大きさ」がわからないからこそ面白いこともあるかもしれない、なんてことを昼寝後の頭の中で考えました。大仏の大きな掌の下で、そんな錯覚があるからこそ近づこうとする努力ができるのではないかと、そんな妄想をしたのです。
2010-10-14[n年前へ]
■他人のままでいられるギリギリの距離≒6cm!?
「男女が向き合ったときに、他人のままでいられるギリギリの距離が推定6センチであると考え、その先はきっともう言葉も音楽も侵入不可能だろうから、そのギリギリまではきっちり侵入しちゃいますぜおくさん!!」という意味と「ロックバンドにしては曲がどれもこれもセンチメンタルすぎる」の頭文字をとって「ロクセンチ」と命名されました。「他人のままでいられるギリギリの距離≒6cm」という式には色々な感想がありそうだけれど…下に貼り付けたのは、ロックでセンチなロクセンチの「レイトショーを観にいこう 」。